金田一耕助ファイル6    人面瘡 [#地から2字上げ]横溝正史   目次  |睡《ねむ》れる花嫁  |湖《こ》|泥《でい》  |蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》|島《とう》の情熱  |蝙《こう》|蝠《もり》と|蛞《なめ》|蝓《くじ》  |人《じん》|面《めん》|瘡《そう》     睡れる花嫁      一  ちかごろは凶悪な犯罪や陰惨な事件がつぎからつぎへと起こって、ほとんど応接のいとまもないくらいだが、これからお話しようとする「|睡《ねむ》れる花嫁」の事件ときたら、その陰虐さにおいて比類がなく、この事件の真相が究明されたときには、さすがに大犯罪や怪事件に|麻《ま》|痺《ひ》した都会人も、あっとばかりに|肝《きも》をつぶしたものである。  それは凶悪であるばかりでなく陰惨であった。陰惨であるばかりでなく不潔であった。しかもあいついで起こった陰惨にして凶悪、凶悪にして不潔な「睡れる花嫁」事件の底には、ほとんど常識では考えもおよばぬような、犯人のゆがんだ|狡《こう》|智《ち》と計画がひそんでいたのだ。  さて、それらの事件の露頭がはじめて顔を出したのは、昭和二十七年十一月五日の夜のことだったが、その|顛《てん》|末《まつ》というのはこうである。  その夜十一時ごろ、S警察署管内にあるT派出所づめのパトロール、山内巡査は受持区域を巡回すべく、十一時ごろ、同僚の石川巡査と交替で派出所を出ていった。  人間の運命ほどわからないものはなく、これが生きている山内巡査を見る最後になろうとは、石川巡査も気がつかず、また、当の本人、山内巡査も神ならぬ身の知るよしもなかった。  しかし、あとから思えば虫が知らせたというのか、山内巡査は出るまえに、石川巡査とこんな会話をかわしたそうだ。 「いやだなあ。また、あのアトリエのそばを通らねばならんのか。おれゃ、あのアトリエのそばを通るとき、いつもゾーッと総毛立つような気がするんだ」 「あっはっは、そんな|臆病《おくびょう》なことをいってちゃ、この職業は一日もつとまらない」 「いや、おれ自身、そんな臆病な人間とは思っちゃいない。巡回区域のなかにゃ、もっともっと|淋《さび》しいところもあるんだが、あのアトリエだけは苦手だな。いまいましい、どうしてはやくぶっこわしてしまわないのかな」 「そんなことをいったって、持ち主の都合もあるんだろう。まあいいからはやくいってきたまえ。いやな仕事を片付けて、あとで何かあったかいものでもおごろうじゃないか」 「ふむ、そうしよう、じゃ、いってくるよ」  そうして山内巡査は出かけたのだが、それきり生きてふたたび、派出所へ帰ってくることはなかったのである。  いったい、S警察署のあるS町というのは郊外のそうとう高級な住宅街で、やたらに樹木が多く、夜などたいへん|淋《さび》しい町だ。しかも、そこにはS学園という、幼稚園から大学まで包括する大きな学校もあり、昼間の人口と夜の人口とのあいだに、そうとうのひらきがあるといわれるくらい、夜ともなれば静かなところである。  おまけに、山内巡査の受持区域というのが、S学園からS町のはずれへかけての、この町でもいちばん淋しい区画だ。山内巡査はこの区域を、いつもあんまり好んでいなかったが、夜のパトロールのときはことにいやだった。  それというのが、さっき石川巡査とのあいだに話が出た、あのアトリエのことがあるからだった。そのアトリエというのは、S学園の建物を通りすぎて、人家もまばらな畑地ヘさしかかると間もなく、向こうに見えてくるのである。  それはもう長く住むひともなく、荒れるにまかせてあるうえに、いちばん近い隣家からでも、百メートル以上も離れており、おまけに|亭《てい》|々《てい》たる杉木立にとり囲まれて、めったに陽のさすこともなく、昼間見ても、ゾーッと総毛立つほど陰気で、いかにも|曰《いわ》くありそうな建物なのだ。  しかも、じっさいそのアトリエには、世にも陰惨な歴史があるのだ。  それはまだ山内巡査がこの土地を知らないまえの出来事だったが、いつか同僚の石川巡査から聞かされた、その陰惨なエピソードの記憶が、夜の巡回の途次など、ことになまなましく|脳《のう》|裡《り》によみがえってくるのだ。  それはいまから数年まえの出来事だった。  当事、そのアトリエには|樋《ひ》|口《ぐち》|邦《くに》|彦《ひこ》という画家が、細君とふたりきりで住んでいた。樋口邦彦というのは、その当時の年齢で、四十近かったそうだが、それに反して、細君の|瞳《ひとみ》というのは、まだ若い、しかし病身そうな女であった。  じっさい、瞳は肺をわずらっていたのだ。彼女はそれより一年ほどまえまで、銀座裏のキャバレーで、ダンサーとして働いていたところを、樋口邦彦と相知って、|同《どう》|棲《せい》することになったのだが、キャバレーにいるころから、ときどき|喀《かっ》|血《けつ》していたという。  しかも、その病勢は樋口と同棲することによって、快方に向かうどころか、いっそう|昂《こう》|進《しん》していった形跡がある。げんに瞳がそのアトリエに住むようになって以来、定期的に診察していた医者は、ふたりに別居するようにと、|切《せつ》にすすめたそうである。彼らの異様な愛欲生活が、女の病勢をつのらせていることが、はっきりわかっていたからだ。  しかし、瞳は笑ってとりあわず、樋口も彼女を手離さなかった。  変わり者の樋口は、近所づきあいというものをほとんどやらなかったが、それでもご用聞きやなにかの口からもれて、彼の瞳にたいする熱愛ぶりは、近所でも知らぬものはなかった。  それは瞳の病勢が、いよいよつのってきた八月ごろのことである。  旦那さんが病室へたらいを持ち込んで、まるで、赤ん坊に行水をつかわせるように、奥さんのからだのすみずみまで洗っていただの、奥さんのおしもの世話は、いっさい旦那さんがおやりだの、それでいて、毎晩旦那さんは奥さんといっしょにおやすみだのというような、顔の|赧《あか》くなりそうな|噂《うわさ》が、ご用聞きの口からもれて、聞くひとの|眉《まゆ》をひそめさせた。  そのうちに十月になると、だれももう瞳の姿を見なくなった。声も聞かなかった。  ご用聞きが|訊《たず》ねると、奥で寝ている、近ごろはだいぶん|快《い》いほうだと、樋口はにこにこしながら答えた。その様子にはべつに変わったところも見られなかった。  だが、そのうちに樋口は、ご用聞きたちをしめ出してしまった。表も裏もしめきって、必要な品は自分で店まで買いにいった。  そういう樋口の様子に、ここにひとり、疑惑を抱くものが現れた。それは酒屋の小僧の|浩《こう》|吉《きち》という少年で、町でも評判のいたずら小僧だった。  彼はある日、樋口が買物に出かけるのを待って、垣根のなかへ忍びこんだ。瞳の病室はアトリエから廊下づたいでいける日本座敷であることを、浩吉はまえから知っている。  ところがその病室には雨戸がぴったり閉まっていた。いや、病室ならず、どこもかしこも、雨戸や|鎧扉《よろいど》が閉まっていた。  浩吉の胸はいよいよ騒いだ。結核患者にとって、新鮮な空気が何よりも必要なことを浩吉も知っていた。だから風のない日には、どんな寒い季節でも、瞳はガラス戸を開放して寝ていた。それにもかかわらず昼日中から、雨戸をぴったり閉めきっているとは……?  そのことと、もうひとつ、浩吉の胸をはっと騒がせたものがあった。それはどこからともなく|匂《にお》うてくる、なんともいえぬいやな匂いだ。胸がむかむかするような、吐気をもよおしそうないやな匂い……、しかも、どうやらそれは雨戸のなかから匂うてくるらしいのである。  浩吉は思わず武者ぶるいをした。彼はいまや好奇心と功名心のとりこになっていたのだ。ひょっとすると、自分が世にも異様な犯罪の発見者になるかもしれないという自覚が、彼に武者ぶるいをさせてやまなかった。  浩吉はどこかなかへ忍びこむ|隙《すき》はないかと、家のまわりを探して歩いた。そして、アトリエの窓の鎧扉のひとつが、かなりいたんでいるのに眼をつけた。いたずら小僧の浩吉には、それをこわして、そこから忍びこむくらいのことは朝飯前だ。  浩吉はこの家の間どりをよく知っている。アトリエから廊下づたいに、薄暗い病室のまえまでくると、|襖《ふすま》の向こうからまたしても、胸のむかむかするようないやな匂いが、いまにも|嘔《おう》|吐《と》をもよおしそうなほど強く匂ってきた。  浩吉はぐっとひと息吸いこむと、それから思いきって襖をひらき、手さぐりに壁ぎわのスイッチをひねった。  と、そのとたん、この季節にもかかわらず、おびただしい|蠅《はえ》がわんわんと飛び立ち、お座敷用の低いベッドのなかに、世にも気味の悪い死体が横たわっているのを発見したのである。  浩吉のような子供にも、ひとめ見てそれが死体とわかったのは、それが死後、そうとうの時日が経過して、かなり腐乱の度がすすんでいたからだ。あのまがまがしい臭気と、おびただしい蠅は、その腐乱死体から発するものだった……。  この陰惨な事件は、当時大センセーションをまき起こした。  樋口邦彦はただちに逮捕され、死体は解剖に付された。しかし、他殺の|痕《こん》|跡《せき》はなく、大|喀《かっ》|血《けつ》による死亡であることが確認された。  だから、ただそれだけならば、死亡届を怠り、死体をいつまでも手許においたという罪だけですむのだろうが、世にもいまわしいことには、その死体に死後も|愛《あい》|撫《ぶ》されていたらしい形跡が、歴然と残っていたことである。  それについて、樋口邦彦はこういったという。 「それは故人の遺志だったのです。瞳は息をひきとるまえに、わたしに向かってこういったのです。わたしが死んでも火葬になどせず、いつまでもおそばにおいて愛しつづけてくださいと……」  樋口はもちろん精神鑑定をうけた。しかし、べつに異常をきたしているふうもなかった。かれは起訴され、断罪された。いま刑務所にいるはずである。  その後、アトリエに付属する建物はとりこわされて、どこかへ転売されていったが、アトリエのほうは立ちくされたまま、いまも無気味なすがたをさらしているのだ。      二  さて、まえにもいった昭和二十七年十一月五日の夜、このアトリエのまえまでさしかかった山内巡査は、アトリエの窓からもれる明かりを見、思わずぎょっと足をとめた。  その明かりというのは、どうやらマッチの火らしく、一瞬にしてめらめらと消えてしまったのだから、もし山内巡査がとくべつに、このアトリエに関心をもち、無意識のうちにも注目していなかったとしたら、気がつかずに通りすぎていたかもしれない。それに気がついたのが山内巡査の不運だった。  山内巡査は危うく立ち枯れそうになっている、杉の|生《いけ》|垣《がき》に身をよせて、いま明かりのもれた窓を注視していたが、二度と明かりはもれず、そのかわりどこかで|蝶番《ちょうつがい》のきしる音がした。だれかがアトリエの扉を開いたのだ。  山内巡査が小走りに、門のほうへ走っていくのと、門のなかからひとりの男が飛びだしたのと、ほとんど同時だった。相手は山内巡査のすがたを見ると、ぎょっとしたように、大谷石の門柱のそばに立ちすくんだ。 「君、君」  と、山内巡査は声をかけて、懐中電灯の光を向けながら、その男のほうへ近よった。  懐中電灯の光のなかにうき上がったのは、|鳥《とり》|打《うち》帽子をまぶかにかぶり、大きな黒眼鏡をかけ、|外《がい》|套《とう》の|襟《えり》をふかぶか立てた、中肉中背の男のすがただった。男は外套の襟を立てているのみならず、マフラーで鼻から口をつつんでいるので、顔はほとんどわからない。  それがいっそう山内巡査の疑惑をあおった。 「君はいまあのアトリエのなかで何をしていたんだね」  山内巡査はするどく訊ねた。 「はあ、あの……」  相手はまぶしそうに懐中電灯の光から眼をそらしながら、低い声でもぐもぐいったが、山内巡査にはよく聞きとれなかった。 「君はこの家が空き屋だということを知ってるかね」 「知ってます」  相手はあいかわらず低い|不明瞭《ふめいりょう》な声である。 「その空き家のなかでいったい何をしていたのかね」 「ここはぼくの家ですから」  山内巡査はそれを聞くと、思わずぎょっと相手の顔を見直した。しかし、あいかわらず鳥打帽子と黒眼鏡、マフラーと外套の襟で顔はほとんどわからない。 「君の名は……?」 「樋口邦彦……」  低い、陰気な声である。  山内巡査は何かしら、総毛立つような気持ちがして、思わず一歩しりぞいだ。かれはここへくるみちすがら、樋口という男のことを考えていたのだ。 「樋口邦彦というのは君かあ?」  山内巡査は思わず問い返したが、相手はそれにたいしてなんとも答えず、あいかわらず無言のまま門柱のそばに立っている。  山内巡査はまたあらためて、黒眼鏡の奥をのぞきこんだが、あいにく懐中電灯の光を反射して、眼鏡が黄色く光っているので、その奥にどんな眼があるのかわからなかった。  なるほど、しかし、樋口邦彦なら顔を隠すのもむりはないと山内巡査は考えた。この近所では顔を知られているのだろうし、昔のあさましい所業を思えば、とても顔を出してはおけないのだろうと、山内巡査は善意に解釈した。だが、しかし、|訊《き》くだけのことは訊かねばならぬ。 「しかし、樋口邦彦なら、いま刑務所にいるはずだが……」 「最近出所したのです」 「いつ?」 「一か月ほどまえ……」  山内巡査はちょっと小首をかしげて考えた。このまま見のがしてよいだろうか。……しかし、なんとなく不安である。 「とにかく、ぼくといっしょにアトリエヘ来たまえ。そこで君が何をしていたか聞かせてもらおう」  しかし、相手は無言のまま門柱のそばを離れようとしない。 「おい、こないか」  相手のそばへ立ちよって、その手をとろうとした山内巡査は、どうしたのか、突然、 「ううむ!」  と、低い、鋭いうめきをあげると、そのまま骨を抜かれたように、くたくたとその場にくずれていった。見ると、樋口邦彦と名のる男の右手には、血に染まった鋭い刃物が握られている。  黒眼鏡の男は相手が倒れるのを見ると、ひらりとその上を飛びこえて、そのまま|闇《やみ》のなかを逃げていく。  山内巡査は腰のピストルに手をやったが、もうそれを取り上げる気力もなかった。  あのアトリエの隣家(と、いってもまえにもいったとおり百メートル以上も離れているのだが)に住む、村上章三という人物が、その場に通りかかったのは、それから五分ほどのちのことである。  村上氏は門柱のそばに落ちている懐中電灯の光に眼をとめて、不思議に思って立ちよってきた。そして、そこに|血《ち》|糊《のり》のなかにのたうちまわっている山内巡査を発見したのだ。  さいわい、村上氏のうちには電話があったので、ただちにこの由が警察へ報告され、係官が大勢どやどやと駆けつけてきた。山内巡査の体はすぐにもよりの病院へかつぎこまれたが、そのころにはまだ山内巡査の生命もあり、意識もわりにはっきりしていたので、樋口邦彦なる人物を、職務訊問した顛末が虫の息のうちにも語られた。山内巡査はそれを語り終わって、不幸な生涯をとじたのである。  そこでただちにこの由が警視庁へ報告され、警視庁から全都にわたって、樋口邦彦の指名手配がおこなわれたが、いっぽう例のアトリエは、S署の捜査主任井川警部補と、二、三の刑事によって取り調べられた。そして、そこに世にも驚くべき事実が発見されたのである。  いったい、建物というものは、住むひとがないと、かえっていっそう荒廃するものだが、そのアトリエも御多分にもれず、ものすごいほどの荒れようだった。雨もりが激しいらしく、したがって床のある部分はぼろぼろに|腐朽《ふきゅう》していて、うっかり脚を踏みこもうものなら、そのままめりこんでしまうおそれがあった。|蜘《く》|蛛《も》の巣が一面に張りめぐらされ、壁土はほとんど|剥《は》げ落ちていた。  井川警部補と三人の刑事は、順にかかる蜘蛛の巣を、気味悪そうに払いのけながら、懐中電灯をふりかざして、このアトリエのなかへ入っていったが、突然、刑事のひとりが、 「あっ、主任さん、あんなところに|屏風《びょうぶ》が張りめぐらしてある!」  と、叫びながら懐中電灯の光を向けた。  見ればなるほど、アトリエのいちばん奥まったところに、屏風が向こうむきに張りめぐらしてある。  この荒廃したアトリエと、日本風の屏風。この奇妙な取り合わせが、警部補や刑事に一種異様な|戦《せん》|慄《りつ》をもたらした。一同はぎょっとしたように、しばらく顔を見合わせていたが、 「よし、いってみよう」  と、警部補は先頭に立って、屏風の背後へ近よると、その向こうがわへ懐中電灯の光をさし向けたが、そのとたん、 「ううむ!」  と、鋭くうめいて、はちきれんばかりに眼をみはった。  屏風の向こうには、いささか古びてはいるけれど、眼もあやなちりめんの夜具が敷いてあり、夜具のなかには高島田に結った女が、塗り|枕《まくら》をして眠っている……。  いや、いや、それは眠っているのではない。死んでいるのだ。しかも、死後そうとうたっているらしいことは、そこから発する異様な臭気から察しられる。女は|紅《べに》|白《おし》|粉《ろい》も濃厚に、厚化粧をしているけれど、顔のかたちは、はやいくらかくずれかけている。 「畜生!」  井川警部補はするどく口のうちで舌打ちした。  樋口邦彦という男が、かつてこのアトリエのなかで、どんなことをしたか知っている警部補は、今夜ここから逃げ出したその男が、腐乱しかけたこの女の死体に、いったいなにをしかけたのか、想像できるような気がするのだ。  警部補はなんともいえぬいまわしい戦慄を感じながら、金屏風のまえに横たわった、花嫁すがたの女の死体をみつめていたが、そのとき、突然刑事のひとりが、しゃがれた声で注意した。 「主任さん、主任さん、こりゃ、あの女ですぜ。ほら手配のあった写真の女……|天《てん》|命《めい》|堂《どう》病院から盗まれた死体の女……」  井川警部補はそれを聞くと、さらにはちきれんばかりに眼をみはって、女の顔を見つめていたが、 「ううむ!」  と、またもや鋭くうめいた。      三  渋谷道玄坂付近に、天命堂という病院がある。そこの三等病室に入院していた|河《こう》|野《の》|朝《あさ》|子《こ》という女が、十一月二日の正午ごろに死亡した。  病気は結核で、そうとう長い病歴をもっていたが、天命堂病院で気胸の手術を受けていたのがかえって悪かったらしく、にわかに病勢が悪化して、半月ほどの入院ののち、とうとういけなくなったのである。  河野朝子は渋谷にあるブルー・テープという、あんまりはやらないバーの女給だった。いや、女給というより、ブルー・テープを張り店にして、客をあさる時間外の|稼業《かぎょう》のほうが、本職のような女であった。  彼女には東京に|親《しん》|戚《せき》がなかったので、ブルー・テープのマダム水木|加《か》|奈《な》|子《こ》がその|亡《なき》|骸《がら》を、引き取ることになっていた。加奈子はお店へ亡骸を引き取って、形ばかりでもお|葬《とむら》いを出してやるつもりだといっていた。  ところがその死体について妙なことが起こったのだ。  病院では死体移管の手続きを終わって、ブルー・テープから受け取りにくるのを待っていたが、すると、二日の夜おそく、加奈子の使いのものだと称して、男がひとりやってきた。  その男は中肉中骨で、鳥打帽子をまぶかにかぶり、大きな黒眼鏡をかけ、風邪でもひいているのか大きなマスクをかけていた。その上に外套の襟をふかぶかと立てているので、顔はほとんどというより、全然わからなかった。  その男は事務室へ、水木加奈子の手紙を差し出した。文面はこのひとに、河野朝子の死体をわたしてほしいというのだが、この手紙はのちに加奈子の筆跡と比較された。そして、それが全然違っており、|贋《にせ》手紙であることが立証された。  しかし、病院ではそんなこととは気がつかなかった。まさか死体を盗んでいこうなどという、ものずきな人間があろうとは思わなかったのだ。  ただ、あとになって、死体引き渡しに立ち会った山本医師と沢村看護婦の語るところによると、 「そういえば、病室へ入っても帽子もとらず外套も脱がず、失敬なやつだと思っていました。それにほとんど口もきかず、こちらが型どおりおくやみを述べるとただうなずくだけで、冷淡なやつだと思っていましたが、まさか死体泥棒だったとは……」 「わたしも、死体が盗まれたとわかってから気がついたんですが、なんとなく陰気なひとで、ゾーッとするような印象でしたね。病室から死体運搬車で玄関まで死体を運んだんですが、そのあいだもひとことも口をきかずに……そうそう、左の脚が悪いらしく、少し|跛《びっこ》をひいていたようです」  その男は玄関まで死体を運んでもらうと、雑役夫にたのんで、死体を表に待たせておいた自動車へ運びこませた。そして、みずから運転して立ち去ったというが、だれもこれが贋使者と知らないから、車体番号に注意を払うものもなかった。  ところが、この自動車が立ち去ってから、一時間ほどのちのことである。  水木加奈子の代理のものから電話がかかって、今夜は都合が悪いから、死体の受け取りは明日にしてほしいといってきたから、病院でもへんに思った。  そこで、さっき使いのものがやってきたので、死体をわたしたと話すと、電話口へ出た水木加奈子の代理の女は、ひどく驚いたらしかった。  そんなはずはない、ママは今夜、自分で受け取りにいくつもりだったが、|宵《よい》から|胃《い》|痙《けい》|攣《れん》を起こして苦しんでいるので、使いなどを出した覚えはないといいはった。そこでさんざん押し問答をしたすえ、それじゃ、ともかくママと相談して、誰かが出向いていくからと、代理の女は電話を切った。  それから半時間ほどたって、水木加奈子の養女しげると、死んだ朝子の朋輩原田由美子というふたりの女が、天命堂病院へ駆けつけてきたが、やっぱり加奈子に使いを出した覚えはないと聞いて、病院でも驚いた。  |試《ため》しに使いの持ってきた手紙を見せると、ふたりとも言下に加奈子の筆跡ではないと否定した。それから騒ぎが大きくなって、警視庁から等々力警部が出張し、病院の関係者はいうにおよばず、ブルー・テープのマダム水木加奈子、加奈子の養女しげる、さらに通い女給の原田由美子が取り調べられたが、死体泥棒の正体については、だれもこれといった証言を提供することはできなかった。  その日も、ブルー・テープは平常どおり開業しており、客もそうとうあったが、それらの客のなかには、朝子の死体が今夜おそく帰ってくることを、しげるや由美子から聞いていったものもあるというから、あるいはそれらの客のうちのだれかが|悪《いた》|戯《ずら》をしたのかもしれなかった。しかし、だれも左脚が不自由で、跛をひいている男に、心当たりはないという。  マダムの加奈子は、十時ごろには死体を引き取りにいくつもりだったが、その一時間ほどまえから胃痙攣が激しくなったので、店のほうはしげると由美子にまかせておいて、自分は離れになっている寝室へしりぞいた。ところが、いつまでたっても胃の痛みが去らないので、あまり病院を待たせてもと、十一時ごろ、養女のしげるに電話をかけさせたのだという。  これが二日の夜の出来事で、それ以来、警察のやっきとなった捜索にもかかわらず、|杳《よう》としてわからなかった朝子の死体が、はからずもS町のいわくつきのアトリエから発見されたのである。しかも、世にもあさましい睡れる花嫁として……。      四 「ああ、これはひどい。これはひどい。これゃ人間の所業じゃないな」  むっと異臭のただようアトリエのなかを、|檻《おり》のなかのライオンのように、行きつもどりつしながら、顔をしかめて|呟《つぶや》くのは、ほかならぬ|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》である。あいかわらず、よれよれの着物によれよれの|袴《はかま》をはいて、頭は例によって|雀《すずめ》の巣のような|蓬《ほう》|髪《はつ》である。  金屏風の向こうがわでは、医者や鑑識の連中が、忙がしそうに立ち働いている。刑事がアトリエを出たり、入ったり、捜査主任等々力警部の指図を仰いで、どこかへ飛び出していったりした。アトリエの外には新聞記者が大勢つめかけている。  十一月六日、薄曇りの朝十時ごろのことである。  金田一耕助は天命堂病院の死体盗難事件にひどく興味を持っていた。かれはその事件がただそれだけにとどまらないで、何かしら、薄気味悪い事件に発展していきそうな予感をもっていたのだ。  ところが今朝の新聞を見ると、果然、その死体は警官殺しという血なまぐさい事件をともなって発見されたのだ。しかも、睡れる花嫁として……。  金田一耕助はその記事を読むと、すぐに警視庁の等々力警部に電話した。さいわい、警部はまだ在庁して、これからS町へ出向くつもりだから、なんならすぐにということだった。そこで警視庁へ急行した金田一耕助は、そこから警部たちと、このいまわしい現場へ同行したのである。  医師の検死や鑑識課の指紋採集、さては現場撮影などが終わると、金田一耕助は等々力警部にうながされて、はじめて金屏風の向こうへ入った。  河野朝子は昨夜、井川警部補が発見したときと同じ姿勢で、絹夜具の上に横たわっている。しかし、|掛《かけ》|蒲《ぶ》|団《とん》ははねのけられて、派手な|緋《ひ》|縮《ぢり》|緬《めん》の|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》を着た姿が、この荒廃したアトリエの空気と、異様なコントラストをしめして無気味だった。  それに、すでに形のくずれかかった青黒い死体が、頭も重たげな|文《ぶん》|金《きん》高島田に結い、眼もさめるような長襦袢を着ているところが、なんだか|木《ミ》|乃《イ》|伊《ラ》の|粧《よそお》いでも見るように薄気味悪かった。 「あの頭はかつらなんですね」 「そう」 「犯人はここで死体と結婚したわけですね」 「結婚……?」  と、等々力警部はちらりと金屏風に眼をやって、 「ふむ、まあ、そういうことになりますな。死体は愛撫されているんだから」  等々力警部はそういって、ぺっと|唾《つば》を吐くまねをした。さすがものなれたこの老練警部も、いかにも|胸《むな》|糞《くそ》が悪そうだ。 「ところで犯人と目されている樋口邦彦という男には、これと同様な前科があるんですね」 「ええ、そう、だからこの事件、警戒を要すると思うんですね。最初の事件で味を覚えて、そういう習性がついたとすると、今後もまた、こういうことをやらかすんじゃないかと思ってね」 「なるほど、それも考えられますね」 「なにしろ、警官を刺し殺すほど、デスペレートになっているとすれば、あいつのこれに対する願望は、非常に深刻かつ凶暴なものになっていると思わなければなりませんからな」  金田一耕助はくらい眼をして、哀れな犠牲者の顔を見ていたが、何を思ったのか、急にゾクリと肩をふるわせる。 「金田一さん、どうかしましたか」 「いえね。警部さん、ぼくはいま警部さんのおっしゃった言葉から、とても恐ろしいことを連想したんです」 「恐ろしいこととは……?」 「警部さんはいま、そいつの願望が非常に深刻かつ、凶暴なものになっていると思わなければならぬとおっしゃったでしょう。ところで、死体を手に入れるということは、そう楽な仕事じゃありませんね。ことに若い女の死体と限定されているんですから。だから、死体が手に入らないとすると……」 「死体が手に入らないとすると……?」 「自分の手で死体をつくろうと考えだすんじゃないかと……」 「金田一さん!」  警部はギョッとしたように、激しい視線を金田一耕助のほうへ向けて、 「それじゃ、この事件の犯人は、いずれ殺人を犯すだろうと……」 「とにかく、昨夜、警官をひとりやっつけているんですからね」  金田一耕助は軒をつたう雨垂れのように、ポトリと陰気な声で|呟《つぶや》いた。  警部はなおも激しい眼つきで、金田一耕助の顔を見つめていたが、突然、強い語調で叫ぶように、 「いいや、そういうことがあってはならん。断じてそういうことはやらせん。そのまえにあげてしまわなきゃ……」 「樋口は一か月まえに出獄してるンですね」 「ええ、そう」 「それからの行動は……?」 「いまそれを調査中なんですがね。あいつはそうとう財産をもってるだけに厄介なんです」 「この被害者、河野朝子、あるいはブルー・テープとのコネクションは……?」 「いや、それもいま調査中なんですがね。間もなくここへ、ブルー・テープのマダムがくることになってるンです。それに聞けばなにかわかるかもしれない」  ブルー・テープのマダム水木加奈子が、ふたりの女をつれて駆けつけてきたのは、それから間もなくのことだった。ふたりの女とはいうまでもなく、養女のしげると女給の原田由美子である。  三人は井川警部補に案内されて、アトリエのなかへ入ってくると、緊張した面持ちで屏風のなかをのぞきこんだが、ひと目死体の顔を見ると、三人ともすぐに眼をそらした。 「もっとよく見てください。河野朝子に違いありませんか」 「はあ、あの……」  加奈子は口にハンカチを押しあてたまま、もう一度恐ろしそうに死体に眼をやったが、 「はあ、あの、朝子ちゃんに違いございません。どうお、しげるも由美ちゃんも?」 「ええ、あの、ママのいうとおりよ。朝子ちゃんにちがいないわね、由美ちゃん」 「ええ」  由美子は死体から眼をそらすと、恐ろしそうに身ぶるいをする。 「いや、ありがとう。それじゃちょっとあんたがたに訊きたいことがあるんだが、ここじゃなんだから、むこうの隅へいきましょう」  等々力警部は三人の女をうながして、アトリエのべつの隅へみちびいた。  金田一耕助は少し離れて、それとなく三人の女を観察している。これが事件に突入したときのかれの習癖なのだ。どんな|些《さ》|細《さい》な関係でも、事件につながりのあるとみられた人物は、かれの注意ぶかい観察からのがれることはできないのだ。 「マダムは樋口邦彦という人物を知っちゃいないかね」  等々力警部の質問にたいして、加奈子はあらかじめ予期していたもののように、わざとらしく|眉《まゆ》をひそめて、 「ええ、そのことなんですの。今朝、新聞にあのひとのことが出ているのを見て、すっかりびっくりしてしまって……」  こういう種類の女の年齢はなかなかわかりにくいものだが、水木加奈子はおそらく三十五、六、あるいはもっといってるかもしれない。大柄のパツと眼につくような派手な顔立ちだ。どぎついくらい濃い紅白粉も、豊満な肉体によく調和している。身ぶりや表情もそれに相応して、万事大げさだった。 「ああ、それじゃマダムはあの男を知ってるんだね」 「はあ、存じております」 「どういう関係で……?」  マダムは表情たっぷりに、警部の顔に流し目をくれながら、 「だって、あたしもと、銀座のキャバレー・ランタンで働いてたんですもの」 「銀座のキャバレー・ランタンというと?」 「ご存知ありません? 樋口さんの奥さんになった瞳さんの働いてたキャバレー」 「ああ、そう」  等々力警部は急に大きく眼をみはり、加奈子の顔を見なおした。 「じゃ、マダムもあのキャバレーのダンサー……?」 「いいえ、あたしダンサーじゃありませんの。こんなおばあちゃんですものね。あたしあそこでダンサーたちの監督みたいなことしてましたの。やりて|婆《ばばあ》の憎まれ役。うっふっふ」  等々力警部は怒ったようなきつい顔で、加奈子の冗談を無視して、 「それじゃ、その時分、樋口を知ったわけですね」 「ええ、そう。あたし瞳さんとは仲よしでしたの。ですから、瞳さんがあのひとといっしょになってから、ここへも二、三度遊びにきたことがございます。あの時分からみると、このお家、見違えるみたい」  加奈子はあたりを見まわして、大げさに肩をすくめる。この女、すべてが芝居がかりである。 「それで、あの男が刑務所を出てきてから、会ったことは……?」 「ええ、それが会っておりますのよ。そのことについて、警部さんにもお|詫《わ》びしなければならないと思っていますの。ほら、朝子ちゃんの……」  と、加奈子はまた表情たっぷりの視線を、屏風の奥に投げかけると、 「あの死体が紛失したとき、どうして樋口さんのことを思い出さなかったものか」 「じゃ、なにか思い当たることでも……」 「ええ、そうなんですの。あの日、二日でしたわね。天命堂病院で朝子さんの死に水をとっての帰りがけ、道玄坂でばったり樋口さんにお眼にかかったんです。すると、樋口さんが今夜遊びにいってもいいかとおっしゃるんでしょ。それで、今夜は|駄《だ》|目《め》、お店早じまいにして、病院へ死体を引き取りにいかねばならない。それからお通夜をするんだからって、そういったら、樋口さんが亡くなったのはどういうひとだ、いくつぐらいの娘だ、きれいな女かっていろいろお訊ねになるんです。でも、それ、身うちのものが……朝子ちゃんは身うちってわけじゃありませんけど、身内同様にしてたでしょ。そういうものが亡くなったとき、だれでもお訊ねになることでしょう。だから、それに特別の意味があるなんて、あたしけさ新聞を見るまで気がつかなかったんです。あのひと、あの晩、お店へいらしたそうです。あたしそのこと、さっきしげるから聞くまで、ちっとも知らなかったんですけれど……」 「店へきたというのは……?」  だしぬけに等々力警部に問いかけられて、しげるはちょっとどぎまぎする。  金田一耕助はさっきから、この女を興味ぶかい眼で見守っていた。女としても小柄のほうだが手脚がすんなりのびていて、体も均整がとれているので、小柄なのがすこしも気にならない。それに、ぴったりと身についた、|袖《そで》のながい黒|繻《じゅ》|子《す》の|支《し》|那《な》服を着ているので、じっさいよりも背が高く見える。年齢は二十くらい……いや、まだそこまではいっていないかもしれない。体の曲線に女としての十分な成熟が見られず、前髪をそろえて額にたらした顔も、きれいなことはきれいだが、女としての色気がたりない。ちょっと少年といった感じである。 「はあ、あの、いまから考えると、あれはきっとママの様子をさぐりにきたんですね。あれは何時ごろでしたか、九時から十時までのあいだだったと思います。あのひとがやってきて……」 「あのひとというのは樋口邦彦だね」 「はあ」 「君はそれまでに樋口に会ったことがあるの」 「ええ、二、三度家へいらしたことがあるんです。でも、あたし、昔あんなことがあったかただとは知らなかったんです。ママがいってくれなかったもんですから。刑務所から出てきたばかりだということさえ知らなかったんです」 「ふむふむ、それで二日の晩……?」 「はあ、あの、たぶん九時半ごろだったと思います。ここにいる由美ちゃんは知らないそうですから、きっとご不浄へでもいった留守だったんでしょう。樋口さんがやってきて、ママはもう病院へ死体を引き取りにいったかって訊くんです。それで、あたし、ママは今夜、胃痙攣を起こして寝ているから、死体引き取りはむつかしいんじゃないかって、つい何気なしにいったんです。そしたら、二こと三こと、ほかのことを話して、そのまま帰っていったんです。いまから考えると、確かに妙だったんですけれど、そのときは、あのひとがあんなひとだとは夢にも知らなかったもんですから、今朝、新聞であのひとの名前を見るまで、つい、そのことを忘れていて、ママにもいってなかったんです」 「しげるがそのことをいってくれたら、昔のこともございますし、朝子ちゃんの死体を盗んだの、ひょっとするとあのひとかもしれないと、気がついたかもしれないんですけれど……」  マダムが例によって表情たっぷりにつけ加えた。 「しかし、死体盗人の犯人が、跛をひいてたってことから、樋口という男を怪しいと思いませんでしたか」  だしぬけに、金田一耕助に言葉をかけられ、加奈子としげるは、びっくりしたように振り返ったが、 「ええ、そのことなんですがね」  と、マダムは|怪《け》|訝《げん》そうに、耕助の顔をジロジロ見ながら、 「そのことについても、今朝しげると話し合ったんでございますのよ。樋口さん、跛をひいていたかしら。……あたしがせんに知ってるころには、べつに脚が悪いようなことはなかったんですもの」 「いや、樋口は刑務所にいるあいだに、左脚を負傷して、それ以来、跛をひいてたっていうんだがね」  等々力警部は口をはさんだ。 「ああ、そう、それじゃ、あたしもしげるも見逃してたんですわね。そんなにひどい跛じゃないんでしょう」 「ああ、ごくかるい跛だって話だが……」 「あんたは」  と、金田一耕助は由美子のほうを振り返って、 「樋口という男にあったことないの」 「いえ、あの、あたし……」  由美子はもじもじしながら、 「二、三度、お店へいらしたので、お眼にかかったことがございます」  由美子というのは特色のない、ひとくちにいってもっさりした女だ。ことに眼から鼻へ抜けるように|聡《さか》しげなしげるとならべて比較すると、いっそう、その平凡さが眼についた。だぶだぶとしたしまりのない肉付き、小羊のように|臆病《おくびょう》そうな眼、まるまっちい鼻、金田一耕助にただそれだけのことを訊かれても、額に汗をにじませているところを見ると、よほど気の小さい女なのだろう。 「二日の晩、その男がお店へきたときには、君はいなかったんだね」 「はあ、あの、きっとお手洗いへでも……」 「ああ、そう、ところで君もその男が、跛をひいてたことに気がつかなかった?」 「いえ、あの、あたしは気がついてました」  と、いってからマダムとしげるの顔を見て、 「でも、ほんにかるい跛でしたから……」  と、慌てたようにつけくわえた。 「あら、そう、由美ちゃんは気がついてたの。それじゃ、あたしたちよっぽどぼんやりしてたのね。ほっほっほ」 「ところで、マダム」  と、等々力警部。 「樋口が二、三度マダムのところへきたというのは、何か特別の用件でもあったの?」 「いえ、べつに。なにぶんにも、……以前ああいうことがあったひとでしょう。だから、だれも気味悪がって、相手にしなかったんですね。それで、あたしのところへ、今後の身のふりかたについて相談にきたわけなんですの」 「マダムは気味悪くなかったんだね」 「いえ、それはあたしだっていやでしたわ。まさかこんなことをしようとは存じませんでしたけれど、……でも、そうむげに追っぱらうわけにもね。それで話を聞いてあげてたんですけれど……」 「どんな話をしてたかね」 「なんでも、あたしどもみたいな商売をしたいようにいうんです。あのひと、小金を持ってるらしいんですね。でも、ああいう商売、どうしても女が主にならなければ駄目でしょう。そういう女が見つかるか、……あのひとのしてきたことを知ったら、だれだってね、気味悪がって逃げだしてしまいますわ。ですけれど、あたしとしてはそうもいえませんので、何かもっとかたぎな商売なすったら……と、いったんです。でも、いやあねえ」  と、マダムは眉をひそめて、 「だって、今後の身のふりかたについて、相談にのってくれなんて来ながら、こんなことするんですもの。もうああいう趣味が本能になってるんでしょうか」  加奈子は大げさな身ぶりで、ゾクリと肩をふるわせた。      五  樋口邦彦のけだもののようなこの行為は、|俄《が》|然《ぜん》世間に大きなセンセーションをまき起こした。  樋口はもう、生きた女では満足できず、死体、あるいは腐肉でないと、真に快楽を味わえないのではないか。もし、そうだとすれば、早晩、金田一耕助が恐れるように、凶暴な殺人行為にでも発展していくのではないか……。  警察では、むろん、やっきとなって樋口のゆくえを追及したが、二日たち、三日とすぎても、|杳《よう》として消息がつかめない。  全国に写真がバラまかれ、新聞にも毎日のように、いろんな写真が掲載されたが、いっこう効果はあがらなかった。いや、こんな場合の常として、投書や密告はぞくぞくときたが、つきとめてみるといずれも人違いで、いたずらに警官たちを奔命に疲れさすばかりだった。 「樋口があくまで|執《しつ》|拗《よう》に、逃げのびようとするのもむりはない。そこには、あのいまわしい死体に関する犯罪のみならず、警官殺しという大罪が付随しているのだ。つかまったが最後ということを、かれもよくわきまえているにちがいない」  しかし、警察もただいたずらに、手をこまねいていたわけではない。  五日夜以後の樋口のゆくえはわからなかったが、刑務所を出てからのかれの行動はだいたい調べがついていた。  小石川に住んでいる、樋口|正《まさ》|直《なお》という某会社の重役が、かれのいとこだった。十月八日、刑務所内の善行によって、刑期を短縮されて出てきた樋口邦彦は、いったんそこに身をよせたが、三日ほどして本郷の旅館へひきうつっている。  それについて樋口正直氏の談によるとこうである。 「刑務所へ入るとき、財産いっさいの管理をまかされたものですから、それを受け取りにきたんです。財産はS町にある地所はべつとしても、証券類で約五、六百万はあったでしょう。それを資本に……それでも足りなければS町の地所を売ってでも、何か商売をしたいといってました。アトリエは持っていても、画家として立っていく自信はなかったんですね。刑務所を出てから、すっかり人間が変わってましたね。以前からそう陽気なほうではなかったんですが、こんどは恐ろしく無口になって……やはりあの事件が影響したんだねと、家内なんかと話したことです。ここを出たのはやはり面目なかったんでしょう。きっと何も知らぬ他人のなかへ入りたかったんですね。こっちもしいて引きとめませんでした。家にも年ごろの娘がありますんでね」  邦彦は本郷の宿も三日で出て、牛込の旅館へうつっている。ところがその牛込の旅館も十日ばかりで出て、それからどこに泊まっていたのかはっきりしない。  おそらく前身が知れるのをおそれて、変名で宿から宿へとうつっていたのだろう。加奈子にも、しょっちゅう変わるからといって、はっきり住所をいわなかったそうだ。  ところが、十月二十八日になって、新宿のM証券会社で、証券類をいっさい金にかえている。そのたかは六百万円で、だから、かれはそれだけの金をふところに、どこかに潜伏しているわけだ。  こうして警察必死の追及のうちに、五日とたち、十日とすぎたが、十一月二十日になって、またもやおぞましい第二の犯行が暴露された。  ああ、金田一耕助の予想は的中したのだ。|妖獣《ようじゅう》はいよいよ本領を発揮して、そのゆがんだ欲望を遂行するために、ついに殺人をあえてしたのである。      六  それよりさき、十一月十七日のことである。中野区|野《の》|方《がた》町にある|柊屋《ひいらぎや》という小間物店へ、ひとりの男が訪ねてきた。  この柊屋は自宅の奥に五間ほどの部屋をもっていて、それを貸間にしているのだが、そのひとつが最近あいたので、周旋屋へたのんで間借り人を探していたところが、そこから間借りの希望者をよこしたわけである。  その男は茶色のソフトに、|鼈《べっ》|甲《こう》ぶちの眼鏡をかけ、感冒よけの大きなマスク、それに外套の襟をふかぶかと立てているので、ほとんど顔はわからなかった。  しかし、その日がちょうど空っ風の強い、とても寒い日だったので、柊屋の主人もべつに怪しみもせず、部屋を見せたところが、すぐに話がついて、若干の敷金のほかに、一か月分の間代をおいていった。家族は妻とふたりきりで、今夜のうちに引っ越してくるといっていた。  名前は松浦三五郎、丸の内にある|角《かく》|丸《まる》商事につとめているといったが、そんな会社があるのか、柊屋の主人は知らなかった。  さて、その夜、松浦三五郎とその妻は、夜具をつんで自動車でやってきた。九時ごろのことだった。ところが柊屋の貸部屋は、間借り人専用の門と玄関がべつにあるので、柊屋の主人は松浦三五郎のやってきたのを知らなかった。  ただし、柊屋のおかみが間借り人のひとりの部屋から出てきたところへ、松浦三五郎が玄関へ、夜具の包みを運びこんできたので、 「ああ、いまお着きですか」  と、|挨《あい》|拶《さつ》すると、 「はあ、今夜は夜具だけ。ほかの道具はいずれ明日……」 「奥さまは……?」 「自動車のなかにいます。ちょっと体をこわしているので……」  松浦は昼間と同じように、大きなマスクをかけているので、言葉はもぐもぐ聞きとれなかった。  柊屋のおかみはちょっと細君というのを見たいと思ったが、それもあんまり野次馬らしいと思ったので、 「それじゃ、お大事に……」  と、挨拶を残して母屋のほうへ立ち去った。松浦は夜具を部屋へ運びこむと、表へ出てきて、 「それじゃ、運転手君、手伝ってくれたまえ。家内は病気で、歩かせちゃ悪いから」 「承知しました」  と、運転手は松浦に手伝って、若い女をかつぎ出すと、 「奥さん、大丈夫ですか。じゃ、お客さん、どうぞ」  と、左右から細君を抱えるようにして、玄関からなかへ入っていった。そして、自分の部屋へ入ろうとするところへ、隣の部屋から間借り人の細君が顔を出して、 「あら、どうかなすったんですか」  と、びっくりしたように訊ねた。 「いえ、ちょっと脚に怪我をしているものですから」  と、松浦は運転手にいったのとはべつのことをいって、そのまま自分の部屋へ入っていった。隣の部屋の細君も、べつに怪しみもせず、そのまま障子を閉めてしまった。  それが十七日の晩の出来事だが、それきりだれも松浦ならびにその細君を見たものはなかった。しかし、柊屋のほうではさきに間代をとっているのだし、間借り人には万事自由にやらせているので、べつに気にもとめなかった。また同居人は同居人で、柊屋との契約がどうなっているのか知らないので、これまたたいして気にもとめなかった。  ところが二十日の朝になって、隣室の細君が何やら異様な臭気を感じた。その細君はちょうどつわりだったので、臭気に関して敏感になっていたのである。彼女は料理をしていても、昼飯の食卓に向かっても、異様な臭気が鼻について離れず、食事も咽喉に通らぬどころか、食べものさえ吐きそうだった。その臭気の源はたしかに隣室、すなわち松浦の部屋にあるらしかった。  夕方ごろ、たまらなくなった細君は、母屋へいって柊屋のおかみにそのことを訴えた。そこへほかの間借り人も同じようなことを訴えてきたので、柊屋のおかみも捨ててはおけず、裏の貸部屋へいってみた。 「松浦さん、松浦さん、奥さんもお留守でございますか」  柊屋のおかみが声をかけるのを聞いて、 「あら、それじゃ、この部屋のかた、ここにいらっしゃるはずなんですか」  と、隣室の細君が訊ねた。 「もちろん、そうですよ。どうして?」 「だって、きのうもおとといも、全然、ひとの気配がしないので、あたしまた、ひと晩だけのお客かと思って……」  隣室の細君はそういって、ちょっと顔を|赧《あか》らめた。十七日の夜、真夜中すぎまでこの部屋から聞こえてきた、むつごとの気配に悩まされたことを思い出したからである。 「いいえ、そんなはずはありませんよ。ひと月分いただいてるんですからね。松浦さん、松浦さん、開けますよ。よござんすか」  障子を開けると異様な空気は、いっせいに三人の鼻を強くついた。貸部屋はいずれもふた間つづきになっているのだが、表の間には何事もなく、臭気は閉めきった|襖《ふすま》の向こうの、奥の間から|匂《にお》うてくるらしかった。  三人とも不安な予感に真っ蒼になっていた。隣室の若い細君は|膝頭《ひざがしら》をがくがくふるわせた。彼女の脳裡をふっとS町のアトリエ事件がかすめたからである。 「おかみさん、おかみさん、お|止《よ》しなさい、お止しなさい、その襖開くの……あたし、怖い……」  おかみはしかし、きつい顔をして、襖のひきてに手をかけると、 「松浦さん、松浦さん、ここ開けますよ。よござんすか」  と、うわずった声で念を押すと、思いきって襖を開けたが、そのとたん、いまにも吐き出しそうなほど、強い匂いが三人の鼻をおそうた。  この部屋には雨戸がなく、張出し窓に|格《こう》|子《し》と、ガラス戸が閉まっているだけなので、部屋のなかはまだ明かるい。その部屋の中央に|蒲《ふ》|団《とん》が敷いてあって、そこに女が仰向きに寝ている。そして、その女の周囲から、あの異様な臭気は発するのだ。  隣室の細君はもうべったりと敷居のうえに腰を落としており、彼女よりすこし勇気のあるおかみと、もうひとりの同居人は、それでも蒲団のそばまでいって、女の顔をのぞきこんだが、ふたりとも、 「きゃっ!」  と、叫んで|尻《しり》|餅《もち》ついた。その女は明らかに死んでおり、しかも、そろそろ顔のかたちがくずれかけていた。  おかみさんも同居人も知らなかったけれど、それはブルー・テープの通い女給、由美子だった。  由美子は青酸カリで殺されたのち、あさましい妖獣の手にかかって、第二の睡れる花嫁にされたのだった。      七  二十日の夜おそく、中野署へよび出されたブルー・テープのマダム水木加奈子は、そこにいる等々力警部と金田一耕助の顔を見ると、ふいに胸をつかれたように、よろよろ二、三歩よろめいた。  ふだんからゼスチュアの大きなマダムなので、それがほんとの驚きなのか、それともお芝居たっぷりなのか、さすがの金田一耕助にも判断がつきかねた。 「また、何か、あったんですか」  と、その声は低くしゃがれてふるえている。大きな眼が吸いつくように等々力警部の眼を見つめている。 「ああ、それをいうまえに、マダムにちょっと訊きたいんだが、おたくの女給の由美子だがね、いつからお店を休んでいるんだね」 「ゆ、由美ちゃん……?」  マダムは低く絶叫するようにいって、右手の指を口に押し当てた。 「由美ちゃんが、ど、どうかしたんですか」 「いや、それよりもぼくの質問にこたえてくれたまえ」 「由美子は十五日の昼すぎ電話をかけてきて……いいえ、由美子自身じゃないんです。代理のもんだといって、男の声だったそうですけれど……」 「そうですけれどといって、マダム自身電話に出たんじゃないの?」 「いいえ、うちのしげるが出たんです」 「ああ、そう、それで……」 「由美子は四、五日旅行するから、お店を休むと、ただそれだけいって、電話を切ってしまったそうです。それで、しげるとふたりでぷんぷん|憤《おこ》ってたんです。朝子が死んで、そうでなくても手の足りないところへ、いかにお客さんがついたからって、四、五日も勝手に休むなんて……それで……」 「ああ、ちょっと」  と、金田一耕助が言葉をはさんで、 「そうして、客と旅行するようなことは、ちょくちょくあるんですか」 「はあ、それは……」  と、マダムはちょっと耕助を流し目に見て、 「ああいう稼業でございますから、ちょくちょく……でも、たいていひと晩どまりで熱海かなんかへ……」 「ああ、なるほど、それでマダムは四、五日という長期にわたって、由美子君が旅行するということを、怪しいとは思いませんでしたか」 「いいえ、べつに……ただ、身勝手なのが腹が立ったのと、いったいどんな客か知らないけれど、あんなもっさりした娘を、四、五日もつれ出すなんて……と、しげると話して笑ったくらいのもんですけれど……」 「ところで、きょうはしげるちやんは……?」  しげるの名を聞くと、突然、マダムの顔色が変わった。 「ねえ、警部さん、ほんとに由美子はどうしたんです。じつは、けさからしげるが帰らないんで、心配していたところへ呼び出しですから、ひょっとするとしげるに何かと……」 「し、しげる君がけさから帰らないって?」  金田一耕助と等々力警部が、ほとんど同時に叫んで身を乗り出した。ある不安な予感が、さっとふたりの|脳《のう》|裡《り》をかすめた。 「ええ、そうなんです。ですから、警部さん、由美子はいったい……?」 「殺されたよ。いま解剖にまわっているから、その結果を見なければはっきりわからないが、だいたい青酸カリに間違いないようだ」 「そして、やっぱり……?」  マダムの唇は真っ蒼である。 「ああ、やっぱり朝子の死体とおなじように……」  加奈子は低くうめいて、目をつむると、めまいを感じたように、少し上体をふらふらさせたが、急に大きく眼をみはり、 「警部さん、警部さん、しげるを探してください。しげるも、もしや……」  しげるはその朝、渋谷駅近くにあるS銀行へ十万円引き出しにいった。金はたしかに十万円引き出しており、銀行でも支那服を着たしげるの姿を覚えているのだが、それきり姿が消えてしまったのである。  支那服を着た女の死体が、三鷹の、マンホールから発見されたのは、それから一か月あまりもたった十二月二十五日のことで、むろん、死体は相好の鑑別もつかぬほど腐敗していた。しかし、着衣持物からブルー・テープの養女しげると判断され、殺害されたのは十一月二十日前後と推定された。  こうして妖獣、樋口邦彦はついに第三の犠牲者をほふったわけだが、ただ、ここに不思議なのは、しげるの顔は腐敗するまえから、相好の鑑別もつかぬほど、石かなにかでめちゃめちゃに、打ち砕かれていたのではないかという疑いが濃厚なことである。  樋口はなぜそんなことをしたのか、また、その後、どこへ消えたのか、年が改まって一月になっても、かれの消息は杳としてわからなかった。      八 「ねえ警部さん、ぼくはきのう、|川《かわ》|口《ぐち》|定《さだ》|吉《きち》という人物に会って来ましたよ」  松のとれた一月十日、警視庁の捜査一課、第五調べ室にひょっこり訪ねてきた金田一耕助は、ぐったりと|椅《い》|子《す》に腰を落とすと、ゆっくりともじゃもじゃ頭をかき回しながら、雨垂れを落とすようにポトリといった。 「川口定吉……? それ、どういう人物ですか」 「川口土建の親方で、ブルー・テープのマダム、水木加奈子のパトロンだった男ですよ」  等々力警部はぎょっとしたように、椅子を鳴らし、体を起こした。 「金田一さん、その男がどうかしたというのですか」 「いえ、べつに……ただ、この男は去年の秋まで、すなわち九月の終わりごろまで、加奈子のパトロンだったんですが、十月になってぴったり手を切ったんですね。それで、何かわかりやしないかと……」 「しかし、金田一さん、樋口邦彦が刑務所を出たのは、十月になってからですよ。その以前に手を切って別れたとしたら、樋口のことは知るはずがないが……」  等々力警部は不思議そうな顔色である。 「そうです、そうです。しかし、ブルー・テープの経済状態はわかるだろうと思ったんです」 「ブルー・テープの経済状態……?」 「ええ、パトロンの送金がたえたとしたら、どういうことになるか、それくらいのことはわかるでしょうからね。いや、じっさいにわかったんです。川口定吉なる人物がいうのに、自分が手をひいた以上、至急にだれかあとがまをつかまなければ、とてもあの店はやっていけぬだろう。加奈子というのが、とてもぜいたく屋だったからというんです」 「金田一さん、しかし、それが……?」  等々力警部はまだ|腑《ふ》におちぬ顔色である。 「いや、まあ、聞いてください。それで、ブルー・テープの経済状態がわかったので、ぼくはもうひとつ聞いてみたんです。あなたはどうして、加奈子と手を切ることになったのか。もしや、加奈子に男でもあることに、気がついたんじゃないかと?」  等々力警部は無言のまま、穴のあくほど金田一耕助を凝視している。耕助がこういう話ぶりをするときには、何かを握っていることを、いままでの経験によって、等々力警部は知っているのだ。 「すると、川口定吉なる人物がこういうんです。いかにもあなたのおっしゃるとおりだ。しかし、ただそれだけではないと……」 「ただ、それだけではないというと……?」 「川口定吉氏がいうのに、自分もひととおり道楽をしてきた男だ。ああいう種類の女を世話する以上、浮気をするのは覚悟のまえだ。情夫のひとりやふたりこさえたのへ、いちいち|妬《や》いていては、とてもパトロンはつとまらない。ところが、水木加奈子の場合、いささか気味が悪くなってきたというんですね」 「どういう点が……?」 「川口氏のいうのに、いままでの経験によると、女が情夫をつくったばあい、注意していると、たいてい、相手がだれだか見当がつくものだ。自分はいままで、こっちでちゃんと知っているのに、相手がひた隠しに隠し、しかも自分をだましおおせたと、得意になっている男女を見ると、おかしくて仕方がなかった。そういうのを見るのが、いつか自分の楽しみになっていた……」 「あっはっは」  と、等々力警部はひくく笑って、 「川口という男も変態じゃないかね」 「いくらかその傾向なきにしもあらずですね。ところがそういう趣味をもっている川口氏にして、加奈子の情夫はついに見当がつかなかった。あんまりうまく隠しおおせているので、だんだん、気味が悪くなってきて、こんな女にかかりあっちゃ、いつ、どんなふうにだまされるかもしれないと、それで、手を切ることにしたんだそうです。加奈子にはだいぶん、かきくどかれたそうですが……」 「ふむふむ、それで、金田一さんには、加奈子の情夫というのがわかっているんですか」  金田一耕助はゆっくり首を左右に振って、 「いや、まだはっきり断定するわけにはいきませんがね。だいたい、そうじゃないかと思われる人物があるんです」 「その情夫が、何かこんどの事件に……?」 「いや、まあ、聞いてください。ぼくはだいぶんまえから、加奈子のあとをつけまわしていたんです。加奈子がだれかと秘密に通信するんじゃないかと……」 「金田一さん、金田一さん、あなたは加奈子が樋口をかくまっているとおっしゃるんですか。しかし、樋口の出獄は十月に入ってからだから、川口という男の気づいた情夫とは……」 「いや、まあ、待ってください。いまにわかります。とにかく、加奈子を尾行していたんですね。ところがきのう、加奈子は|神《か》|楽《ぐら》|坂《ざか》へ出向いていって、そこのポストヘ手紙を|投《とう》|函《かん》したんです。ぼくにはそれがわざわざ手紙を投函しにいったとしか思えなかった。そこでぼくは、わざと切手を|貼《は》らない手紙を投函したんです。そして、集配人のやってくるのを待って、切手を貼るのを忘れたから、ちょっと手紙を|選《よ》らせてくださいと頼んだんです。さいわい、集配人が親切なひとだったのと、手紙がそうたくさんなかったので、加奈子の手紙はすぐ見つかりました。差出人は加奈子と、名前だけしか書いてなく、宛名は清水浩吉様というんですが、近ごろぼくは、あれほど大きなショツクにうたれたことはありませんでしたね」 「清水浩吉……? そ、それはどういう人物ですか」 「いまから四年まえ、S町のアトリエでああいうことがあったとき、瞳という女の死体を最初に発見した酒屋の小僧とおなじ名前ですね」  突然、等々力警部は椅子のなかで、ギクリと体をふるわせた。そして、しばらく口もきけない顔色で、金田一耕助を見つめていたが、 「金田一さん!」  と、急に体を乗り出すと、 「あの小僧が、ど、どういう……」 「ぼくはそれをつきとめると、すぐにS町へ出向いていって、清水浩吉の働いていた、|三《み》|船《ふね》屋という酒屋を訪ねたんですが、あの事件のあったのは、浩吉の十三歳のときだったが、その翌年、女中にへんなことをしかけたので、三船屋を放逐されたというんです。聞いてみると、いたずらは激しかったが、非常な美少年だったというんですね。それで、写真はないかと探してもらったんですが、やっと一枚見つけてくれました。これがそうなんですがね」  金田一耕助の取り出したのは、ローライ・コードでとった写真で、にっこり笑った少年の胸から上が写っている。なるほど美少年である。 「警部さん、その顔、だれかに似てると思いませんか」 「だれかにって、だれに……?」 「それに、四、五年としをとらせて、前髪を額にたらし、女の支那服の襟で|咽喉仏《のどぼとけ》を隠させたら……」  等々力警部の眼は、突然、張り裂けんばかりに大きくなった。そして、かみつきそうな視線で、写真の顔を凝視していたが、 「し、し、しげる! そ、そ、それじゃ、あいつは男だったのか」  等々力警部はしばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》として、金田一耕助の顔を見つめていたが、にわかにハンカチを取り出して、額の汗を|拭《ぬぐ》うと、 「金田一さん、いってください。それじゃ樋口という男は……?」 「殺されたんじゃないでしょうかねえ。マダムとしげるに……」 「六百万円を奪うためだな」 「そうです、そうです。きっとどこかに、バーの売り物があるとかなんとか持ちかけたんでしょう。それで六百万円を持ってきたとき、ふたりで殺して死体を隠した。しかし、それきり樋口が行方不明になっては、どういうところから自分の店へ糸をたぐってくるかもしれないと恐れたんでしょう。ところが、ちょうどさいわい、朝子という女が亡くなったので……」 「死体を盗みにいったのは……?」 「これはマダムでしょう。胃痙攣と称して離れへひっこみ……」 「そして、死体にいたずらしたのは……」  等々力警部と金田一耕助は、顔見合せて、ゾクリと体をふるわせた。 「ねえ、警部さん」  しばらくたって、金田一耕助は世にも切ない表情を示した。 「清水浩吉はこれが最初の経験ではないんじゃないかと疑うんです。四年まえの事件のとき、彼はもっとはやく瞳の死体を知っていたのじゃないか。そして樋口の留守中に……満十三歳といえば、そろそろですからね」  等々力警部は|唖《あ》|然《ぜん》として耕助の顔を見つめていたが、急につめたい汗が吹き出すのを感じた。 「しかし、金田一さん、由美子はなぜ……? 浩吉のゆがんだ興味から……?」 「いや、それはきっと何かあるんでしょう。由美子に何か|覚《さと》られたんじゃないか。しげるが男であることを知られたか、それとも樋口の殺害か……」  等々力警部は二、三度強くうなずくと、 「樋口の跛……由美子のようなぼんやりが気がついているのに、眼から鼻へ抜けるようなマダムとしげるが気がつかなかったというのは……あのとき、へんだと思わなきゃいけなかったんだな」  と、きっと唇をかみしめた。 「さて、こうして、ふたりまでブルー・テープの女が|槍《やり》|玉《だま》にあがったとすると、しげるはもうわれわれのまえへ出られませんよ。疑われないまでも、強く注目されますからね。いくらうまく化けていても、女装の男という不自然さがありますからね。そこで姿をくらましたが、くらましたきりじゃ、疑いを招くおそれがあるので、だれか同じ年ごろの、体つきの似た女を、替え玉につかったんですね」 「だから、顔をめちゃめちゃにしておいたのか」  等々力警部は溜息をつき、それからまた激しく体をふるわせた。  考えてみると清水浩吉はまだ十七歳。女装しやすい年齢だが、それにしても十七歳の少年が……。 「どうして知り合ったのか知りませんが、三十|年《とし》|増《ま》と十七歳の美少年、そのゆがんで、ただれた愛欲が、こんないまわしい事件に発展していったんですね」  金田一耕助はゆっくり立ち上がると、ポケットから手帳を出して、その一頁を破りとると、それを警部のほうへ押しやった。 「ここに清水浩吉のいまいる、アパートの所書きがあります。ぼくもちょっとかいま見てきましたけれど、髪を七三に分け、鼈甲ぶちの眼鏡なんかかけて、すっかり男に返っていますが、しげるに違いないようです。はやくなさらないと、ブルー・テープに買い手がついたようですから、ふたりで高飛びするんじゃないでしょうか」  金田一耕助は出ていきかけたが、思い出したようにドアのところで立ち止まると、 「それから、去年の十二月二十日前後に|失《しっ》|踪《そう》した女を、もう一度お調べになるんですね。マンホールの女の死体……いや、こんなことは、ぼくが申すまでもありませんが……ご成功を祈ります」  金田一耕助はかるく頭をさげると|飄々《ひょうひょう》として、寒風の吹きすさぶ街頭へと出ていった。     湖泥      一 「あんたにこんなことをいうのは、|釈《しゃ》|迦《か》に説法みたいなもんかもしれんが、われわれが日常住んでいる都会よりも、こういう地方の、一見ものしずかな農村のほうが、ある種の犯罪の危険性を、はるかに多分に内蔵してるもんなんですな。都会では一日一日があわただしく過ぎていく。それに離合集散がはげしいから、憎悪も|怨《えん》|恨《こん》も、|嫉《しっ》|妬《と》も反目も、そういつまでもあたためているわけにはいかぬ。生活のあわただしさが感情の集中をさまたげるし、周囲の雑音によってうすめられもする。しかし、田舎ではそうはいかん、何代も何代もおなじ場所に定着しているから、十年二十年以前の憎悪や反目が、いまなおヴィヴィッドに生きている。いや、当人同士は忘れようとしても、周囲のもんが忘れさせないんですな。話題のすくない田舎では、ちょっとした事件でも、伝説としてながく語りつがれる。だから、いまも田舎では、数代にわたる不和反目なんてのがめずらしくないし、それがどうかしたはずみに、犯罪となって爆発するんですな」 「あなたの言ってらっしゃるのは、北神家と西神家のことなんですね」  金田一耕助は指にはさんだたばこの|吸《すい》|殻《がら》を、ボートの|舷《ふなべり》ごしにポトリと水のなかに落とした。吸殻はジューンとつめたい音をたてて、秋の水のなかに消えていく。  金田一耕助の相手は水の上に消えよどむ、紫色の煙を見まもりながら、 「ええ、そう」  と、太い|猪《い》|首《くび》でうなずくと、眼をあげて、思い出したようにあたりを見まわす。  そこは三方山にとりかこまれた湖水の上で、あたりには|胡《ご》|麻《ま》を散らしたように、|田《た》|舟《ぶね》やモーターボートが散らばっている。それらの田舟やモーターボートに乗ったひとびとは、てんでに長い|竿《さお》で水のなかをひっかきまわし、いとも熱心になにやらさがしもとめている。ときどきかれらのあげるわめき声が、周囲の山々にこだまして、びっくりするほど大きな反響となって湖水の上を流れていく。  空の色にも、水の色にも、もう秋がふかいのである。 「北神家と西神家……もとは神田というて一家なんですがな」  と、金田一耕助の相手は、落日を吸うて湖畔にしろく照りはえている、白壁の家を指さしながら、 「数代まえにふたつにわかれて、あちらは村の北にあるところから北神家、こっちのほうは村の西にあたるところから西神家と、そういうことになったんだが、この両家の|確《かく》|執《しつ》の原因なども、いまはもう伝説のかなたにかすんでしもうて、なにがなにやらわけがわからなくなっている。それでいて両家の連中、代々たがいに憎みあい、のろいあうべきものとして幼時から育てられているんだから、いやはや、因果といえば因果なもんです。ところが、そうなると不思議なもんで、両家が反目しあわねばならんような出来事、利害衝突をきたすような事件が、ちょくちょく持ちあがってくるんですな。この湖水などもそのひとつなんだが……」  と、語り手はちりめんじわをさむざむときざんだ湖水の表面を見わたしながら、 「あんたもお気づきのこったろうが、これは人工湖なんです。明治二十何年かに、この向こうをながれる川が|氾《はん》|濫《らん》して、沿岸一帯水びたしになったことがある。これはいまでも|故《こ》|老《ろう》のあいだに語りつがれる|未《み》|曾《ぞ》|有《う》の大水害だったんですが、そのあとで、どうしても川の沿岸のどこかに、出水の調節をするための人工湖をつくらねばならんということになって、そこで白羽の矢がたったのがこの村なんです。さあ、そのときの村民の騒ぎというのを御想像ください。農民にとって土地よりだいじなもんはない。しかもここはごらんのとおりで山ばかり、平地というもんがいたってすくない。そのわずかばかりの平地を湖水の底にしずめてしまうちゅうんですから、村の連中にとっちゃ、しんにこれ死活問題です。しかし、ここに人工湖をつくるちゅうことは、国家の至上命令なんだから、農民がどんなに騒いだところでしかたがない。そこで、なんとかして、自分の土地だけでもたすかりたいというのが、まあ人情ですな。ところで、この土地でいちばんたくさん、土地を持ってるちゅうのが、北神家と西神家なんだから、両家のあいだにはげしい利害衝突が起こったというのももっともな話で、当時の両家の争いは、いまでも村の語りぐさになってるくらいで、それこそ、あわや血の雨が降らんばっかりだったというんですな」 「なるほど、それに代々の確執からくる感情問題もからんでるでしょうからね」  金田一耕助は寒そうに|襟《えり》をかきあわせながら、眼をあげて湖水の周囲を見わたした。  湖水をいだく山々は、湖畔にわずかばかりの湿地帯をのこしたきりで、|摺《すり》|鉢《ばち》の壁のようなけわしい傾斜をもって、|突《とっ》|兀《こつ》として|眉《まゆ》の上にそびえている。それらの傾斜はよく耕されて、一面に|葡《ぶ》|萄《どう》だの、|水《すい》|蜜《みつ》|桃《とう》だのが植わっている。  それが耕地をうばわれたこの村の、唯一のなりわいとなっているのだが、だれの眼にもそれはいかにもいたましい努力にみえる。 「それで、そのときは北神家と西神家、どちらに軍配があがったんですか」 「それがね、皮肉なもんですな。両家の猛運動のかいもなく、けんか両|成《せい》|敗《ばい》とばかりに、結局双方ともあらかた湖水の底にしずんでしまったんだから、恨みっこなしといえばいえるもんの、憎悪と反目だけは旧に倍してながく尾をひいたというわけです」 「なるほどねえ」  金田一耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、 「そういう両家の感情的なわだかまりを無視しては、こんどの事件の根底によこたわっているものを、理解することはできないというわけなんですね」 「そうです、そうです。それなんです」  と、金田一耕助の相手はつよくうなずいて、 「わたしは思うんだが、いま、われわれがこうして、躍起となって探している|御《み》|子《こ》|柴《しば》|由《ゆ》|紀《き》|子《こ》ちゅう女が、はたして、北神家と西神家のせがれたちが、血まなこになって争わねばならんほど、ねうちのある女だったかどうか疑問だと思うんです。それゃ、べっぴんはたしかにべっぴんだったそうだ。写真を見ても、まあ|鄙《ひな》にはまれなというような器量ですな。それに|上海《シャンハイ》からの引き揚げ者で向こうで相当にくらしてたというから、こういう農村へ入ってくれゃ、それゃ、眼につく女だったにゃちがいないが……しかし、それかといって北神家と西神家のせがれたちが、いのちにかけても……と、いうほどの娘だったかどうか……やっぱりなんですな、先祖からの意地が大いに手つだっていたんでしょうな」 「それで、結局その|鞘《さや》|当《あ》ては、北神家のせがれの……なんてましたかね、|浩《こう》|一《いち》|郎《ろう》てんですか、その浩一郎に軍配があがったというわけですね」 「そうです、そうです、その浩一郎ってのは村じゃ一応、模範青年ってことになってるんですな。それでまあ、由紀子の意向はそっちへかたむき、結納もすんで、秋の取り入れがおわったら、式をあげようということになってたところが……」 「そこへ西神家から|横《よこ》|槍《やり》が出たというわけですか」 「そうです、そうです。それというのが御子柴の家はいくらか西神家に恩義をこうむっているんですな。御子柴一家は両親に由紀子、それから中学へ行ってる弟の四人家族なんですが、これが終戦後、着のみ着のままで上海から引き揚げてきた。それを最初に引きとって、めんどう見たのが西神家なんです。木小屋かなんかとりつくろって、そこへ住まわせておいたんですな。当時はなにしろ農村の景気のいい絶頂でさあ。ごらんのとおりこのへんじゃ、水田がすくないから、農民でも主食の配給をうけるもんが多いんですが、そのかわり、果物のほうが羽根がはえたように売れていく。おもしろいほど金がながれこんできたもんです。それでまあ、御子柴一家も西神家の果樹園の手つだいしたり、わずかばかりの土地を開墾して、ねずみのしっぽみたいなさつまいもを作ったり、そんなことでどうにかこうにか暮らしてきたんですが、これひとえに西神家のおかげではないか。それをなんぞや、西神家のせがれを|袖《そで》にして、北神家へ嫁にいくとはなにごとぞや、と、そういうわけで苦情が出たんですな」 「西神家のせがれはなんとかいいましたね」 「|康《やす》|雄《お》ちゅうですがね。因果なことにゃ、これが北神家の浩一郎とおないどしだから、いっそう争いがはげしくなります。しかし、村のもんはいってますな。西神家も悪い。由紀ちゃんを嫁にする気があるなら、もうすこし御子柴家のもんをだいじにしとけばよかったのにってね」 「すると、西神家じゃあんまりだいじにもしなかったというわけですか」 「ええ、それがね、めんどうを見てるとはいうもんの、ずいぶん邪険にして、まるで牛馬を扱うような調子だったといいますから、あんまり威張りもできんらしい。当時はなんしろ人手が足りず、|猫《ねこ》の手でも借りたいところだったから、おためごかしにずいぶんこき使ったんですな。それにゃ、御子柴の一家も内々腹にすえかねていたらしい。もっとも、昨年あたりから、いくらかようすが変わってきてたそうです。それというのが、引き揚げてきたころは、まだ十五、六の小娘だった由紀子が、年ごろになるにしたがって、だんだんきれいになってくる。そうなると若いもんがほっときませんや。なにかと口実をもうけては御子柴の家へあそびにくる。由紀子のおふくろちゅうのがまた都会育ちで如才がない。それでいつのまにか由紀子の家は、村の若いもんのクラブみたいになってしもうた。そうなると西神家でも、なるべく悪口はいわれたくないもんだから、いくらかまあ、ましな取り扱いをするようになったというわけです」 「それでまだそのころは、由紀子を嫁にする腹はなかったんですね」 「それはもちろん。こういうことにかけちゃあ、田舎の人間のほうが都会の人間より勘定高くできてますからな。無一物の引揚者の娘など、いかにべっぴんだからと、嫁にしようなどと考えるもんですか。もっとも、親の心子知らずで、康雄のほうではだいぶんまえから|御執心《ごしゅうしん》だったらしい。しきりに由紀子のごきげんをとってたそうですが、親たちにしてみれば、それをむしろにがにがしいことに思うていたんですな。ところが、そういう形勢が|俄《が》|然《ぜん》一変したというのが、北神家のせがれ、浩一郎の立候補なんですな。しかも、北神家では両親とも、この縁談に承諾をあたえているときいて、西神家の親たちもあわてだした。ほかへ嫁にいくならともかく、北神家へ嫁にいかれたら、それこそ西神家の面目はまるつぶれです。北神家へとられるくらいならうちへ……と、いう意地も手つだってるし、それによその花は赤いのたとえのとおり、いままで手もとにおいて、牛馬同様にこき使ってるうちはそうも思わなかったものが、北神家ほどのうちが眼をつけるかと思うと、いまさらのように由紀子という娘が、見なおされてくるちゅうわけでしょう。急にちやほやしはじめたというんです」 「なるほど、持つべきものは美人の娘というわけで、御子柴一家も|有《う》|卦《け》に入ってきたわけですな」  金田一耕助のことばの調子は、しかし、どこか重く暗かった。 「そうです、そうです。そういうわけです」  語り手もむっつりとうなずくと、 「まえにもいったとおり、由紀子のおふくろちゅうのが利口もんで、北と南とを両|天《てん》|秤《びん》にかけて、たくみに手玉にとっていく、娘の由紀子ちゅうのがおふくろに似た利口もんとみえて、どっちへも等分に|愛嬌《あいきょう》をふりまく。それでも、そこは地の利を得ているだけあって、はじめのうちは西神家の旗色のほうがよさそうに見えてたそうです。それが最後の土壇場になってひっくりかえって、北神家の結納がおさまったちゅうんだから、さあ、おさまらないのは西神家です。これゃあ、婚礼までにひと騒動起こらずばいまいといったところへ、突然由紀子が|失《しっ》|踪《そう》したもんだから、騒ぎが急に大きくなってきたわけです」  語り手はそこでひと息いれると、思い出したようにあたりを見わたす。  湖水の上に散らばった、|田《た》|舟《ぶね》やモーターボートからは、さかんに網がうたれ、また、ながい|竿《さお》で水のなかがかきまわされる。しかし、まだどこからも成果があがったという合図はない。  そこは山陽線のKから一里あまり奥へ入った山間の一|僻《へき》|村《そん》。いまその村の人工湖にボートをうかべて、金田一耕助と相対しているのは、岡山県の警察界でも|古狸《ふるだぬき》といわれる|磯《いそ》|川《かわ》警部。  金田一耕助は妙に岡山県に縁があって、「本陣殺人事件」でデビューしたときも岡山県の農村だった。それから「獄門島」「八つ墓村」と、たびたび岡山県で事件を取り扱っているが、そのつど行動をともにするのが、この磯川警部である。  それだけに金田一耕助は、このずんぐりした猪首の警部に、ふかい親愛の情をおぼえて、関西方面へ旅行すると、いつも足をのばして岡山まで、警部に会いにくることにしている。  こんども大阪まで来たついでに、岡山まで足をのばして、磯川警部を訪問したところ、こっちへ出張していると聞いて、あとを追っかけてきたのがきっかけで、はからずもこの異様な事件にぶつかったというわけである。      二 「それじゃ由紀子という娘が、失踪した当時の事情というのを聞かせてください。きょうでもう五日になるのでしたね」  金田一耕助はさっきから、なにか気になるように湖畔のほうを見ていたが、やがてその視線を警部のほうにもどすと、そうおだやかに切りだした。  湖畔にはおおぜいのひとがむらがって、湖上における警官たちや青年団の活躍ぶりをながめているが、なにかしら切迫した空気がそこに感じられる。  三方山にとりかこまれたこの土地の秋は、日の暮れるのもはやく、湖水の上にはしだいに|翳《かげ》りがひろがってきて、例によってよれよれのセルによれよれの|袴《はかま》といういでたちの金田一耕助は、さっきから肌寒さをおぼえて、しきりに貧乏ゆすりをしている。 「ええ、そう、きょうは十月八日だから、ちょうど五日になりますね。十月三日が隣村の祭りなんだが、由紀子はそのお祭りに行ったきり姿を消してしまったんです」  警部はふとい指をあげて、湖水の西に牛が寝そべったようなかっこうでつらなっている山々を指さしながら、 「隣村というのはあの山のむこうにあるんだが、べつに山越えをしなければならんわけでもなく、|山《やま》|裾《すそ》をまわっていけるんだが、女の足だと半時間くらいはかかりますからな。ここいらの村々のもんは、みんなたがいに縁組みしとりますから、どの村にも親類縁者がある。だから祭りというとたがいによんだりよばれたり、まあ、田舎ではお盆よりも正月よりも、祭りがいちばん楽しみなんですな。ことにこの隣村のY村の祭りちゅうのは、近在でいちばん時期がはやいんで、みんな珍しがって押しかける。御子柴の家は引揚者だから、隣村に|親《しん》|戚《せき》があるわけではないが、それでも由紀子は友だちに誘われて出かけたんです。なんでもはやめに夕飯食って、家を出たのは四時過ぎだったというんですがね」 「友だちというのは……?」 「みんな女の子で、五人づれで出かけたというから、ほかに四人いたわけですな。それで、むこうのお宮へ行って、お|神《か》|楽《ぐら》やなんか見ていたんですが、そのうちに由紀子の姿が見えなくなったのに気がついたそうで……」 「それは何時ごろのことですか」 「だいたい八時か九時ごろのことだろうというんですが、まさかこんな騒ぎになろうとは、だれも思わなかったから、そのときはかくべつ気にもとめなんだんですな。なんでもむこうへつくとまもなく、大したことはないけれど、少し気分が悪いといってたから、さきへかえったんだろうくらいに思ってたそうです。なんでもその晩は|仲秋明月《ちゅうしゅうめいげつ》にあたっていて、とても月がきれいだったそうですから、女ひとりの夜道でも、そう不自由はなかったんですな」 「それっきり、だれも由紀子の姿を見たものはないんですか」 「そうなんです。だからおかしいちゅうんですな。由紀子が山裾の道を通ってかえったとしたら、だれかに出会わんちゅう法はないんです。祭りのお神楽はよなかの一時ごろまでありますし、それに青年団の余興、つまりのど自慢ですな。これはもう明け方の五時ごろまでつづいたといいますから、八時や九時はまだ|宵《よい》の口で、隣村とこの村をつなぐ道は、三々五々、人通りのたえまがなかったというのに、だれひとり由紀子の姿を見たものがない。それがおかしいちゅうんです。由紀子はなにしろ、近在きっての評判娘だから、会えばだれでもおぼえているはずなんですがな」 「山裾の道よりほかに道はないんですか」 「いや、それはあります」  と、警部は|巾着《きんちゃく》の口をしぼったように、湖水の奥をふさいでいる、このへんでもいちばんたかい山を指さしながら、 「あの山を越えると村道を行くよりいくらかちかいんです。しかし、それも屈強の男の足のことで、足弱ならばむしろ山裾の村道をまわって行くほうが、かえってはやいかもしれませんな。それに、いかに月がよいからちゅうて、女ひとり夜ふけになって、山越えするとは思えませんしね」 「その晩、山越えをしたものはだれもいないんですか」 「いや、それがひとりあるんです。北神九十郎ちゅうて、これまた満州からの引揚者なんですがね。その男が夜の十二時過ぎ、山越えをしてかえってきたちゅうんです」 「北神九十郎というと浩一郎の家と親戚ででも……」 「さあ、それはいずれ株内じゃありましょうが、そうちかしい親戚ちゅうんでもなさそうです。それにこの男、三十年も満州にいたそうですからな」 「それで、その男、途中でなにか気がついたことでも……?」 「いや、べつに、なにも気がつかなんだというとります。もっとも、ひどく酒に酔うていたそうですから、途中でなにかあったとしても気がつかなんだでしょうな」 「それで西神の康雄や、北神の浩一郎という青年は、その晩、どうしていたんです」 「西神家の康雄のほうは、その晩、隣村の親戚へよばれていって、ぐでんぐでんに酔っぱらったあげく、そこに泊まっているんです。ところが北神家の浩一郎のほうは、その晩、祭りにも行かず、一時ごろまでむこうに見える水車小屋で、米を|搗《つ》いていたそうです」  磯川警部の指さしたのは、湖水のいちばん奥まったところである。そこに湖水へながれこむ渓流があり、その渓流のそばにこけら|葺《ぶ》きの水車小屋がたっている。山越えで隣村へ行くには、その水車小屋のすぐ上手にかかっている橋をわたっていくのである。 「あの水車小屋は村の共有になっていて、毎日順繰りに使うことになっているんですね。その晩は北神家の番ではなかったが、番にあたっていたもんが、隣村の祭りへ行きたいちゅうので、番を北神家へゆずったんですな。なにしろ、このへんじゃ水田がすくないもんだから、どのうちも米は不足する。それで、早場米をつくって、一日もはやく搗いて食おうというわけで、浩一郎も精を出したんですな。いや、昔ならば北神家のせがれともあろうもんが、米搗きなんどすることはなかったんでしょうが、これも時世時節で、作男なんかもいなくなってしまいましたからな」  金田一耕助は考えぶかい眼つきになって、 「その浩一郎という青年はどうなんですか。祭りなどというにぎやかなことはきらいで、ひとり黙々として米でも搗いていたいという青年なんですか」 「いや、ところがそうでもないんですな。なにかことがあると、まっさきにやるちゅうふうで、ことにのどがよくて歌がうまいんだそうです。それですから、隣村の祭りののど自慢にも、ぜひ出てくれちゅう招待を、どういうわけかことわって、水車で米を搗いてたちゅうんで、そこんところがちょっと……陰性といえば、振られたほうの康雄のほうが、どこか陰性なところのある青年ですがね」  金田一耕助は警部の顔を見つめながら、 「それはちと妙ですね。そういう青年が年に一度の祭りの招待をことわるなんて……」 「ほんとうにそうです。この浩一郎という青年についちゃ、ほかにも妙なことがあるんですが、しかし、その晩、水車小屋にいたちゅうことはたしかなんで。さっきいった九十郎という男ですね。その男は十二時過ぎに山越えでかえってきたが、山越えでかえってくると、ほら、あの橋をわたって水車のそばを通ることになるんです。そのとき、浩一郎が小屋のなかで米搗きをしていたんで、ふたこと三こと、言葉をかわしているんです」  金田一耕助はなにかしら、また気になるふうで湖畔のほうへ眼をやりながら、 「なるほど。ところで、浩一郎について妙なことというのは……?」 「それがどうもおかしいんです。とにかく、そうして娘ひとり突然姿を消したもんだから、この村はいうにおよばず、隣村なんかも大騒ぎでさあね。御子柴のうちじゃ青くなって、あちこち探してまわるやら、|八《はっ》|卦《け》|見《み》に見てもらうやら、村は村で青年団が山狩りするやら、まあ、いろいろやったんですが、すると祭りの日からなか一日おいて五日の朝、由紀子の弟の啓吉というのが、自宅のうらの庭で妙なものをひろった。浩一郎から由紀子にあてた手紙なんですがね」 「で、その内容は……?」 「三日の晩、水車小屋で待っているから、かっきり九時にやってきてくれ。式をあげるまえにぜひ話しておきたいことがあるから。……ただし、このことはぜったいにだれにもさとられぬように……と、だいたいそんな意味なんですがな」 「それじゃ、警部さん、話は簡単じゃありませんか。ぜったいに、だれにもさとられぬようにという浩一郎の指令なので、由紀子はきっと人目を避けて、山越しにこの村へかえってきたんじゃないんですか」 「ところがね、金田一さん、浩一郎はぜったいに、そんな手紙を書いたおぼえはないといいはるんです。事実また、筆跡をしらべてみても、浩一郎の筆とはまるでちがっているんですがね」 「なるほど。しかし、よしんばそれが|偽《にせ》手紙としても、由紀子がそれにあざむかれて、水車小屋へやってくるということはありうるでしょう」 「ところが、浩一郎はまた|頑強《がんきょう》に、それを否定するんですね。自分は宵から一時ごろまで、水車小屋にがんばっていたが、由紀子のやってきたなんてことはぜったいにない。もっともその間、半時間ぐらい、横になってうとうとしたが、由紀子がやってきたら気がつくだろうし、自分が気がつかなかったら、由紀子のほうで起こすはずだというんです」 「水車小屋には横になるような場所があるんですか」 「ええ、それはあります。三畳じきくらいの、|蓆《むしろ》をしいた板の間があって、|枕《まくら》なんかもそなえつけてあり、毛布でも|抱《かい》|巻《まき》でも持ちこむと、ちょっと横になれるようになっているんです。ところが、またここに妙なことには、浩一郎はそうして頑強に否定するものの、村の駐在の清水君ちゅうのが、水車小屋をしらべたところが、いまいった蓆の下から由紀子の紙入れが出てきたんです。しかも、隣村の祭りへ出かけるとき、由紀子がそれを持って出たってことは、両親のみならず、いっしょに行った友だちなんかもみんな証言してるんです」 「それじゃ、もう問題はないじゃありませんか。やっぱり由紀子は水車小屋へ……」 「まあ、まあ、待ってください、金田一さん。それだけの単純な話なら、なにもわたしがわざわざ出張してくることはないんですからな。問題はその手紙と紙入れなんで。……と、いうのは由紀子の失踪したのは、いまいったとおり三日の晩なんだが、その翌日の四日の夕方に、このへん一帯、秋にはめずらしい大夕立があったそうです。なんでも三週間めのおしめりだちゅうんで、みんなよくおぼえとるんですがね。だから、由紀子が三日の夕方、家を出るときその手紙をおとしていったものならば、五日の朝、由紀子の弟啓吉が発見したときには、その手紙、ズブぬれになっていなければならんはずでしょう。ところがそれがいくらか湿ってはいるものの、夕立にうたれた形跡なんてみじんもないんです。また、紙入れのほうですが、これまた四日の晩に勘十という男……この男が祭りの晩、浩一郎に番をゆずった男なんですが……その男が四日の晩に、水車小屋で米搗きをしてるんですが、そのとき、一度蓆をあげて掃除をしたが、そんな紙入れなんか、どこにもなかったというんです」  金田一耕助の眼はしだいに大きくひろがってくる。さっきからもじゃもじゃ頭へつっこんでいた、五本の指の運動が、しだいにはげしくなってくる。これが興奮したときの、金田一耕助のいくらか奇妙な習癖なのだ。 「な、な、なるほど。そ、そ、そいつはおもしろいですな」  と、これまた興奮したときのくせで、金田一耕助はどもりながら、 「すると、だれかが浩一郎をおとしいれようとして、作為を|弄《ろう》しているというんですね」 「じゃないかちゅう気がするんです。この話を聞いたとき、わたしゃなんだかいやあな気がした。いままでお話ししただけのことなら、単なる村の小町娘の失踪事件……よしんば、たとえ、そこに犯罪があるとしても、ありふれた殺傷事件ですむんですが、この手紙と紙入れのことがありますから、これゃただの事件じゃないぞ。相当手のこんだ事件だぞと、そんな気がつよくしたちゅうわけなんです。ところが、ねえ、金田一さん」  と警部は体を乗りだすようにして、 「ここにまたひとつ、おかしなことがある」 「おかしなことというのは……?」 「いまいうた勘十という男ですがね。勘十のいうのに、紙入れに関するかぎり、四日の晩、そんなものはぜったいになかったというんですが、それにもかかわらず勘十は、三日の晩、由紀子が水車小屋へ来たんじゃないかという疑いを、まえから持っていたちゅうんですな」 「と、いうのは……」 「と、いうのは四日の晩、勘十が|米《こめ》|搗《つ》きに行って、すこし疲れたから横になろうとすると、枕にひと筋、女の髪の毛がついていたというんですな。勘十も三日の晩、由紀子の隣村の祭りへ行ったきり、行方不明になっていることを知っている。しかも、三日の晩、水車小屋にいたのは浩一郎だから、さては由紀子と浩一郎、ここでうまくやりおったなと思ったというんです」  金田一耕助はまた気になるような視線を、湖畔のほうに投げながら、 「それじゃいったいどっちなんです。由紀子は水車小屋へやってきたのかこなかったのか。……」 「それがどうもわからん。浩一郎はぜったいに、そんなことはないと否定しつづけているんだが……」 「しかし、どちらにしても、由紀子は死体となって、この湖水のどこかにしずんでいるという疑いがあるんですね」 「そうです、そうです。五日の夕刻由紀子の|下《げ》|駄《た》が、六日にはおなじく帯が、湖水から発見されているんです。それできのうからわたしもこっちへ出張してきて、こうして捜策してるちゅうわけです」 「しかし、死体はもうどこかへ流れ去っているという心配はありませんか」 「いや、その心配はないんです。三日の夕方からして、ああしてあの水門は閉ざしたまんまなんだそうで。四日の夕方に大夕立があったことはあったが、なにしろ三週間もの|日《ひ》|和《より》つづきで、相当減水していたから、水門からあふれるちゅうほどではなかったんですな。だから、死体がこの湖水へ投げこまれたとしたら、いままだあるはずなんだが。……」  警部はいくらかいらいらした眼つきになって、湖上にちらばっている舟を見まわしている。どこからもまだなんの反響もおこらず、山の影はいよいよながくなって、いまはもうすっかり湖水のおもてをおおうている。これではきょうの捜索もむだにおわるのではないか。……  金田一耕助はあいかわらず、妙に気になる視線を湖畔のほうにむけながら、 「ところで、警部さん、三日の晩にはもうひとり、この村から姿を消したものがいるというじゃありませんか」 「ああ、そうそう、村長の細君ちゅうのがいなくなってるんですがね。ただし、村長自身は大阪のほうへ行ってるんだといってるそうで。……これはしかし、こっちの事件と関係があるとは思えませんがね。……おい、どうした、まだなんの手がかりもないか」  と、警部は隣の舟に声をかける。 「へえ、どうもいっこう。……警部さん、こら|浚渫《しゅんせつ》船でもやとうてこんことには、らちがあかんかもしれませんぜ」 「そうなるとやっかいだなあ」  磯川警部はいまいましそうに|眉《まゆ》をひそめる。さっきからしきりに湖畔のほうを気にしていた金田一耕助は、そのとき、ふと警部のほうへむきなおると、 「ねえ、警部さん、むこうに見えるあの小屋ですがねえ。ほら、部落からはなれて一軒ポツンと、湖水のすぐそばに建っている小屋があるでしょう。あれはいったいどういう小屋なんでしょうね。妙に|烏《からす》がさわいでいるようだが……」  磯川警部は不思議そうに、金田一耕助の指さすほうへ眼をやったが、急にぎょっとしたように眼を見張った。  部落と水車小屋とのちょうど中間ぐらいの、湖水の水際から二|間《けん》ほどあがった|崖《がけ》の上に、両方からせまる急坂におしつぶされそうなかっこうで、木小屋か牛小屋か、小さな小屋が一軒ポツンと建っている。  そのへんはもうすっかり|夕《ゆう》|闇《やみ》につつまれて、|蒼《そう》|茫《ぼう》たる|雀《すずめ》色のたそがれの底にしずんでいるのだが、その小屋の上一面に、|胡《ご》|麻《ま》をまいたように烏がむらがって、不吉な声をたてているのである。 「き、金田一さん」  磯川警部は眼をひからせ、ちょっと呼吸をはずませた。 「あの小屋がなにか……」  と、そういう声はおしつぶされたようにしわがれている。 「いえねえ、警部さん、ぼく、さっきから考えてるんですが、あてもなく湖水のなかをひっかきまわしているより、あの小屋のなかをしらべてみたほうが、手っとりばやいんじゃないかと思うんです」  磯川警部はまじろぎもせず、小屋の上にむらがる烏どもを見つめていたが、急にその眼をちかくにいる田舟のほうにもどすと、 「きみ、きみ、清水君だね。きみ、むこうに見えるあの小屋な、ほら、水際からすこしあがったところに建っている小屋さ、烏がいっぱいむらがっている小屋があるだろう。あれゃいったいなにをする小屋だね」  この村に駐在している清水巡査は、まだとても若く、団子鼻にあごのひらたい童顔には、にきびが一面に吹き出している。 「ええ、あの、警部さん、あれは北神九十郎のうちですが……どうしたんでしょう、烏があんなに鳴きたてて……」 「北神九十郎……? ああ、満州からの引揚者ですね。家族があるんですか」  金田一耕助がたずねた。 「いえ、あの、独りもんなんで。……満州から引き揚げてきたときには、おかみさんがおったんですが、ひどい梅毒で、一年ほどして死んでしもうて、それからずっと、ひとりで暮らしておるんです」 「祭りの晩、山越えでかえってきたという男ですね。どういう人柄ですか」 「はあ、それが……」  と、清水巡査はいくらかかたくなって、 「ひとくちにいいますと、敗戦ボケちゅうんでありましょうか。それというのも、無理からんところもありまして。……満州では相当にやっておったちゅう話でありますが、それが|素《す》|寒《かん》|貧《ぴん》になって引き揚げてきまして。……しかも、引き揚げの途中、おかみさんちゅうのが、つまり、その……むこうの連中にさんざんわるさされたんですね。それで、ひどい病気をもろうてかえって、体じゅう吹出物だらけちゅうありさまでした。それでありますから、村のもんも気味わるがって、だれも相手にせなんだんであります。おかみさんがのうなったときにも、医者もよりつかんちゅう状態で。……それで、すっかりボケてしもうて、ろくすっぽ村のつきあいもせず、あれでどうして暮らしとるのかと思われるほどで。……まあ、牛か馬みたいな生活をしとります。しかし、警部さん、おかしいですなあ。あの烏のさわぎかたは……」 「き、金田一さん、行ってみましょう!」  磯川警部が|噛《か》みつきそうな声でそういって、急ピッチにオールをあやつるうしろから、清水巡査もあわをくったように、 「警部さん! 警部さん!」  と、呼吸をはずませ、にきびづらの童顔にぐっしょり汗をかきながら、田舟をあやつってついてくる。      三  この事件が当時あのように世間をおどろかしたのは、犯人よりも、また殺害方法よりも、死体の発見されたときの世にも異様な状態にあった。  金田一耕助もだいたい想像はしていたものの、実際、|眼《ま》のあたりに見た死体には、かれの想像をはるかにこえた、一種異様な不気味さがあったのだ。  それはさておき、突然ひきかえしてきた二|艘《そう》の舟が岸につくのをみると、なにごとが起こったのかと、湖畔にむらがっていた野次馬がばらばらとそばへかけつけてくる。清水巡査はそれを追っぱらいながら、金田一耕助と磯川警部を、九十郎の小屋へ案内する。  さっきもいったように、九十郎の小屋は水際から二間ほどあがったところの崖の上に建っているのだが、ちょうど左右からせまる|山《やま》|襞《ひだ》のなかに、めりこむようにちぢこもっているので、湖水からだとよく見えるが、地上からだと、どの地点からもほとんど見えない。ひとぎらいとなった|隠《いん》|遁《とん》者が世間の眼からのがれてかくれ住むには、このうえもなく格好の場所というべきである。 「九十郎のやつが……九十郎のやつが……あいつ、なるほどつきあいの悪いやつやし、こっちから声をかけても返事もせんようなやつで、子どもなんか、九十郎の顔を見るとこわがって逃げだすくらいだが……まさか、……まさか……なにしろ、三十年以上も日本からはなれとったようなやつですから、気心がちっともわからんし、畜生ッ、しっ、しっ!」  この意外な事件の進展に、まだ若い清水巡査はすっかり興奮している。童顔にはなばなしく吹きだしたにきびのひとつひとつが、汗をおびてぎらぎら光っている。  三人の男がちかづいてくるのを見ると、屋根にむらがっていた烏どもが、いっせいにガアガア鳴きながらとびたったが、そのままほかへとんでいくのではなく、あちらの|梢《こずえ》、こちらの崖っぷちへと羽根をやすめて、また、ひとしきり、鳴きたてながら、首さしのべて好奇的な姿勢で、三人の姿を見まもっている。  実際、たそがれの空に鳴きたてる烏どもの鳴き声には、一種異様な鬼気を感じさせるものがあった。  清水巡査が牛馬同様の暮らしをしているといったのもあやまりではなく、九十郎の小屋はそこらにある牛小屋にそっくりだった。いや、牛小屋でももうすこしましなのがあるかもしれぬ。それでも都会のこういう種類の小屋からみると、荒壁がついているだけましだろう。  三人がぐるりと小屋をひとまわりすると、入り口にはまった腰高障子の上に、まっくろになるほど|蠅《はえ》がたかっていて、なにかしら一種異様な臭気が鼻をつく。  金田一耕助と磯川警部はどきっとしたように眼を見かわせる。 「烏や|昆虫《こんちゅう》の|嗅覚《きゅうかく》はおそろしい。警部さん」 「よし、なかへ入ってみよう。清水君、障子をひらいてみたまえ」  たてつけのわるい障子が、がたぴしと音をたててひらくと、蠅がわっととびたった。  なかは四畳半ほどのひろさだが、こういうところでも人間、生活をしていけるという見本のようなものだ。床には米俵のほぐしたのがしきつめてあり、すみっこのほうに|土《ど》|瓶《びん》や|茶《ちゃ》|碗《わん》が、|戸《と》|棚《だな》のように立てておいた|蜜《み》|柑《かん》|箱《ばこ》のなかにならんでいる。炊事は外でやるらしく|鍋《なべ》、|釜《かま》、七輪の類は見当たらない。  元来、この小屋は北神家の小屋だったのである。上の山できった木を|薪《たきぎ》にして、いったんこの小屋へつんでおき、それを舟で部落のほうへはこんだものだが、九十郎夫婦が引き揚げてきたとき、それを無償で提供したのだ。したがってこの小屋には窓というものがなく、むっとこもった空気のなかに、耐えがたいほどの臭気がたてこめて、蠅がわんわんと小屋じゅうを舞いくるっている。  それでも小屋の一方には、押し入れらしいものがあり、そのまえに|蓆《むしろ》が二枚ぶらさがっているのが、まるで乞食の住む|蒲《かま》|鉾《ぼこ》小屋のようである。 「清水君、その蓆のなかだ。その蓆をめくってみろ」  警部はハンカチで鼻をおさえながら、窒息しそうな声をあげる。言下に清水巡査が蓆をめくるかわりに、一枚一枚ひきちぎった。  押し入れのなかはそれでも感心に二段になっていて、上の段にはうすい|煎《せん》|餅《べい》布団が縦のふたつ折りにして敷いてあり、その|枕下《まくらもと》や足のほうには、ボロがいっぱいつめてあるが、その布団のふくらみからして、そこになにがあるかだれの眼にもすぐわかる。  清水巡査がその布団をめくると、金田一耕助と磯川警部が、 「…………」  と、無言のうめき声をあげて一歩うしろへしりぞいた。そこには一糸まとわぬ全裸の女が、むっとするような臭気のなかによこたわっているのである。 「九十郎のやつが……九十郎のやつが……」  ひとめ見て、そこでどのような忌まわしいことがおこなわれていたかを|覚《さと》ると、まだわかい清水巡査は、べそをかくような顔をして、はあはあとはげしい息使いをしている。  自分のあずかっているこの村に、このような忌まわしい事件がおこったことにたいして、清水巡査はその重大な責任感に圧倒されているのだ。 「清水さん、清水さん」  と、金田一耕助が息のつまりそうな声で、 「顔を……顔を見てください。御子柴由紀子にちがいありませんか」  清水巡査はおっかなびっくりといったかっこうで、死体の顔をのぞきこんでいた。なに思ったのか、突然、 「わっ、こ、こ、こいつは……」  と、腸をしぼるような声をあげてうしろへとびのいた。 「ど、どうしたんだ。清水君、由紀子じゃないのか」 「ゆ、ゆ、由紀子は由紀子です。し、し、しかし、警部さん、あ、あ、あの眼は、ど、ど、どうしたんです……」 「なに……? 眼が……?」 「清水さん、眼がどうかしたんですか」  金田一耕助と磯川警部は不思議そうに眼を見かわしたのち、いそいで死体の顔をのぞきこんだが、そのとたんふたりとも、大きな眼を見張ったまま、その場に硬直してしまった。  あたりに立てこめた異様な臭気にもかかわらず、腐敗はまだそれほどひどく表面にはあらわれていなかった。なるほど、村の若者たちにさわがれただけあって、由紀子はこのへんの女にはめずらしい中高の、いくらか気品にとんだ面差しをしているが、それにもかかわらず金田一耕助は、ひとめその顔を見たとたん、なんともいえぬほど、醜怪な感じにうたれずにはいなかった。  それというのが、由紀子の片眼——左の眼がなかったのである。  そのために、顔半分がくろぐろとうつろになった左の|眼《がん》|窩《か》を中心として、|巾着《きんちゃく》の口をしぼったようにゆがんで、そこだけ見ていると|妖《よう》|婆《ば》のように醜怪で不気味なのである。 「こ、これはどうしたんだ。どうして左の眼をえぐりとったんだ」  磯川警部は呼吸をはずませる。 「警部さん、これは死んでからえぐりとったんじゃありませんね。眼のまわりに傷らしい傷はありませんもの。由紀子ははじめから片眼がなかったんですよ」 「片眼がなかったあ」  磯川警部は眼玉をひんむいて、 「金田一さん、そ、それはどういう意味です」  金田一耕助は|茫《ぼう》|然《ぜん》として眼を見張っている、清水巡査のほうをふりかえって、 「清水さん、由紀子は左の眼に義眼をいれていたという話はありませんでしたか」 「ぎ、義眼……?」  清水巡査はびっくりしたように、金田一耕助の顔を見なおしていたが、 「いいえ、いいえ、あの……そ、そんな話、一度もきいたこと、ありません。しかし……ああ! そ、そういえば、由紀子の眼つきは、いつもちょっとおかしかった。やぶにらみみたいで……だけど、そのために、いっそうかわいく、あどけなく見えたんであります。そ、それじゃ、あれは義眼だったんですか。ち、畜生! このあま! |牝狐《めぎつね》め!」  清水巡査の憤慨ぶりはただごとではない。  金田一耕助と磯川警部は顔見合わせてうなずいた。  清水巡査はまだ若い。独身でもある。かれもまた由紀子の崇拝者だったとしても、べつに不思議はないであろう。  磯川警部がなにかいおうとしたとき、ふいに表の障子に影がさして、足音もなくひとりの男が入ってきた。背後から光をあびているので、顔はよくわからなかったが、入り口に棒立ちになったまま、三人の姿と押し入れのなかを見くらべていたが、 「九十郎、これは、ど、どうしたんだ!」  と、清水巡査にどなりつけられて、まるで骨でもぬかれたように、そのまま、くたくたと土間にへたりこんでしまった。  死体のこのあさましい状態からして、九十郎という男を、どのように凶暴な人物であろうかと想像していた金田一耕助は、相手が思いのほか意気地のなさそうな男なので案外な思いだった。  年齢は五十前後だろうか、小作りな体で、無精ひげをもじゃもじゃはやし、清水巡査もいったとおり、いかにも敗戦ボケらしく、|瞳《ひとみ》がにごって生気がなく、口をポカンとひらいているが、それでいて見ようによっては、陰険らしく見えるところもある。 「九十郎、これはいったい、ど、どうしたんだ。この死体は……?」  |噛《か》みつくように清水巡査にどなりつけられて、九十郎は無精ひげをいっぱいはやしたくちびるを、もぐもぐさせながら、 「へ、へえ、拾いましたんで……」  と、無感動な声でつぶやいた。 「拾ったあ? 馬鹿なことをいうな! 貴様が絞め殺したんだろう」  事実、由紀子は絞め殺されたらしく、のどのあたりになまなましい、くろずんだ指の跡がついている。  九十郎はしかし、あいかわらず無感動な声で、 「いいえ、ほんとうに拾いましたんです」 「拾ったって、どこで拾ったんだ」  磯川警部がおだやかな声でたずねた。 「へえ、湖水のなかに浮いていたんで。すぐそこの崖の下に……」 「それはいつのことだね」 「へえ、あの……大夕立のあった晩で……」 「大夕立のあった晩というと、四日の晩のことだね」 「へえ、そうなりますか。……そうそう、隣村の祭りのつぎの晩でしたから、四日の晩ということになりますか」 「四日の晩の何時ごろのことだね」 「さあ、何時ごろとおっしゃられても……わたし、時計を持っておりませんので。……でも、大夕立のあがったあとのことで……」 「清水さん、夕立は何時ごろあがったんですか」  金田一耕助が清水巡査をふりかえった。 「はあ、あの、八時ごろにはすっかりあがっておりました。お月様がとてもきれいだったんです」 「そうです、そうです。そのお月さんを見ながら、崖の上から小便をしておりましたんです。そして、小便をおわってから、ひょいと崖の下を見ますと、由紀子ちゃんの死体が浮いておりましたんで。……」 「崖の上から見ただけで、由紀子だとわかったのかね」  磯川警部がたずねた。 「いえ、あの、それは……だれだかわかりませんでしたんで。でも、女だということだけはわかりましたんです。それで、いそいで崖をおりると、由紀子ちゃんの体を抱きあげてまいりましたんです。そのとき、由紀ちゃんの手足には、|荒《あら》|縄《なわ》がまきついておりまして……」  金田一耕助はそれをきくと、いそいで死体の手と足をしらべてみたが、そこにはまぎれもなく、なにかできつく縛ってあったらしい|痕《こん》|跡《せき》がのこっていた。 「それから、どうしたんだ」 「へえ、あの……死体を小屋へはこんでくると、ぬれた着物をぬがせて裸にして、自分も裸になって、肌と肌をくっつけてあたためてやりましたんで。……そうすると、息を吹きかえすことがあるということを、聞いておりましたもんですから。……しかし、由紀ちゃんはとうとう息を吹きかえしませんでしたんで。……」 「そのとき、貴様はなぜすぐそのことを、御子柴のうちへ知らせてやらなかったんだ。御子柴のうちで大騒ぎをして、由紀子ちゃんをさがしていることを、貴様だって知ってたろうが」  九十郎は|臆病《おくびょう》なけだもののような感じのする眼を、ちょっとあげて清水巡査の顔を見ると、ひげだらけの口をもぐもぐさせながら、 「へえ、それが……あんまりかわいい顔をしているもんですから……まるで、観音様みたいにきれいで……それですから、つい手ばなすのが惜しゅうなりましたんで……わたしもひとりで寂しいもんですから」  さすがに眼は伏せていたが、顔あからめもせず、全然無感動な声なのである。  磯川警部も清水巡査も、ちょっと二の句がつげぬという顔色である。金田一耕助も背筋をムズムズとはいのぼる不快感を払いおとすことができなかった。 「きみ、きみ、九十郎君」  と、金田一耕助はのどにからまる|痰《たん》をきるように、二、三度つよくから|咳《せき》をすると、 「きみが湖水から拾いあげたとき、死体にはすでに片眼がなかったのかね」  九十郎はギロリと耕助の顔を見たが、すぐにその眼を伏せると無言のままうなずく。 「それでもきみにはこの顔が、観音様のようにきれいに見えたのかね」  九十郎は眼を伏せたまま、 「へえ、そっちのほうさえ見なければよろしいんで……」  金田一耕助がつづいてなにか尋ねようとしたとき、よこから磯川警部がつよい語気でことばをはさんだ。 「おい、着物はどうした? 由紀子の着物はどうしたんだ」 「へえ、その|行《こう》|李《り》のなかに入っておりますんで……」  押し入れの下の段に、古い、小さな柳行李が押し込んである。清水巡査がそれをひらくと、はたしてなかから湿った|銘《めい》|仙《せん》の着物が出てきた。なるほど、相当ながく水につかっていたとみえて、粗末な染めの染料が落ちている。肌着から足袋までいっさいがっさいそろっていたが、みんな絞ったきりなので、じっとりとぬれている。荒縄は湖水へすてたという。  金田一耕助はだまって考えていたが、急に清水巡査のほうへむきなおると、 「清水さん、水車小屋の付近に舟がありますか。すぐ手に入るようなところに……」 「はっ、あの、それは……ふだんはありませんですが、だれかが米が|搗《つ》いているときには、いつも外につないでありますんです。御存じないかもしれませんですが、あそこは部落からうんとはなれておりますし、道がわるいもんですから、米を搗きに行くときには、みんな舟で行くんであります」  金田一耕助はまたちょっと考えて、 「四日の晩、米搗きに行ったのは勘十という男でしたね。そのへんにいたら、ちょっとここへ呼んでくれませんか?」 「はっ」  清水巡査が出ていったあとで、金田一耕助は死体に布団をかけなおした。  勘十はすぐ見つかった。九十郎の家になにかことがあると知って、崖下へあつまってきた野次馬のなかに、勘十もまじっていたのである。 「九ン十、おまえ、どうしたんじゃい。旦那、九ン十がなにかやらかしたんで」  勘十は三十くらいの、このへんの人間特有の、|頬《ほお》|骨《ぼね》の出張った男である。 「ああ、いや、それはいまにわかりますがねえ」  と、金田一耕助がよこからひきとって、 「四日の晩、あんたが水車小屋へ行ったとき、なにかなくなったものがあるのに気がつきませんでしたか。なにかこう、おもしになるようなものが……」  勘十はびっくりしたような眼で、金田一耕助の顔を見なおすと、 「へえ、あの、そういえば|碾《ひき》|臼《うす》がひとつのうなっておりましたんで。……いえ、もう、ちかごろでは使っておりませんので、のうなってもだいじないもんですが、これを……」  と、腰からきせるを取りだすと、 「吸うときに、|吸《すい》|殻《がら》を落とすのに便利なもんですから……」 「石の碾臼?」 「へえ」 「どのくらいの大きさ?」 「これくらいで……」  勘十が手の指で、直径八寸くらいのまるみをつくってみせるのを、磯川警部と清水巡査が緊張した眼で見まもっている。  金田一耕助はうれしそうにうなずいて、 「なるほど、わかった、ありがとう。ところでねえ、勘十君、あんたその晩、小屋のなかにガラス玉みたいなものが落ちてるのに気がつかなかった?」 「ガラス……?」  と、勘十は不思議そうに眼を見張って、 「ガラス玉ってなんですか」 「いや、いや、それはなんでもないんです。そうそう、それからもうひとつおききしたいことがあるんだが、あんた水車の当番を北神浩一郎君とかわったでしょう。あれ、あんたからいいだしたの、それとも浩一郎君から申し込みがあったの?」 「ああ、あれは浩ちゃんのほうからいわれましたんです。わたしは祭りを棒にふるつもりでおりましたんですが、浩ちゃんにそういわれたんで大よろこびで……」 「ああ、そう、いや、どうもありがとう」  金田一耕助は磯川警部と眼を見かわせた。      四  磯川警部と金田一耕助、それにつづいて清水巡査の三人が、にわかに湖上の捜索をきりあげて、九十郎の小屋へはいっていくのを見送って以来、村のひとたちの上に重っくるしくのしかかっていたパニック状態は、そこから手錠をはめられた九十郎と、戸板に乗せられた由紀子の死体がはこびだされるのを見るにおよんで、とうとう沸騰点に達したようだ。  |蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎとは、こういうときに使うことばだろう。戸板をかついだ刑事たちは、むらがりよる野次馬を追っぱらうのに、大汗をかかねばならなかった。  手錠をはめられた九十郎は、村のひとたちの|痛《つう》|罵《ば》をあびながら、それでもきょとんとして、|眉《まゆ》|毛《げ》ひと筋うごかさなかった。例によってポカンとなかば口をあけ、なんの感動もない顔色で、黙々として清水巡査にひったてられていく。  金田一耕助はむこうから由紀子の母親らしいのが、気が狂ったようになって歩いてくるのを眼にすると、あわてて顔をそむけたが、そこで思いだしたように一行とわかれると、ただひとりで、湖水のいちばん奥にある水車小屋へむかった。清水巡査もいったとおり、なるほどひどい道で、これでは車もかよいかねるだろう。  水車小屋は湖水へそそぐ渓流のほとりに建てられていて、五坪くらいもあるだろうか。黒木の丸太組みで、道に面したほうに小さな窓と、これまた黒木づくりの戸がついている。  なかへはいると大きな臼と、臼の上に休んでいる|杵《きね》が眼につく。水車の回転にしたがって、この杵が上下する仕掛けになっているのだが、いまは水車がとまっているので、杵もむろん静止している。  臼のまわりには一面に|糠《ぬか》がこぼれ、床の上には|叺《かます》だの|枡《ます》だの、大きなブリキの|漏斗《じょうご》などがごたごたとおいてあり、天井にはすすけたランプがぶらさがっている。  この米搗き臼の奥に、|南《ナン》|京《キン》米袋をつづりあわせたカーテンがぶらさがっているが、それを開くとなかは一段たかくなっていて、蓆がしいてあり、畳表でつくった|枕《まくら》がひとつ、|垢《あか》じんだ色をしてころがっている。勘十が女の髪の毛がこびりついているのを見たというのがそれだろう。  そこには窓はなかったけれど、組みあわせた丸太のすきまから、たそがれの鋭い光が、幾段もの|縞《しま》となってさしこんでいる。  金田一耕助はちょっとそのへんを探してみたが、べつにこれという期待を持っているわけではない。たとえここが犯行の現場であったとしても、あれからもう五日もたっているのである。そのあいだ村のひとたちが、いれかわりたちかわりやってきているのだから、ここになんらかの痕跡がのこっていたとしても、とっくの昔に踏みあらされているだろうし、もしまた由紀子の義眼が落ちていたとしたら、だれかが見つけているはずだ。  金田一耕助は南京米袋のカーテンをぴったりしめて、小屋の外へ出ると、窓からなかをのぞいてみた。カーテンをしめると、たとえその奥にだれかがいるとしても、窓からそこは見えないのである。  それから間もなく駐在所のおもてまでかえってくると、そのへんいっぱいのひとだかりだった。金田一耕助はふと、さっき九十郎の小屋の腰高障子にたかっていた|蠅《はえ》を思い出し、人間も蠅もおなじことだと、ちょっとおかしくなる。  駐在所の土間には刑事が三人、緊張した顔で立ったり座ったりしている。清水巡査は電話にしがみついてがなりたてていた。 「警部さんは……?」 「奥です」  刑事の返事に奥へとおろうとすると、なかからとびだしてきた男に、あやうくぶつかりそうになった。色の浅黒い、胡麻塩の髪の毛を、きれいに左でわけた、まんざら百姓とはみえぬ男だった。 「やあ、これは失礼を……」  金田一耕助がにっこりあいさつするのにたいして、相手はギロリと、|不《ふ》|遜《そん》な|一《いち》|瞥《べつ》をくれただけで、そのまま駐在所からとび出していった。ひどく|横《おう》|柄《へい》な人物である。  土間からなかへ入ると、ほの暗い電気のついた座敷のなかに、あの異様な臭気が立てこめている。死体が戸板にのっけられたまま、座敷のすみにおいてあるのだ。  そのにおいを消すためか、線香が猛烈な煙をあげている。 「やあ、金田一さん、いま清水君がKへ電話をかけて、死体を取りにくるようにと言うとるところです。ここじゃ解剖もできませんのでね。まあ、それでこのにおい、がまんしてください」  警部は机のまえにあぐらをかいて、刑事になにか口述しているところだった。 「警部さん、いまここを出ていったひとはだれですか」 「ああ、あれは村長です。志賀恭平というんです。そうそう、あんたがさっきあのひとの細君のことを気にしたんで、ちょっと聞いてみたんです。ところが、それがすこしおかしいんですよ」 「おかしいというと……?」 「きのうの返事とちがうんですな。きのうは大阪へ遊びに行っとるちゅうとったのに、きょうは体を悪くして、転地しとるというんですが、その転地さきをいわんのです。なんだかひどく動揺していて、しどろもどろという感じでしてね。まさか……とは思いますけれどね」  磯川警部は|憂《ゆう》|鬱《うつ》そうな眼を死体にむける。 「いったい、いくつぐらいのひとですか。あのひとのつれあいといえば相当の年輩でしょうがねえ」  そこへ清水巡査が電話をかけおわってやってくると、なにやら警部に耳打ちしていた。警部はそれを聞きおわってうなずくと、 「ああ、そう、それでよろしい。ときに、清水君、あの志賀村長の細君というのは、いったいいくつぐらいなんだね」 「はっ、三十二か三でしょう。なかなかきれいなひとで……」 「三十二、三……?」  磯川警部も興をもよおしたらしく、 「ひどくまた年齢がちがうじゃないか。あの村長はもう六十……」 「一です。ことし還暦の祝いをしました。いまの奥さん、後妻だそうでありますが、それにはこんな話がありますんです」  清水さんの話によるとこうである。  志賀恭平は戦争まえまで大阪で私立女学校を経営していて、みずから校長をやっていた。現夫人の秋子というのはそこの女教師だったが、志賀はいつかそれに手をつけた。むろん志賀にはべつに細君があったが、すったもんだのすえ、細君を離別して秋子と結婚した。  そういうことから校長の職も辞し、学校の経営からも手をひかねばならなくなったが、そのことがかえって志賀には幸いしたのだ。そのときつかんだ金で郷里に山を買い、家を建てておいたのである。 「それで、戦争で都会があぶなくなりますと、さっさとこちらへ疎開してきまして、まえの村長がパージでやめると、すぐそのあとがまにすわったんであります。女にかけても相当のもんですが、政治的手腕もなかなかのもんだという評判で……」  清水さんは鼻の頭にしわをよせて笑った。 「それで夫婦仲はどうだったんです。奥さん、美人だという話でしたね」 「はっ、それはもう、あの村長が手を出すくらいでありますから。……夫婦仲はべつにわるいというふうではありませんが、奥さん、いつも寂しそうであります。婦人会の集まりなどへもめったに顔を出しませず、顔を出してもあまり口をきかんそうで……そこらはそこにいる仏のおふくろとは正反対で、こっちのほうは口も八丁、手も八丁……」  金田一耕助は仏の着ているあたらしい着物に眼をやりながら、 「仏といえば、さっきおふくろさんらしい婦人がかけつけてきましたね」 「ああ、もう、あれにゃ手こずりましたよ。戸板へしがみついて離れんのです。まあ、無理もない話だが……やっと、それを引きはなしたかと思うと、こんどは九十郎にとびかかって、……九十郎、頬っぺたにだいぶんみみず|脹《ば》れができましたよ」 「その着物はうちからとどけてきたんですか」 「はあ、おやじと息子がやってきて、ぬれた着物じゃかわいそうだからちゅうて、その着物を着せていったんですが、事件がどうもあんまり陰惨なんで、顔を見るのもつらかったですよ」  磯川警部は顔をしかめた。 「義眼についてなにか……?」 「ああ、それについてはだいぶ恐縮しておりました。由紀子は上海にいる時分、左眼をうしなって義眼を入れたんだそうですが、たいへんよくできた義眼で、ほんものの眼とおなじようにうごくんだそうです。それで、村の連中、だれもそれに気がつかなかったんです。ここにいる清水君なんかも、かえってそれに魅力を感じていたくらいですからな。あっはっは」 「あれ、いやだなあ、警部さんたら」  清水さんは顔じゅうのにきびをまっかにして、頭をかいている。 「いや、冗談はさておいて、ねえ、金田一さん、由紀子はやっぱり水車小屋で殺されたらしいんですよ。あの付近で由紀子を見たというもんが、さっきここへやって来たんです」  磯川警部の話によるとこうである。  三日の晩の九時ごろ、儀作という老人が水車小屋のまえをとおって、裏の山路へさしかかると、上からひとりおりてくる足音がきこえた。そこで儀作がかたわらの森のなかに身をかくしていると、おりてきたのは由紀子であった。由紀子は儀作に気がつかず、そのまま山をくだっていった。  儀作はその晩、浩一郎が水車の当番にあたっていることを知っていたので、たぶんそこへ行くのだろうと、気にもとめずにやりすごしたというのである。 「だから、その老人も小屋のなかへはいるところを見たわけではないが、もうこうなったら、由紀子はきっとそこへ行ったにちがいありませんね」 「しかし、その老人はなんだって、いままでそのことを申し出なかったんです」 「それはやはり、浩一郎に迷惑がかかっちゃならんと考えたんでしょうな。ところが、きょう九十郎の小屋から|死《し》|骸《がい》が出てきたんで、てっきりあいつを犯人と思いこみ、安心して申し出たわけでしょう。しかし、まあ、いずれにしてもこれで由紀子が山越えで、この村へかえってきたということははっきりしたわけです」 「老人はしかしその時刻に、どうして山へのぼっていったんです。隣村の祭りへ行くつもりだったんでしょうか」 「いや、それはたきぎを盗みに行くんであります。このへんでは山と娘は盗みものいうて、平気でひとの山を荒らしますんです。それですから、ひとの足音をきくとかくれるんであります」  清水君が註釈を加えた。 「なるほど。……ところで、その老人は行きがけに水車小屋のそばを通ったわけですね。そのとき、浩一郎はなかにいたかしら」 「いや、行きがけに窓からのぞいたときには、浩一郎の姿は見えなかったというとりますな。かえりにのぞいたときには、|碾《ひき》|臼《うす》のそばにいたそうだが……しかし、それは浩一郎もいうとるように、行きがけのときには、カーテンの奥でうたた寝をしていたんでしょう。いずれにしてもこうなると、浩一郎の容疑は決定的ですね。これにたいして浩一郎がなんとこたえるか、いま呼びにやっとるところですがね」  警部のことばもおわらぬうちに、外からいりみだれた足音がはいってきたかと思うと、刑事に手をとられた長身の青年が、|蒼《そう》|白《はく》の面持ちで姿をあらわした。  実際、金田一耕助はその青年を見た|刹《せつ》|那《な》、まずその体格のみごとなのにおどろいた。身長はおそらく五尺八寸……あるいは九寸あるかもしれない。肩幅もそれに比例してひろく、胸もあつくがっちりしている。|容《よう》|貌《ぼう》はとりたてていうほどではないが、色が白いのでとくをしている。まず、感じは悪くないほうである。それが浩一郎だった。  浩一郎は刑事に手をとられて、奥へはいってきた刹那、由紀子の死体に眼をやって、ぎくっとしたように一歩しりぞいた。しかし、すぐ気がついたように合掌すると、ちょっとのあいだ眼をつむっていた。  金田一耕助はそのときの浩一郎の表情にひどく興味をおぼえた。なんだか観念したというふうに見えたからである。 「北神君、三日の晩、きみは一歩も水車小屋を出なかったと、きのういったね」 「はっ、そう申しました」  そういってから浩一郎は、いそいであとをつけたした。 「もっとも、そのあいだ半時間ほど、カーテンの奥へはいってうたた寝をいたしましたけん、外からのぞいただけではいなかったように見えたかもしれませんが……」  金田一耕助はそれを聞くとにっこり笑い、うれしそうにもじゃもじゃ頭をかきまわそうとして、気がついてあわててやめると、ごくりと生つばをのみこんだ。  磯川警部はそのようすをちらりと見て、不安そうに眉をひそめたが、それでも浩一郎のほうにむかって、 「ところがここにちょっと妙なことがあるんだよ。あの晩、水車小屋のすぐちかくで、由紀子君の姿を見たというもんがあるんだが……それでもきみは由紀子に会わなかったというんかね」  そのとたん、浩一郎の顔面から、血の気がひいていくのがはっきり見えた。握りしめた両手がかすかにふるえたようである。 「そのひと、由紀ちゃんが小屋のなかへはいるのを見たというんですか」 「いや、そこまで見たというわけじゃないが……」 「それじゃ、由紀ちゃん、水車小屋へこなかったんです。それともぼくの姿が見えなかったんで……さっきもいうとおり、ぼく、カーテンの奥で寝てたんですが、それに気がつかんで行きすぎたんかもしれません。とにかく、ぼくは会わんかったんです」  だが、そういう浩一郎の額には、びっしょりと汗がうかんでいる。 「北神君」  金田一耕助が横合いから口を出した。 「あんたもしや、水車小屋をあけていたんじゃありませんか。由紀子君がやってきた時分……」  浩一郎の顔色がまたかわった。かれはなにかいおうとしてことばにつまったが、すぐきっぱりとした態度で、 「いいえ、ぜったいにそんなことはありません。ぼくずうっと水車小屋におりましたんです」 「しかし、そうするときみの立場は非常に不利になりますよ。いまのところ由紀子君は水車小屋で殺されて、それから、あの湖水に沈められたということになっているんですから……」 「しかし、ぼくはあの晩、ぜったいに由紀ちゃんに会わなかったんです。ぼくは第一、由紀ちゃんが、あの晩、水車小屋へくるなんて、夢にも思うとらなんだんです。ぼくたち、そんな変な会い方せんでも、いくらでも、正々堂々と会えるんです。結納もすんで、この村の祭りがすんだら婚礼するちゅうことは、村じゅうのもんがみな知ってるんですから」  浩一郎のことばにも一理はある。 「北神君」  と、こんどは磯川警部が、 「その水車小屋に直径八寸くらいの|石《いし》|臼《うす》があったのを、きみは知っているだろう。三日の晩、その石臼があそこにあったかどうかおぼえておらんかね」 「おぼえておりません」  浩一郎は言下に答えたものの、すぐそのあとで、ちょっとあわてて考えるふうをすると、 「あれはちかごろ灰落としがわりに使われておりますが、ぼく、たばこを吸わんもんですけん」 「北神君」  と、こんどは金田一耕助。 「さっき刑事さんが呼びに行ったとき、どこにいましたか」 「はっ、家へかえって俵をあみかけておりました。湖水のほうで捜索のお手つだいをしておりましたところ、死体が見つかったちゅうことを聞いたもんですけん」 「しかし、それはちと妙じゃありませんか。だって、由紀子君はきみのいいなずけでしょう。ちかく婚礼することになっていたひとでしょう。そのひとの死体が見つかったときけば、すぐここへとんでくるなり、由紀子君のうちへ行くなり、しなければならんはずだと思いますがね。それとも、死んでしまえばもう用はないというわけですか」 「いえ、いえ、……それは、御子柴のうちへ行こうと思うたんですが、ぼくとしてもショックが大きかったもんですから……」 「なるほど、なるほど。そういえばそれもそうですね。ところできみはあのことを知ってましたか。ほら、義眼のこと……」 「いいえ、ぼく、知らなんだんです」  と、なにげなく答えてから、突然、浩一郎ははじかれたように顔をあげると、真正面から耕助の顔をにらみすえた。まるで金田一耕助をにらみ殺さんばかりのいきおいだった。いったん|退《ひ》いていたひたいの汗が、またじりじりと吹き出してくる。  金田一耕助はにこにこ笑いながら、 「ああ、いや、いいです、いいです。警部さん、なにかほかにお尋ねになることがありますか。なかったらこれくらいで……」  警部はもう一度、由紀子が水車小屋へやってきたのではないかと念をおしたが、浩一郎のそれにたいする返事は、依然としてまえとおなじだった。  警部もついに|匙《さじ》を投げた。 「とにかく、きみは当分村をはなれないようにしてくれたまえ。変なまねをすると、かえってきみのためにならんぜ」 「はあ」  浩一郎はもう一度由紀子の死体に合掌すると、|蹌《そう》|踉《ろう》たる足どりで出ていった。      五 「妙ですなあ」  浩一郎のうしろ姿を見送って、かれとの一問一答を速記していた刑事が不思議そうに小首をかしげてつぶやいた。 「あいつどうして水車小屋をあけていたといわんのでしょう。そのほうが有利な弁明ができるちゅうのに……」 「それはねえ、刑事さん」  と、金田一耕助がにこにこしながら、 「あの男、ほんとうに小屋をあけていたからですよ」 「な、なんですって!」  一同ははじかれたように耕助を見る。耕助はもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、 「警部さん、いまのあなたの最初の質問にたいする、浩一郎の答えを思い出してください」 「最初の質問にたいする答え……?」 「そうです、そうです。三日の晩、一歩も水車小屋を出なかったかというあなたの質問にたいして、出なかったと答えたあとで、いそいで、半時間ほどカーテンの奥でうたた寝をしたと付け加えたでしょう。このことはきのう警部さんが質問されたときも、付け加えたんでしたね」 「ああ、そう、しかし、それがなにか……?」 「浩一郎はなぜそのことをいつも強調するんでしょう。つまり、それは一種の予防線ではありますまいか。カーテンの奥で寝ていれば外からのぞかれてもわからない。たとえそこにいなくてもわからないわけです。だからだれかがのちに、おれがのぞいたときにゃいなかったぜと、いうようなことを言い出したとしても、カーテンの奥で寝ていたんだという、予防線をつくっておいたんじゃありませんか。と、いうことは取りもなおさず、水車小屋をあけたということを、意味しているんじゃありますまいか」 「しかし、それならなぜそうはっきりと言わんのですか。いま、木村君も言うたとおり、そのほうが有利な弁明ができるちゅうのに……」 「警部さん」  耕助は机の上に身を乗りだして、 「あなたは浩一郎が外へ出て、ただなんとなくそこらをぶらぶらしとりました、と、いうようなことを言っただけで満足しますか。いや、それじゃかえって|卑怯《ひきょう》な逃げ口上だと、いっそう疑いを増すばかりでしょう。小屋をあけたのならあけたで、どこへ行ってなにをしていたかということをはっきり言わねばならない。いや、そのうえに証人でも立てなければ、あなたは満足なさらんでしょう。浩一郎にはそれができないか、できたとしてもいやなんですね」 「しかし、殺人の|嫌《けん》|疑《ぎ》をうけるくらいなら……」 「だから、そこがおもしろい問題ですね。浩一郎にとっちゃ、よほど深刻な問題があるんでしょう。これを由紀子を水車小屋へ呼びよせたもののがわから考えてみましょう。由紀子が水車小屋へ行ったってことは、もう疑いの余地がないようですが、さっき浩一郎もいったとおり、あの男がそんな変な呼びかたをするはずがありませんね。もし、浩一郎にはじめから殺意があったとしたら、なおさらのことでしょう。その晩浩一郎の水車小屋にいることは、みんな知っているんだから、由紀子がそこへくる途中でひとに会ったら、それきりですからね。とすると、由紀子を呼びよせたのはほかのものにちがいないが、そいつは浩一郎がいるところへ、由紀子を呼びつけるでしょうか。そんな馬鹿なことをするはずはないから、そいつはあらかじめ浩一郎が水車小屋をからにすることを知っていたか、あるいはからにするように工作したにちがいありませんね」 「金田一さん」  警部は急に声をおとして、 「浩一郎があの晩、水車小屋をあけてどこかへ出かけたとして、それが村長の細君の|失《しっ》|踪《そう》に、なにか関係があるとお思いですか」  金田一耕助は無言のまま、警部の眼を見かえしていたが、やがてかるく頭を横にふると、 「さあ、そこまではいまのぼくにはわからない。しかし、清水さん、あの晩、村長はどこにいたんですか」 「それはむろん隣村です」  清水君が言下に答えた。 「村長の家族は……?」 「奥さんとふたりきりです。雇人はおりますが、子どもはおりませんけん」 「そう、それじゃその晩の村長と、それから康雄というんですか、浩一郎のライバル、そのふたりの行動をもっと徹底的にしらべてみるんですね。隣村にいつごろまでいたか、途中で姿を消しはしなかったか、というようなことを。……ときに、由紀子の弟がひろったという手紙はありますか」  警部はすぐに封筒をとりだした。それは封筒も|便《びん》|箋《せん》も役場のもので、そこにわざと筆跡をかえたと思われるような、ひどく乱れた|金《かな》|釘《くぎ》流で、さっき湖水の上で、警部のいったような文句が書いてあった。 「清水さん、この便箋や封筒から、手紙の筆跡をさぐるというわけにはいきませんか」 「はっ、そのことですが、このふた品は役場の二階の大広間にもそなえつけてあるんですが、そこでは始終、村の連中の寄りあいがあるもんですけん、ちょっと……」 「なるほど」  金田一耕助はちょっと考えて、 「とにかく、由紀子と浩一郎について、関心をもっていそうな連中の筆跡をあつめて、研究してみるんですね。……おや」  金田一耕助はふと、封筒の一部分に眼をとめた。  それは由紀子の弟の啓吉が発見したとき、すでに開封されていたもので、いかにも女らしく、封筒の上部がきれいに|鋏《はさみ》で切ってある。ところがよく見ると封筒の封じめの、〆という字がわずかながらずれているのである。  と、いうことは、いったん封をしたのちに、だれかが蒸気にあてるかなんかして、一度封を開いたのち、またもとどおり封をしたということになる。  金田一耕助に注意されて、磯川警部も眼を見張った。 「け、警部さん、こ、このことは非常に重大なことですよ」  金田一耕助はいかにもうれしそうに、もじゃもじゃ頭をかきまわしながら、 「だってね。ぼくはいままで、ひょっとするとこの手紙は、事件が起こってから、すなわち殺人がすんでから、浩一郎に疑いの眼をむけさせるために、|捏《ねつ》|造《ぞう》されたものかもしれないという、疑惑をもっていたんです。しかし、それだとここまで小細工をするはずがないし、する必要もない。と、するとこの手紙こそ、三日の昼、由紀子を水車小屋へ呼びよせるために使われたものにちがいないということになる。由紀子はおそらく殺されたとき、この手紙をふところにいれていたのにちがいない。それを犯人が紙入れとともにとっておいて。……」 「しかし、途中でこの封を開いたのは……?」 「さあ、それを考えてみましょう。手紙を書いたやつが、そんな手数のかかることをするはずがない。なかの文句が気にいらなければ、また新しく書けばよいのですからね。由紀子はなおさらのことですね。と、すると、筆者から由紀子の手へわたるまでのあいだのだれかということになる。この手紙を書いたのが浩一郎でないとすると……それはもうほとんどまちがいのないことだと思いますが……偽手紙の筆者はまさか自分で、由紀子のところへとどけるわけにはいかなかったのでしょう。だからきっとだれかに、浩一郎からだといってわたしてくれと頼んだのにちがいない。そこで頼まれたやつが怪しんで、そっと封を開いてみる。……これはありうることですからね」 「そうすると、その封を開いたやつが犯人ということになりますか」 「いや、そこまでは断定できない。ただ、問題はあの晩、由紀子が水車小屋へやってくるだろうということを知っていた人間が、偽手紙の筆者のほかに、もうひとりいるということですね。とにかく、この手紙は非常に重要なものになってきました。とにかく大至急筆跡の比較研究をやることですね」  磯川警部が耳うちすると、すぐに刑事のひとりがとび出していった。おそらく関係者の筆跡を集めにいったのだろう。  そのあとで、磯川警部は耕助のほうにむきなおって、 「ときに、金田一さん、あの義眼のことだがな。さっきあんたがそのことを切りだしたときの、浩一郎の態度をくさいと思いませんか」  金田一耕助は思いだしたように、さっき浩一郎をつれてきた刑事のほうをふりかえって、 「刑事さん、刑事さん。さっきあなたは浩一郎を呼びにいったとき、由紀子の左の眼が義眼だったってこと、お話しになりましたか」 「とんでもない。そんなこと……」 「そうでしょうねえ」  金田一耕助はなやましげな眼をして、ぼんやり自分の|爪《つま》|先《さき》を見つめていたが、やがてほっとため息をつくと、 「警部さん、あのときの浩一郎の態度は、ぼくをとてもおどろかせましたよ。ぼくにとっちゃ非常に意外だったんです。浩一郎はぼくが義眼のことをいうと、言下に知りませんでしたと答えましたね。あのとき、ぼくは一言も由紀子の名前にはふれなかった。それにもかかわらず言下に、なんのためらいもなく、知らなかったと答えた。そして、そのあとではっと気がついたように、恐ろしい眼をしてぼくをにらみましたね。おそらくぼくが|罠《わな》におとしたとでも思ったんでしょう。このことは、ある時期までは由紀子の義眼のことを知らなかったが、いまは知っているということになりそうです。そして、そのある時期というのが今日であるはずはない。由紀子の義眼のことについては、まだだれにも発表していないんでしょう」 「ああ、それはもちろん」 「と、すると、浩一郎はどうして知ったのか。死体が発見されたときくと、家へかえって俵をあんでいたという浩一郎……まだ、御子柴の家のものにも会っていない浩一郎が、いったいどうしてそれを知ったか。……ぼくはさっきまで由紀子の義眼のことを知っているのは、御子柴家のものと、九十郎と犯人以外にないと思っていたんですがねえ」  磯川警部はしばらく無言のまま考えていたが、やがて思い出したように、 「それはそうと、由紀子の義眼はどうなったのかな。あれはやっぱり、犯人がくりぬいていったちゅうわけなのかな」 「それはおそらくそうでしょうねえ。義眼がひとりでに抜けおちるなんてはずがない。犯人は由紀子をしめ殺したとき、はじめて義眼に気がついた。そこで好奇心にかられたか、それともいままでだまされていた腹立ちまぎれにか、くりぬいたんでしょうが、さて、その義眼をどうしたか……」  金田一耕助が考えこんでいるところへ、Kから自動車が死体をとりにきた。  磯川警部と金田一耕助は、その自動車でひとまず岡山までひきあげることになった。      六  その晩、岡山市の郊外にある磯川警部のうちへ泊めてもらった金田一耕助が、ふたたび山峡のあの湖畔の村へ顔を出したのは、翌日の午後二時ごろのことだった。  警部はむろん朝はやくから先行していた。金田一耕助も警部と同行するつもりだったのだが、旅のつかれかすっかり朝寝坊をして、警部においてけぼりをくらったうえに、警部夫人に大いに迷惑をかけたのである。  金田一耕助は岡山からKまで汽車にのった。そして、そこから湖畔の村までの、一里ばかりのゆるやかな自動車道路を、ふらりふらりと風来坊のように、秋の|陽《ひ》ざしを楽しみながらのぼってくると、坂の上からけたたましく、自転車のベルを嗚らしながらやってきた顔見知りの刑事が、耕助の姿を見るとひらりと自転車からとびおりた。 「金田一さん、金田一さん!」  と、刑事は興奮におもてを染めながら、 「見つかりましたよ、見つかりましたよ。志賀村長の奥さんが……」 「奥さん、どこにいたんですかあ?」 「殺されてたんですよ」 「こ、こ、殺されてえ……?」  金田一耕助は脳天から、真っ赤にやけただれた|鉄《てつ》|串《ぐし》でも、ぶちこまれたような大きなショックを感じた。 「そうです、そうです。|死《し》|骸《がい》になって赤土を掘る穴の奥へ押しこまれていたんです。それをさっき犬がくわえ出したんで大騒ぎです」 「死骸になって赤土を掘る穴へ……」  金田一耕助は大きく眼を見張ったまま、棒をのんだように突っ立っている。あたたかい秋の陽ざしのなかにいるにもかかわらず、ぞっと全身に冷気をおぼえる。 「そうです、そうです。いま見つかったばかりだからはやく行ってごらんなさい」 「刑事さん、あなたは……?」 「わたしはK署の捜査本部へ報告かたがた、医者を呼んでくるんです」  それだけいうと、刑事は風のように自転車をとばしていった。金田一耕助も犬が水をはふりおとすように体をふるわせると、眼がさめたように足をはやめた。  村へ入るとすぐただならぬ変事のにおいが、いばらのように神経にささってくる。あちらにもこちらにも三々五々ひとが集まってひそひそ話をしているが、由紀子の死体が発見されたときとちがって、だれも声高に話をするものもなく、妙にひっそりと押しだまっているのが、いっそうショックの深刻さを思わせる。  駐在所へくると清水君が、真っ赤に興奮した顔で待っていた。 「清水さん、村長の奥さんの死体が見つかったって?」 「はあ、金田一さん。あなたがお見えになりましたら、すぐに御案内するようにと、警部さんの命令です」 「ああ、そう、お願いします」  村長の奥さん、秋子の死体が発見されたのは、湖水の西にある山のなかで、そこはKへむかう間道になっているが、村のひとが壁に使う赤土を採りにくる以外には、めったにひとのとおらぬところになっている。  死体発見の動機になったのは、村のわかいものが壁を修理するために、犬をつれて赤土を掘りにいったところが、その犬がくわえだしたのである。  清水さんの案内で金田一耕助がたどりついた現場には、警察のひとびとが五、六人、地面を見おろしたかっこうで立っている。  それを遠巻きにして、口を|利《き》くことができなくなったように押しだまっている村人のなかには、村長、志賀恭平の姿も見られた。 「金田一さん、えらいことができましたわい。こっちのほうもやられているとは、まさかわたしも考えなかった」  磯川警部も興奮にギラギラと眼を血走らせている。 「それで、死因は……?」 「絞殺ですな。手ぬぐいかなんかでやられたらしい」 「死後どのくらい……?」 「正確なことはわからんが、やっぱり由紀子とおなじ晩じゃあないかな」  金田一耕助は足もとによこたわっている死体に眼をおとした。  犬がたわむれたとみえて、赤土によごれた着物のところどころに|鉤《かぎ》|裂《ざ》きができているが、仕立ておろしらしい|結《ゆう》|城《き》につづれの帯をしめ、足袋も履き物もあたらしく、ビニールのハンドバッグがそばにころがっている。  もう腐敗の度がかなりすすんでいるので、|容《よう》|貌《ぼう》のところはなんともいえぬが、ぽっちゃりとした肉づきの、いわゆる肉体美人というやつらしい。 「これゃどこかへ出かける途中だったんですね」 「そうらしい。この道を行けばKへ出られるちゅう話だが、しかし、なんだってこんな危なっかしい道をえらんだもんかな。いかに月がよかったとはいえ、このさきにゃ、かなりの難所があるちゅう話じゃからな」 「ハンドバッグの内容は……?」 「一万六千円ばかりはいった紙入れがはいっている。それから見ても凶行の原因は|物《もの》|盗《と》りじゃないようですな」 「このへんの農村で、一万六千円といえば相当のもんでしょう」 「まあ、そうだな。だから家のなかにあったやつを、かっさらえてとび出してきたんじゃないかと思うんですがな」 「それにもかかわらず村長は、いままでそのことについて、なんともいわなかったんですね」 「ふうむ。なにかかくしていることがあるんだな」  磯川警部はちょっと村長のほうをふりかえったが、視線が合うと、すぐ村長のほうから眼をそらせた。 「いったい、どの穴から出てきたんです」  金田一耕助は死体から眼をあげると、あらためてあたりを見まわした。  そこは片側が谷になっており、片側には|崖《がけ》がそびえているが、その崖のふもとには一面に赤土の層が露出しており、そこにまるでインカ族の|洞《どう》|窟《くつ》みたいに、点々として穴がうがたれている。みんな壁土をとるために、ながい年月のあいだに掘られたものである。 「この穴です。はいってみますか」 「見せてください」  磯川警部は刑事の手から懐中電燈をうけとると、さきに立って穴のなかへはいっていった。  穴はそれほど深いものではなく、せいぜい二|間《けん》あるなしだろう。その奥にまだ葉のついた木の枝だの、枯れ草などが散乱しているが、みんなじっとりとぬれている。 「この枝や枯れ草で死体をおおうてあったんですな。さっきみんなに探させたんだが、べつに犯人の遺留品らしいもんも見あたらんようです」  金田一耕助は足もとに散乱している木の枝や枯れ草を見つめていたが、急に外にむかって清水巡査を呼んだ。  清水君はすぐはいってきた。 「清水さん、このへんじゃ四日の晩に大夕立があったそうですが、そのまえに雨が降ったのはいつごろですか」 「あの大夕立が三週間めのおしめりだといってましたけん、九月十一日ごろのことでしょう。そのあいだ、一滴の雨も降らんかったんです」 「ああ、そう、ありがとう」  清水巡査が妙な顔をして出ていったあと、金田一耕助は警部の手から懐中電燈をかりて、そこいらを探していたが、なにを見つけたのか、急に声をあげて、 「け、け、け、警部さん、ちょ、ちょ、ちょっとここを見てください」  と、これが興奮したときのくせで、たいへんなどもりようである。 「な、な、な、なんですか。き、き、金田一さん」  磯川警部がついつりこまれてどもると、 「あっはっは、いやだなあ、警部さん、なにもぼくのまねをしてどもることないです。ほら、この赤土の上に小さなくぼみがついているでしょう。これ、なんの跡か御存じですか」  なるほど、見れば掘りおこされた赤土の穴の底に、直径七、八分くらいの、まるい、なめらかなくぼみが、くっきりとあざやかについている。それは正常の球状よりすこしいびつになっているところに特徴がある。そして、そのへんてこなくぼみのまわりには、掘りおこされたように赤土が散らばっているのである。  磯川警部は眉をひそめて、 「金田一さん、それなんの跡ですか」 「ご存じありませんか。これは義眼の跡ですよ。ほら、このいびつになっているところが特徴なんです。こういう跡がここに残っているところを見ると、村長夫人を殺したやつが、義眼を持っていたことはたしかですね。と、いうことはそいつが由紀子殺しの犯人でもあるということになり、これではじめてふたつの事件が、はっきり結びついてきたじゃありませんか。あっはっは」  いかにもうれしそうに金田一耕助が、五本の指でもじゃもじゃ頭を、めったやたらとかきまわすのを見て、磯川警部はあきれたように眼を見張っていた。      七 「それじゃ、わしが家内を殺したとでもいうのかな」  緊張のためにしいんと張りつめた空気のなかに、志賀村長の怒りにふるえる声が|炸《さく》|裂《れつ》した。  あの薄暗い駐在所の奥のひと間なのである。磯川警部をはじめとして、おおぜいの刑事や警官にとりかこまれて、志賀村長もいちおう尊大にかまえてはいるものの、さすがに動揺の色はおおうべくもなく、|頬《ほ》っぺたの筋肉がしきりにぴくぴく|痙《けい》|攣《れん》している。  駐在所の内外には、痛烈なまでに緊張の空気がみなぎっていた。 「いや、いや、いや!」  と、磯川警部は赤ん坊のようにまるまっちい手をあげて、相手をおさえつけるようなしぐさをしながら、 「そんなにはやく結論を出されちゃ困る。いまのところわれわれはいっさい白紙の状態で、どこから手をつけていったらよいかわからぬくらい困惑しとりますんじゃ。それで、被害者のいちばんの近親者として、あなたのお話をうかがいたいと……こういうわけで、いまちょっと木村君のことばがすぎたようだが、それはまあ気になさらんで。……あなたも村長として、この忌まわしい事件が一日も早く解決するように、ご協力願いたいんだが……」 「いや、警部さん、あんたみたいにそうおだやかにいわれれば話もわかるが、このひとみたいにのっけから、犯人あつかいにされちゃあ……なんぼなんでも腹にすえかねるというもんじゃ。で、ききたいというのは……?」 「まず第一に、あなたが奥さんの|失《しっ》|踪《そう》に、はじめて気がつかれたのは……?」 「隣村の祭りの晩のことじゃったな。十二時ごろうちへかえってみて、てっきり家出をしたなと思うた」 「それはまたどういう理由で……?」 「どういう理由て、|箪《たん》|笥《す》のなかがかきまわしてあり、現金を洗いざらい持っていかれたら、どないな|阿《あ》|房《ほう》でも家出をしたなと気がつくじゃろうが」 「しかし、わたしがはじめて奥さんことを聞いたときには、あなた大阪へ行ってるといわれたようだったがな」  村長は|横《おう》|柄《へい》な眼でギロリと磯川警部の顔をにらむと、 「いや、そのときはそう思うていたんじゃ。あれには大阪にひとり姉がいるんで、そこヘ行ってるとばかり思うていた。ところが……」 「ところが……?」 「四日の朝、わしはその姉のところへ問い合わせ状を出したんじゃが、その返事が今日、つまり八日の朝とどいたところをみると、あっちのほうへは姿を見せんという。それでわしもだんだん不安になってきた。ほかにあれのたよって行きそうなところも思いあたらんのでな。しかし、まさか殺されていようなどとは……」  村長もちょっと息をのんだ。 「ところで、三日の晩のあなたの行動を、もうすこし詳しくおうかがいしたいんですがな。なにもあなたを疑うてのうえのことではないが、こういうことは万事きちんとしておきませんとな。なんでも三日の晩、今夜はゆっくりしていくと、腰をすえて飲んでいたのが、十一時半ごろになって、突然、むこうの村長がひきとめるのもきかないで、急にかえってこられたそうですな。そのとき、血相がかわっていたというが……」  村長はまたギロリと警部の顔をにらむと、 「それゃ大いに血相もかわろうわい。これじゃもの」  と、憤然たる色をみせて、警部のまえへたたきつけたのは、しわくちゃになった一枚の紙。警部がしわをのばしているのを、金田一耕助がそばからのぞいてみると、|漉《す》きなおしの粗悪な紙に、金釘流でこんなことが書いてある。 [#ここから2字下げ]  町内で知らぬは亭主ばかりなりというのはおまえのことじゃ。おのがかかあが間男してるのも知らないで、村長づらもおこがましい。今夜もおまえの留守中に、間男ひっぱりこんで楽しんでいるのを知らないか。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから4字下げ] 阿房村長どの [#ここで字下げ終わり]  磯川警部ははっと金田一耕助と顔見合わせた。 「これをどこで……?」 「むこうで酒をごちそうになりながら、青年団の余興を見ているとき、なにげなくポケットに手を入れると、それが出てきたんじゃ。わしはつまらん中傷など気にする男ではない。しかし、今夜げんに男をひっぱりこんでるちゅうからには、相当の根拠があると思わねばならん。わしも村長の体面上、妻がそのような|不《ふ》|埒《らち》をはたらいているとあっては捨ててはおけん。なにはともあれ、実否をただそうとかえったところが……」 「奥さんがいらっしゃらなかったというわけですね」  と、金田一耕助が横合いから口を出した。村長はうさん臭そうな眼つきをして、耕助のもじゃもじゃ頭をにらみつけると、 「そう、おらなんだんじゃ。しかもふだん着がぬぎすててあり、金が洗いざらいのうなっている。そのとき、わしはてっきり情夫と駆け落ちしたものと思うたが、つぎの日になってみると、男で村からいなくなったもんはひとりもおらん。そこでさっきもいうたとおり、大阪の姉のところへ手紙を書いたんじゃが……」 「おたく、奉公人は……?」 「女中がひとりいることはいるが、三日の晩はやっぱり隣村の祭りへ行っとったんじゃな。家内は都会のもんじゃけん、村祭りなど興味がないちゅうて、自分のかわりに女中を出してやりよったんじゃが、それもいまから考えると、情夫に会うためじゃったかもしれん。それはともかく、そうしているうちに、由紀子のことで、騒ぎがだんだん大きゅうなってきたので、家内のことは二のつぎになってしもうたんじゃ」 「なんぼ二のつぎになったちゅうても、奥さんのことでもう少し、手の打ちようがありそうなもんじゃないかな」  刑事のひとりが、ひとりごとのようにつぶやくのへ、村長は憤然たる眼をむけて、 「それじゃあ聞くがな。いったいどういう手が打てるんじゃな。ひとりひとり男をつかまえて、おまえおれのかかあと間男しとったんとちがうかと、いちいち聞かれもせんじゃろ。村長の体面もある。かかあに逃げられたらしいなどとはいえんじゃないか。まさか、殺されてるとは夢にも知らなんだもんじゃけんな」 「ところで村長さん、あなたは奥さんの情夫というのに心当たりはありませんか」  村長はまたギロリと耕助の顔をにらんで、 「ないな。いや、たとえあったとしたところで、証拠もないのにそういうこと、軽々に口にすべきことじゃないだろう。あんたがどういうひとかわしゃ知らんが……」 「あっはっは、いや、これは恐れ入りました」  金田一耕助はペコリと頭をさげると、 「それじゃ、警部さん、あなたからお尋ねになってください。奥さんにそういうみそかごとがあることを、村長さん、まえから気がついておられたかどうかということ。……」 「いや、まえから気がついていたら、こういう手紙を発見したとき、あんなに|狼《ろう》|狽《ばい》したりしやあせん」 「いや、どうも直接お答えくださいましてありがとうございます。すると知らぬは亭主ばかりなりで、それまで全然気がついてはいられなかったが、こういう手紙をごらんになると、あるいは……と、いう気になられたんですね」 「まあ、そういうて言えんことはない。秋子というのがな、ひと筋縄でいく女じゃない。表面はしおらしそうにしているが、なかなかもってすごい女じゃからな」 「すごいとは……? どういう意味で……?」 「そんなことが言えるかい。わっはっは!」  村長は腹をかかえて豪傑笑いをしてみせたが、その笑い声にはなにかしら、むなしいひびきがこもっていた。 「いや、どうも失礼しました」  金田一耕助はまたペコリと、もじゃもじゃ頭をひとつさげて、 「それでは最後にもうひとつだけ。……この手紙の筆者ですがね、あなたにだれか心当たりでも……」 「そんなことおれが知るもんか。それを調べるのが君たちの役目じゃないか。なんのために国民は高い税金をはろうとるんじゃ」  それだけいうと志賀恭平はむっくりと立ちあがり、警部のことばも待たずにすたすたと部屋から出ていった。およそかわいげのない男である。 「畜生ッ、いやなやつ」  木村刑事がいまいましそうに舌打ちして、 「ねえ、警部さん、あいつがやったんじゃないんですかねえ。細君が|姦《かん》|通《つう》していると知ってかあっとして……」 「しかし、木村君、それじゃ由紀子のほうはどうなるのかな。村長はなぜ由紀子を殺さねばならんのじゃい」 「だからさ、警部さん、由紀子の事件とこの事件は別なんですぜ。それをひとつにして考えるからむつかしくなるんでさあ」 「どちらにしても、木村さん、村長夫人が姦通していたとすれば相手があるはずだから、それをよく調べてごらんになるんですね」  そこへまたKから死骸を受け取りに、自動車がやってきたので、金田一耕助と磯川警部はそれに同乗してひきあげることになった。  こうしてふたりは二日つづけて、死体と合乗りということになった。      八  ところが、そのつぎの日になって、事件は意外な方向へ展開していき、その結果、金田一耕助が明快な推理によって、さしもにもつれにもつれたこの事件を、一挙に解決するはこびになったのである。  その日も朝寝坊をして、磯川警部においてけぼりをくらった金田一耕助が、正午過ぎ、|飄然《ひょうぜん》として湖畔の村へはいってくると、またなにか起こったらしいことが、こわばった村のひとたちの顔色から察することができた。  そこで耕助が足をはやめて駐在所へやってくると、表にはまたいっぱいのひとだかりである。それをわってなかへはいると、清水巡査がむつかしい顔をしている。 「清水さん、なにかまた……?」  金田一耕助がたずねると、 「はっ、由紀子を呼びだした偽手紙の筆者がわかりましたんで……」 「だれ、それは……?」 「西神家の康雄なんで……」 「ああ、そう」  金田一耕助は別におどろきもせず、かるくうなずいて奥へとおると、西神家の康雄があの偽手紙をつきつけられて、青白くなってふるえているところだった。  磯川警部は金田一耕助の顔を見ると、 「ああ、金田一さん、よいところへおいでんさった。いまこの興味ある手紙の筆者康雄君からおもしろい話を聞かせてもらおうと思うとるところじゃ。あんたもいっしょにお聞きんさい」 「ああ、それは、それは……」  金田一耕助が席につくのを待って、 「木村君、それではきみからきいてもらおうか。われわれはここで聞かせてもらうで」 「はっ、承知しました」  木村刑事は康雄のほうにむきなおると、歯切れのいい調子で、 「西神君、この手紙の文字がきみの筆跡であることは、もう疑いの余地はないんだ。きみはかなりうまくかえているが、この程度じゃほんとうの筆跡をごま化すわけにゃあいかん。ところで、三日の晩のことだが……」  と、木村刑事は開いた手帳に眼をおとして、 「きみは隣村の祭りへ行ってるが、八時半から十二時ごろまでのあいだ、きみの姿を見たものはひとりもないんだ。きみは四時ごろ隣村の親戚のうちへ行っている。そこでごちそうになったのち、お宮へ行って太鼓をたたいたり、接待所へ行って振舞酒を飲んだりしているが、八時半ごろになって、姿を消した。むこうの青年団の幹事が、きみにのど自慢に出てもらおうと思うて、ずいぶん探したがどこにも見つからなかったと言うている。ところが、十二時ごろになってどこからともなく、青い顔してふらりとかえってくると、それからめちゃめちゃに酒を飲み出した。……と、これがわれわれの調べた三日の夜の動静だが、西神君、ひとつきみの弁明をきかせてもらおうじゃないか。八時半ごろから十二時ごろまで、きみはどこにいたんだい」  あの薄暗い駐在所の奥のひと間である、ぴしぴしと木村刑事からきめつけられて、康雄はいまにも泣きだしそうな顔色だった。  西神家の康雄は北神家の浩一郎にくらべるとはるかに劣る。柄も小さく、色もくろく、それにひねこびれて、どこか|狡《こう》|猾《かつ》そうなところがある。  なるほど、これでは由紀子が浩一郎をえらんだのもむりはない。 「ぼく……ぼく……」  と、康雄は貧乏ゆすりをしながら|洟《はな》をすすって、 「こんなことするつもりなかったんです。こんなことするの、いややいうたんです。それをあの奥さんに|焚《た》きつけられて……みんなあの奥さんが悪いんや。あのひと、あんな怖いひとやとは、ぼく知らなんだんです」 「奥さん……? 奥さんてだれのこと?」 「村長さんの奥さんですがな。あの奥さんがぼくを|嗾《け》しかけよったんです」  康雄はしゃくりあげるような声だったが、それを聞くと一座にさっと緊張の気がみなぎった。ここにはじめてこの事件における、秋子の役割が露出してきたのである。  金田一耕助は磯川警部をふりかえってにっこり笑った。 「村長の奥さんが、きみにこんな偽手紙を書けいうたんかね」 「そうです、そうです。北の浩一郎に女とられて、指くわえてだまっとるやつがあるもんか。それじゃ、御先祖にたいしても申しわけがあるまいがな。女ちゅうやつは一度征服してしもたらもうそれきりや。なんでもええけん、由紀子をものにしてしまえ……と、そう奥さんがいうたんです」  木村刑事はあきれたように、警部の顔をふりかえったが、すぐまた康雄のほうへむきなおって、 「それできみはこんな偽手紙で、由紀子を水車小屋へ呼びよせて、むりやりに関係をつけようとしたんやな」 「すみません」  康雄は洟をすすって頭をさげた。  それにたいして木村刑事がなにかいおうとするのを、金田一耕助が手でおさえて、 「ああ、ちょっと、康雄君」 「はあ……」 「しかし、その水車小屋には北神浩一郎がいるはずじゃありませんか。それをどうするつもりだったんです」 「浩一郎のやつは……浩一郎のやつは……奥さんがひきうけてくれることになったんです。あいつは……あいつは……」  と、康雄は急に意地悪そうな眼をギラギラ光らせて、 「村長の奥さんと関係があったんです。あいつ……あいつ、村長の奥さんと間男しとったんです!」  金田一耕助はべつにおどろかなかったが、その瞬間、一同の体がぎくりと|痙《けい》|攣《れん》した。一瞬、しいんとした沈黙がおもっくるしく部屋のなかにおちこんできた。  これで秋子の役割が、いよいよ|明瞭《めいりょう》になってきたのである。  磯川警部は机の上に体をのりだし、ぎこちなくから|咳《せき》をすると、 「康雄君、それ、ほんとうだろうね。でたらめじゃあるまいね」 「ほんとうです。ぼく、うそなんかいわんです」 「きみ、まえからそのことを知っとったのか」 「いいえ、ちっとも知らなかったんです。あいつら、よっぽどうまくやっとったにちがいありません。ぼくも奥さんから打ち明け話をきいたときには、あんまりびっくりして、ひっくりかえりそうになったんです。浩一郎のやつ、模範青年やなんて、猫かぶってやがって……」 「それじゃ、村長の細君が自分でその話を打ち明けたのか」 「そうです、そうです。でも、それにはあの奥さん、もくろみがあったんです。つまり、ぼくに由紀子を|疵《きず》もんにさそちゅう。……だからそのあとで、こんなだいじなことを打ち明けたんやから、おまえもわたしのいうとおりにせんと、ただではおかんと脅かされたときには、ぼく、もう怖うなってしもて……奥さん、浩一郎のやつが由紀子と結婚するちゅうんで、やきもちやいて、すっかりやけになっとったんです。ぼく、あのひとあんな怖いひとやとは思わなんだんです」 「それでも、きみは奥さんの命令どおりにうごいたんだね」 「そら、ぼくだってくやしかったけん。……たとえ由紀子を自分のもんにできいでも、疵もんにして、浩一郎のやつの鼻をあかせてやりたかったんです」  金田一耕助は興味ぶかい眼で、康雄の顔を見まもっている。いかに先祖伝来の反目とはいえ、これは常人の神経ではない。 「きみはこの手紙をだれにたのんで、由紀子にわたしたんだね」 「ぼく、知らんのです。この手紙は奥さんのまえで、奥さんのいうたとおり書いたんです。奥さんはそれを読みなおして封をすると、これはわたしが預かっとく。だれかにたのんできっと由紀子にとどけさせるけん、おまえは由紀子よりひと足さきに、水車小屋へ行て待ってろいうんです。だから、ぼく、奥さんがだれにたのんで由紀子にこの手紙わたさせたか、ちっとも知らんのです」 「奥さんは浩一郎をどうしたのかね」 「きっと自分の家へ呼びよせたんでしょう。あの晩は村長も女中も留守やし、どうせおそくなることはわかってるもんですけん、きっと思う存分うまいことしよったにちがいないんです」  康雄の顔色にまたくやしそうな色がうかぶ。それはどこか|嫉《しっ》|妬《と》ぶかい御殿女中を思わせるような表情だった。 「なるほど、わかった。それできみはあの晩、水車小屋で由紀子と|逢《お》うたが、由紀子がすなおにいうことを聞かんもんだから……」  木村刑事がいいかけると、 「ちがいます、ちがいます。それがちごとるんです」  と、康雄が躍起となって金切り声をあげた。 「ちごとるとはどうちごちょるんだ」 「それが、ちょっとおかしいんです。いや、とてもおかしいんです」  と康雄は|臆病《おくびょう》そうな眼で、一同の顔を見まわしながら、 「こんなこというてもほんまにしてもらえるかどうかわからんですが、これ、正真正銘の話なんです。いまから考えても|狐《きつね》につままれたような気持ちで……隣村を出るときは、ぼくもそのつもりやったんです。それで勇気をつけようと、お宮の振舞酒をコップに二杯ほどあおったんです。へえ、それまでにも相当飲んどったんですが。……それから山越えでこっちへ来ようとしたんですが、途中まで来ると、なんだか体がだるうて、だるうて、それに眠うてしかたがのうなったんです。それがぼくには不思議なんで。……ぼく、酒はそんなに弱いほうやないんです。相手があったら一升ぐらいは平気で飲めるんです。それやのに、その晩にかぎって、眠うて、だるうてたまらんようになったんです。それで道ばたの木の根に腰をおろして、ちょっと息を入れよう思うたんですが、いつの間にや眠りこけてしもたんです。いえ、ほんまの話です。ほんまに眠ってしもたんです。こんなこというても、だれも信用してくれんちゅうことはわかっとりますが、これ、ほんまの話なんです。ところが、もっと不思議なことがあるんです」 「もっと不思議なことちゅうのは……?」 「ぼくが腰をおろしたんは、道ばたの木の根やったんに、こんど眼がさめてみたら、林のずっと奥のほうの、草のなかに寝とったんです。だれかぼくの眠っとるあいだに、林の奥へつれていったらしいんですが、それがだれだかぼくにもわからんのです」  磯川警部をはじめとして、一同の顔色には疑いの色がふかかったが、金田一耕助だけは、いかにも興味ふかげに康雄の話をきいている。 「それで眼がさめてからどうしたのかね」 「ぼく、しばらくのあいだ、なにがなにやらわけがわからなんだです。だいいち、どこに寝とるのか、それすら見当がつかんかったんです。それでも、そのうちに由紀子のことを思い出したもんですけん、はっとして腕時計を見ると、なんと、もう十一時半になっとるやありませんか。ぼく、びっくりしてとび起きると、林のなかをずいぶん迷うたあげく、ようやくのことで道へ出て、それでも水車小屋へいってみたんです。そして、そっと窓からなかをのぞいてみると、浩一郎のやつがすましこんで米を搗いとるやありませんか。ぼく、もう阿房らしいやら、腹が立つやら、狐につままれたような気持ちで、また、隣村へひきかえしたんです。なんだか頭が痛くてたまらんかったです」 「きみが水車小屋をのぞいたとき、由紀子の姿は見えなかったかね」 「いいえ、浩一郎のやつがひとりだけでした」 「そのとき、カーテンは開いてましたか。ほら、横になれるようになっているあの小部屋の、|南《ナン》|京《キン》|米《まい》袋のカーテン……」  と、金田一耕助が口を出した。 「へえ、開いとりました。ぼく、由紀子がかくれておりはせんかと、注意してみたんです」 「いや、ありがとう」  金田一耕助がひきさがると、こんどは磯川警部が、 「隣村へひきかえす途中、だれかに会わなかったかね」 「へえ、九ン十のやつがむこうから来るのんに会いましたが、ぼく、顔をあわせるとめんどうやけん、林のなかにかくれてやりすごしたんです。九ン十のやつ、酔うてふらふらしとりましたけん、気がつかなんだようです。あいつ振舞酒めあてに行きよったんです。あんなときでのうては、酔うほど酒も飲めんもんですから」  康雄はそこまでいうと、急におびえたような眼の色をして、警部の顔色をさぐりながら、 「警部さん、こんなこというても信用できんかもしれませんが、そんならぼくを林のなかへかついで行ったやつを探してください。そいつなら、ぼくがどんなに眠りこけていたかちゅうことを、よう知っとるはずですけん」  警部はそれにたいして、なんとも発言しなかったが、そばから金田一耕助がすこし体を乗りだすようにして、 「康雄君、きみが振舞酒を飲んでいるとき、あたりにひとがいましたか」 「ええ、もう、そこらいっぱい。|芋《いも》を洗うようにごちゃごちゃと……そんなところで酒飲むのんは、貧乏人にきまっとるもんですけん、みんなもうがつがつして餓鬼みたいに……ぼくなんかちゃんと親戚があるもんですけん、そんなとこで飲むとわらわれるんですが、そんときは由紀子のことがあるもんですけん、景気づけにひっかけたんです。そうやなかったら、あんなまずい酒、飲めるもんやないんです。つうんと鼻へきて。……」 「その酒、自分で|酌《く》んで飲むんですか」 「いいえ、だれかが酌んでくれました」  金田一耕助は警部のほうを見て、 「警部さん、もうこれくらいでいいでしょう。まだなにかお尋ねになることが……」  警部はうなずいて、康雄に当分禁足を要請すると、康雄はおびえたように跳びあがった。 「警部さん、ぼくはほんとうになにも知らんのです。あれはみんな浩一郎のやったことにちがいない。浩一郎のやつ、|痴《ち》|話《わ》が|昂《こう》じて奥さんを殺しよったんです。いや、はじめから殺すつもりやったかもしれん。ところが、水車小屋へかえってくると、由紀子が行っていたので、これまた殺しよったんです。きっと由紀子になにか感づかれよったにちがいない。警部さん、警部さん、あれみんな浩一郎のやつのしわざです。ぼく、なんにも知らんのです。ぼくは潔白です。信じてください。信じて……」  のどもかれんばかりにわめき散らし、おんおん泣きながら康雄が刑事にひったてられて出ていくのを見送って、磯川警部は清水巡査を呼ぶと、浩一郎を迎えにやり、さて、あらためて金田一耕助のほうへむきなおった。 「金田一さん、いまの康雄の話、どうお思いですか」 「そうですね。これは一応、浩一郎の話もきいてみなければ……」 「それはそうだがいまの康雄の話、まずい弁明だとは思いませんか」 「そうですとも、そうですとも。警部さん」  と、木村刑事は|膝《ひざ》を乗りだして、 「由紀子を殺したのはてっきりあいつですぜ。もちろん、はじめからそのつもりじゃなかったが、その場のはずみで殺してしもうた。そこで|泡《あわ》をくって死体を湖水へ投げこんだんでしょう。浩一郎の乗ってきた舟が、つないであったわけですけんな。それから隣村へ逃げてかえろうとしたが、そこで村長の細君のことを思い出した。水車小屋で康雄が由紀子を手ごめにしようという段取りは、村長の細君が知っている。由紀子の死骸が見つかれば、すぐ自分に疑いがかかるわけですけん、そこでこれも殺してしまいよったんです。ねえ、そう考えれば万事つじつまが合うじゃありませんか」 「なるほど、明快な推論ですね」  金田一耕助がにこにこしているところへ清水君が浩一郎をつれてきた。  浩一郎はきのうとおなじく顔色青ざめ、苦悩の色がふかかったが、しかし、きのうからみると、かえって落ち着いているようだ。 「北神君、まあ、座りたまえ」 「はっ」  浩一郎は膝っ小僧をそろえてかしこまる。 「今日はね、ひとつ、ほんとうのところを聞かせてもらおうじゃないか」 「恐れいりました。お手数をかけてすみませんでした。ぼくもそのつもりで参上しました」  うなだれながらも、自若としたその横顔を、金田一耕助はにこにこ見ながら、 「そうそう、それがいいですよ。なにもかも正直にいってしまうんですな。由紀子さんの死体を湖水へ沈めたこともね」      九  金田一耕助のその一言に、警部も刑事も浩一郎も、はじかれたように顔を見なおした。 「いや、失敬、失敬、これがぼくの悪い癖ですね。とかく知ったかぶりをするやつです。さあ、警部さん、おつづけください」  磯川警部はまじまじと、さぐるように金田一耕助の顔を見ていたが、やがてその視線を浩一郎のほうにもどした。浩一郎はうなだれて、肩がすこし小刻みにふるえていた。 「ああ、いや、北神君、さっそくだがね。いま西神の康雄君から妙なことを耳にしたんでな。きみが村長の細君と|姦《かん》|通《つう》していたというんだがな。どうだろう、それについてなにか……」  浩一郎はこわばった微笑をうかべて、 「はあ、そのことなら康雄君がいま、村じゅうに触れてまわっております」 「きみはそれについてなにもいうことはないのかな」 「ございません。事実、そのとおりだったんですけん」  浩一郎は沈痛な眼をあげて、警部や金田一耕助の顔を見ると、 「警部さん。しかし、この問題はこれくらいにしといてください。村長の奥さんとへんな仲になっていた。……と、ただ、それだけで満足してください。ぼくとしてもいまさら、亡くなったひとのことをとやかくいいたくないですけん。結局、ぼくの意志が弱かったんです」  浩一郎は|膝《ひざ》の上に両手をついて、ふかく頭をたれた。  磯川警部は金田一耕助と顔見合わせて、つよくうなずくと、 「よし、わかった。それじゃあの晩のことを聞かせてもらおう。あの晩、きみは村長の細君に呼び出されたんだね」 「はっ、だいたい隣村からの招待をことわって、水車当番を買って出たちゅうのも、奥さんの命令だったんです。奥さんがおっしゃるのに、もう一度|逢《お》うてくれれば、これきりにしてあげる。もし、それもいやだいうんなら、どんなことをするかわからんけん、そう思うてくれ……と、そういわれるもんですけん。……ぼく奥さんがこわかったんです」  金田一耕助は|憐《れん》|愍《びん》の情をこめたまなざしで、浩一郎の横顔を見まもっている。この模範青年は年増女のしぶとい情欲にはがいじめにされて、身うごきもとれなくなっていたのだろう。 「それで、きみはあの晩、水車小屋から出かけたんだね。何時ごろ?」 「八時四十分でした。水車小屋から村長さんのところへ行くには、二十分はみておかねばならんのです。人目を避けてまわり道せんなりませんけん」 「それじゃ、村長のところで奥さんと逢うたんだね」 「はっ」  色のしろい浩一郎の顔がもえるようにあかくなる。 「それで、奥さんと別れたのは?」 「九時四十分でした。ぼく、もうすこしはやく切りあげたかったんですが、これが最後のお別れだからちゅうて、奥さんがどうしてもはなしてくれんもんですけん」  浩一郎の額から滝のように汗がながれる。警部の注意でその汗をふくと、いくらか浩一郎も落ち着いたようだ。 「それで、水車小屋へかえったのは?」 「九時五十五分でした。ぼく、奥さんがはなしてくれると、宙をとぶようにしてかえってきたんです」 「ああ、ちょっと……」  と、金田一耕助がそばから、 「立ちいったことをきくようだが、そのとき、奥さんはどんな服装をしていたの」 「はあ、あの、|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》のまんまで……」  浩一郎の声は消えいりそうである。 「そのとき、奥さん、どこかへ出かけるというようなこといってなかった?」 「いいえ、べつに……」 「きみに駆け落ちをせまるというようなことは……?」 「はあ、せんにはさかんにせまられたんです。しかし、ちかごろではもうあきらめたらしゅうて、あの晩も、これできれいに別れてあげるちゅうてくれたんです。でも、あとから思うとそのときの奥さんの口ぶりに、なんだかとても底意地の悪いひびきがあったような気がするんです」  浩一郎はかすかに身ぶるいをすると、わしづかみにした手ぬぐいで、ごしごし額をこすっている。 「さて、九時五十五分ごろ水車小屋へかえってくると……?」  と、切りだしたものの磯川警部も、さて、そのあとどう質問をつづけてよいかわからないので、助け舟をもとめるように、金田一耕助をふりかえる。  金田一耕助はうなずいてすこし膝を乗りだした。 「浩一郎君、そのときはきみもさぞびっくりしたことだろうねえ。由紀子さんの死体がころがっていたんだから」 「な、な、なんですって!」  磯川警部をはじめとして、そこにいあわせた刑事たちはみないっせいに、金田一耕助の顔を見なおした。 「き、金田一さん、そ、それじゃ由紀子を殺したのは、この浩一郎君では……?」 「いや、いや、それはそうではないようですね。しかし、その間の事情は浩一郎君みずからの口から、聞かせてもらおうじゃありませんか」  浩一郎は無言のまま、ふかく頭をたれていたが、やがて涙のひかる眼をあげると、 「先生、ありがとうございます。それを知っていてくだされば、ぼくも助かります。ぼく、とてもこれからお話するようなことは、信用していただけまいと思うとりましたんですが……」  と、浩一郎は手ぬぐいで眼をこすると、いくらか安心したような色をうかべて、 「はじめのうち、ぼくも気がつかなかったんです。なにしろ、一時間以上も小屋をあけとりましたもんですから、夢中になって米を|搗《つ》いておりました。ところが、そのうちにひょいと見ると、カーテンの下から足袋をはいた足がのぞいとるじゃありませんか。ぼく、びっくりしてカーテンのなかをのぞくとそれが由紀ちゃんなんです。ぼく、そのときはまだ殺されてるとは気がつかなんだんです。でも、由紀ちゃんが小屋にいるなんて、ゆめにも思わなんだもんですから、それだけでももうびっくりしてしもうて、あわててゆり起こそうとして、ひょいと顔を見ると……」 「ちょっと待ってください」  と、金田一耕助がさえぎって、 「カーテンがしめてあっても、あそこ明るいんですか」 「はあ、それはいくらか。……なにしろ、ああいう丸太組みですから、丸太のすきから月の光がさしこむんです。それに、ちょうど由紀ちゃんの顔のところに、光があたっておりましたもんですから。……あとにもさきにも、ぼくあんなにびっくりしたことはありません。なにしろ、片眼がくりぬかれておるもんですから。……それで、ぼく、はじめて由紀ちゃんが死んでいる。殺されているちゅうことに気がつきましたのです」 「暴行をうけたような形跡はありませんでしたか」  それは残酷な質問である。しかし、金田一耕助のような職業に従事していれば、ときと場合で、こういう残酷な質問も、あえてしなければならないのである。  浩一郎の|頬《ほお》から血の気がひいた。 「はあ、あの|裾《すそ》がまくれあがって……ぼくがあんなことをしたというのも、ひとつには、そういうあさましい姿を、だれにも見せたくなかったけん。……」  浩一郎はそこでギラギラと熱っぽくかがやく眼を、金田一耕助のほうへむけると、 「先生、そのときのぼくの驚きを御想像ください。ぼくもはじめはもちろんこのことを、ひとに知らせるつもりだったんです。いいえ、事実ぼくは小屋をとびだして、舟に乗って部落のほうへ行きかけたんです。ところが、途中ではっと気がついて立ちどまりました。これは自分に疑いがかかってくるかもしれんちゅうことに気がついたからです。その疑いを晴らすためには、小屋をあけたちゅうことをいわねばなりません。それも五分や十分のことならともかく、一時間以上も留守にしたちゅうことになると、どこでなにをしていたかいうことを申し立てねばなりません。そうなると、村長の奥さんとのことが|暴《ば》れてしまいます。いけない、いけない!……ぼくは舟を|漕《こ》ぐ手をやめました。まったく、ぼく、途方にくれてしもうたんです。気が狂いそうだったんです。いいえ、いいえ、あのときたしかに気が狂うとったにちがいありません。それでなければ、あんな恐ろしいことができるはずがありませんけん」  浩一郎はいまさらのようにはげしく身ぶるいをする。  金田一耕助はやさしい眼でそれを見ながら、 「つまり君は殺人のアリバイを犠牲にしてまで、村長の奥さんとの関係のほうのアリバイを、つくりあげようとしたわけですね。ところで、きみはすぐそのとき、死体を湖水へしずめに行ったの?」 「いえ、そうたびたび小屋をあけるわけにはいきませんし、舟で行ったり来たりしてるのをもしひとに見つかると怪しまれますけん、一時死体は舟のなかへかくしておいて、それから米搗きをつづけたんです」  金田一耕助は興味ふかい眼で浩一郎を見まもりながら、 「それじゃ、九十郎が小屋をのぞいたときには、死体はまだ舟のなかにあったわけですね」 「はあ、あのときは、ぼく、まったくどうしようかと思いました。もし、舟のなかの死体を見つかったら……と、そう思うと生きたそらもなかったんです」 「九十郎とはどんな話をしたんですか」 「いいえ、べつに……祭りがにぎやかだったとか、そんな話でした」 「あの男はめったにひとと口をきかんそうだが……」 「ええ、しかし、ぼくにはわりあいに話をするんです。それにあの晩は酒をのんでいたので、あのひとにしては上きげんのようでしたけん」 「なるほど、なるほど、それから……?」 「はあ、それから……さいわい九十郎さんもなんにも気がつかずに行ってしもうたので、一時ごろ米を搗きおわると、|石《いし》|臼《うす》をいっしょに舟につみこみ、荒縄で死体に結びつけて、かえる途中で湖水へしずめてしもうたんです」  浩一郎はまた額にじっとり汗をにじませて、はげしく身ぶるいをすると、 「いまから考えると、どうしてあんなむちゃなことができたもんかと思いますが、そのときは一生懸命でした。はあ、あの帯は半分解けておりましたので、結びなおしてやったんですが、男のことですからうまく結べませんで……|下《げ》|駄《た》はあのときどうしたのか、いまでも思い出すことができません」  浩一郎はそこでことばをきると、張りつめた気がゆるんだのか、眼に涙をにじませ、がっくり肩をおとしてうなだれた。  金田一耕助がそばからはげますように、 「しっかりしたまえ。もう少しのところだ。きみは由紀子さんが殺されているのを見たとき、それをだれのしわざだと思った? とっさになにか|頭脳《あたま》にうかんだことはなかった?」 「はあ、それはもちろん奥さんのしわざだと思いました。奥さんがみずから手をくだしたんではないにしても、だれかにやらせて、ぼくに罪をきせようとしているんだ。それが、あのひとの|復讐《ふくしゅう》なんだとそう思うたんです。それだけに相手の手にのってはならんと、あんな大それたことをやったんですが、きのう奥さんも殺されてるときいてびっくりしてしもうて……」 「奥さんがだれかにやらせたとするとだれに……?」  磯川警部がそばから尋ねた。 「いえ、いえ、それはぼくみたいなもんにはわかりません。しかし、いかにもそんなことしそうな、怖いひとでした」  浩一郎はいまさらのように秋子の恐ろしさを思い出したのか、額につめたい汗をうかべて身ぶるいをする。 「ところで、浩一郎君、きみはまえから由紀子さんの義眼に気がついてましたか」 「いいえ、全然知らなんだんです。だからあのときも生きた眼玉をくりぬかれたんだと思うて、ぞうっとしたんです。しかし、よくよく見ると血が少しもついておりません。それではじめて義眼をはめてたんだということに気がついたんです。そういえばまえから少し、左の眼がおかしいと思うとりましたけん」 「そのへんに義眼はなかったんですね」 「いいえ、そんなもん残しといたらたいへんですから、ずいぶん探したんですが、どこにも見えなんだんです」 「手紙だの紙入れだのは……?」 「いいえ、なんにも持っとらなんだんです」 「ところでねえ、浩一郎君」  と、金田一耕助は少し机から体を乗りだすようにして、 「きみと村長の奥さんとの関係だがね。だれか感付いてるものがなかったかしら。あんた思い当たるところない?」  浩一郎はまた顔をあかくして、 「いいえ、おそらくそんなひとないだろうと思います。そういう点、あの奥さんとても慎重で上手でしたから」 「しかし、浩一郎君、あの晩……三日の晩ですがね、こういう手紙を村長のポケットに投げこんだものがあるんですがね。警部さん、あれを……」  金田一耕助にうながされて、磯川警部が例の密告状をひろげてみせると、浩一郎はびっくりしたように眼を見張った。 「浩一郎君、あんた、こういう手紙の筆者に心当たりはありませんか」 「いいえ、いいえ、ぼく、全然……」 「この筆跡には……?」 「それも、ぼくにはわかりません」 「ああ、そう」  と、金田一耕助は手紙をたたんで、 「それじゃ、浩一郎君。最後にもうひとつお尋ねがあるんですがね」 「はあ。……」 「九十郎君のことですがね。九十郎君が由紀子さんの死体にどういうことをしていたか、きみも知っているでしょう。それについて、あんた、どう思う……?」  そのとたん、浩一郎の頬にさっと血の気がのぼったが、それが潮のように退いていくと、額にいっぱい汗をにじませ、わなわなと体をふるわせながら、 「ぼく……ぼく……とても恥ずかしいことだと思います。自分のこと棚にあげていうのもなんですが、ほかの村のもんにも顔むけできんように思うんです。あのひと、もっと村のもんがめんどうみてあげねばいかなんだんです。しかし、あのひと自身にも悪いとこがあるんです。すっかりひがんでしもうて、ひとのいうこと、すなおにうけいれてくれんのです。しかし、それやからいうて、あんなあさましいこと……ぼく、由紀ちゃんがかわいそうで、かわいそうで……それというのもぼくが湖水にしずめたりしたもんじゃけん。……」  浩一郎は手ぬぐいを眼をおしあてて男泣きに泣きだした。  金田一耕助は警部のほうを見て、 「警部さん、どうです、これくらいで……」  磯川警部はうなずくと、 「北神君、いまのきみの話が事実としても、いや、事実としたら、死体遺棄というなにがあるんだから、こらままかえすわけにゃあいかんよ」 「はあ、それはもう覚悟しとります」  |嗚《お》|咽《えつ》する北神浩一郎が清水巡査に手をとられて出ていくと、木村刑事がフーッと鯨が潮を吹くようなため息をもらした。 「これはまた妙な事件ですな」 「しかし、浩一郎の話をきいてみると、あの男のやったことも、まんざらむりとも思えんな。もとより許しがたいことではあるが……」 「そうです、そうです。そうするとまた康雄がくろくなってきましたね。山越えの途中で眠りこけてしもうたなんて……警部さん、もう一度康雄をひっぱってきましょうか」  腰をうかしかける木村刑事を、 「あっ、刑事さん、ちょっと待って……」  と、金田一耕助が手でおさえて、 「九十郎はまだここの留置場にいるんでしょう」 「はあ、今日あたり送ろうと思うているんですが……」 「ああ、そう、それはさいわい、ちょっとここへ呼んでくれませんか。もう一度ききたいことがあるんだが……」      十  手錠をはめたまま警部のまえにひきすえられた九十郎は、あいかわらず無表情な顔色である。  あのような忌まわしい、けがらわしい|罪《ざい》|業《ごう》も、この男の良心にはなんの|呵責《かしゃく》もあたえぬらしい。|狐《きつね》のおちた狐|憑《つ》きのように、きょとんとしたひげ面を、金田一耕助は興味ふかげに見まもっていたが、急に体を乗りだすと、そのひげ面の鼻さきへ顔をつきつけて、にやにやしながら、妙なことをしゃべりはじめた。 「九十郎君、九十郎君、人間の知恵って結局おなじようなもんだね。きみがさんざん頭をしぼったあげく、ここがいちばん安全だと思ったかくし場所は、ぼくにもやっぱりそう思えたからね。あっはっは」  そのとたん、いままで生気をうしなって、どろんと濁っていた九十郎の|瞳《ひとみ》に、一瞬、さっとつよい感情の光がほとばしった。  金田一耕助はそれを見ると、あざわらうようににやりと笑う。  九十郎ははっと気がついたように、あわててもとの虚脱した、敗戦ボケの表情にもどったが、そこにいあわせたひとびとは、だれもその一瞬の動揺を見のがさなかった。  磯川警部の瞳には、驚きの色と同時に、にわかに疑いの色が濃くなってくる。 「あっはっは、九十郎君、あんたぼくのいった意味がわかったとみえるね。あんたは利口なひとだ。|狡《こう》|猾《かつ》なひとだよ、あんたは。……それにあんたの立場もよかったんだね。|渦中《かちゅう》にいるとかえって物事よく見えないものだが、あんたのように孤立してると、|岡《おか》|目《め》|八《はち》|目《もく》というやつで、かえって村のかくしごとなどよくわかるんだね。あんたは村長の奥さんと浩一郎の情事を、だいぶまえから知ってたね」  金田一耕助は注意ぶかく九十郎の顔を見つめている。九十郎の敗戦ボケの表情には、もうなんの変化もあらわれなかったが、この取調室のなかにはさっと緊張の気がみなぎる。  磯川警部は息をころして、金田一耕助と九十郎の顔を見くらべている。 「それのみならず、利口で、狡猾で、注意ぶかい観察者であるあんたは、村長の奥さんの性質などもよくのみこんでいた。浩一郎と由紀子の婚約が発表されると、ただではすまないだろうと考えていた。そこへあの日、村長の奥さんから、由紀子にあてた浩一郎名前の手紙をことづかったから、すぐにさてはと万事をさとったんだ。敗戦ボケをよそおって、村のあらゆる秘密をかぎだそうとしているあんたは、あるいは村長の奥さんと康雄の密談を立ちぎきしていたのかもしれない。とにかく、その手紙が浩一郎の筆跡でないことをさとると、ひそかに封をひらいて中身を読んだ。それで村長夫人と康雄の計画がすっかりわかると、好機いたれりとばかり、きみはそれをきみ自身の、世にも惨悪な計画にふりかえたのだ」  一同の瞳にうかぶ緊張の色が、いよいよふかくなってくる。刑事はつと立って九十郎の背後にまわった。 「さて、あんたはなに食わぬ顔をして、浩一郎からたのまれたといってその手紙を由紀子にわたした。そして、その晩、隣村へ行き、接待場で康雄ののむ酒にねむり薬をまぜる。それから康雄のあとをつけていって、山中で康雄の眠りこけるのを待って、これを林のなかへかつぎこんだ。あとからくるであろう由紀子に見られたら困るからだね。そうしておいて水車小屋へ来てみると、浩一郎は村長夫人に呼び出されていない。そこできみはなかへしのびこみ、カーテンの奥にかくれて待っていると、間もなく由紀子がやってきた。……」  九十郎は依然として虚脱したような表情をつづけている。しかし、その装いもいまはむだだった。額に吹きだす玉のような汗が、かれの外見を裏切っているのだ。  磯川警部は驚倒するような眼の色で、金田一耕助と九十郎の顔を見くらべている。 「きみはひと思いにあわれな由紀子を絞め殺した。それから、それから……」  さすがに金田一耕助もそのあとはいいよどんだ。あまりにもいまわしい言葉だったからである。 「ところが、そのとききみは、世にも意外なことに気がついた。丸太のすきからさしこむ月の光が、仰向けに死んでいる由紀子さんの顔を照らしたが、その光のなかで、由紀子さんの左の眼が、異様なかがやきをおびているのに気がついて、きみははじめてそれを義眼だとさとった。そこで大いに好奇心をもよおしたか、それともいままでだまされていた腹立ちまぎれか、きみはその義眼を抜きとったんだ」  清水巡査はまるで自分自身が告発されてでもいるように、これまたびっしょり汗をかきながら、用心ぶかく九十郎の背後に立つ。  金田一耕助は相手の顔色などおかまいなしに、 「さて、義眼を抜きとると、きみは死体をそのままにしてそこをとび出し、村長の家へしのんでいった。そして|逢《あい》|曳《び》きをすませた村のロメオが立ちさるのを待ってなかへとびこみ、おそらくこんな言葉で奥さんをだましたんだろう。村長があんたと浩一郎の関係を知って、烈火のごとく怒っていまかえってくる。一時どこかへ身をかくしなさいと。……そして奥さんが支度をするのを待って、間道のほうへ案内し、ほどよいところで絞め殺して、赤土穴のなかへ死体を押しこんだ。そのとききみは義眼をもっていることに気がついて、穴を掘って埋めておいた。……村長の奥さんを殺したのは、|文《ふみ》|使《づか》いをしたことが|暴《ば》れ、それからひいて疑いを招くことを恐れたからだね。恐ろしい男だよ、きみは……」  九十郎の額から吹きだす汗は、いまはもう滝となって流れおちる。しかし、手錠をはめられたかれには、それをぬぐうこともできないのである。虚脱の表情もしだいにうすれて、凶暴な憎しみの色がひろがってくる。 「ところで、その晩のきみの仕事は、まだまだ、それだけではすまなかった。それから隣村へとんでいくと、村長のポケットに、秋子浩一郎の仲を書いた密告状をほうりこんでおいた。村長を怒らせることによって、事件をできるだけ紛糾させようというんだね。これですっかり仕事もおわったので、はじめてゆっくり振舞酒にあずかり、さて、いまごろはどんな騒ぎになってるだろうと、舌なめずりをしながらかえってくると、あにはからんや、浩一郎は平然として米を|搗《つ》いている。さすがのきみもそのときは、狐につままれたような気持ちだったろうが、そこは利口なきみのことだから、ひそかに成り行きを静観しているうちに、なんという不思議なめぐりあわせか、浩一郎が湖水にしずめた由紀子の死体が、翌晩の大夕立でうかびあがって、ところもあろうにきみんちのまえの|崖《がけ》|下《した》に流れよったのだ」  金田一耕助は|嫌《けん》|悪《お》にみちた眼で、醜悪な九十郎の顔を見ながら、 「きみは|狡《こう》|猾《かつ》な男だね、ぼくもいままで多くの犯罪者をあつかってきたが、きみみたいに狡猾なやつに出会ったのははじめてだよ。きみはその死体にたいして、けがらわしい欲望を感じたのかもしれぬ。しかし、それよりもきみの狡猾さがあのようなことをさせたのだ。きみはそっちのほうの罪、あのけがらわしい罪状で、まず挙げられておこうと考えたのだ。つまりその罪状の煙幕のかげにかくれて、殺人の容疑からのがれようとこころみたんだ。それについては、きみには大きな安心もあった。凶行と死体発見とのあいだに、浩一郎があのような小刀細工を|弄《ろう》しているんだから、いざとなったらそっちへ疑いがいくだろう。そのうえに死体から抜きとっておいた手紙や紙入れもある。それによって康雄に疑いをむけることもできる。……そこできみは大胆にも、あんな浅ましいことをやってのけたんだが、そこできみは大失態を演じたんだね」  金田一耕助はにやりとわらうと、 「実際は敗戦ボケでもなんでもないきみは、ふつう人の審美眼をもっていたんだね。そういうきみにとっては、いかになんでも片眼くりぬかれたあの顔にはがまんができかねた。実際、あれはお岩様みたいに醜悪だったからね。そこで、まえの晩、埋めておいた義眼を掘りだしに行ったんだが、きみが大失態を演じたというのはそこのところだ」  金田一耕助が思わせぶりに口をつぐむと、九十郎はなにかいいかけたが、すぐ気がついたように沈黙する。しかし、それでもその眼は物問いたげに、金田一耕助を見まもっている。 「義眼を掘りだしに行ったとき、きみはついでに木の枝や枯れ草をあつめて死体をおおうておいたね。なぜそんな馬鹿なまねをやらかしたのかね、きみみたいな利口なひとが……村長夫人が殺されたのは、あらゆる角度からみて三日の晩ということになっているんだ。ところがそのときは、三週間も日照りがつづいて、草も木も乾ききっていたはずなんだぜ。ところが、死体をおおうていた木や草は、ぐっしょりと水にぬれていた。……と、いうことは四日の晩の大夕立ののちに、ふたたび犯人がやってきたことを意味している。では、なんのためにやってきたのか、草や木で死体をおおう、ただそれだけのためか。どうもそうは思われないね。もっとほかにさしせまった用事があったのではないか。……そう思って赤土穴をさがしているうちに、ぼくは義眼が埋めてあったらしい跡を発見したんだ。ねえ、きみ、九十郎君、きみはなぜ義眼を掘りだしたあとの土を、よくくずしておかなかったんだね。あれはふつうの土ではないよ。粘りけのある赤土なんだ。鋳型のようにくっきりと、義眼の跡がのこっていたぜ。そのとたん、ぼくは勝利のラッパが耳の底で、鳴りわたるのを聞いたね。犯人はいったん埋めた義眼を大夕立のあとで掘りだしにきた。では、いったん埋めた義眼がなぜまた必要になってきたか。……きみ、西洋にこういうことばがあるのを知ってるか。|栓《せん》を必要とするものは、その栓のしっくり合う容器の持ち主だってことね。この場合、由紀子の義眼という栓を必要とした犯人は、すなわち、その義眼のしっくり合う、由紀子という容器の持ち主なんだ。そして、それはきみ、九十郎君じゃないか」  そこで金田一耕助は、ごくりとつばをのみ、なにかしら照れくさそうな表情で、磯川警部の横顔にちらりと眼をやり、それからエヘンと|咳《せき》をして、九十郎のほうへむきなおった。 「ねえ、九十郎君。こうしてぼくはきみが犯人であることを知った。そこできみのうち……と、いうより小屋へ行ってみたんだ。そして、きみの知恵になり、ぼくがきみならどこへ義眼をかくしておくだろうと考えてみた。そして、結局、それほど大した苦労もせずに発見することができたんだ。見たまえ、これを……」  だしぬけに、ぱっと開いてみせた金田一耕助の|掌《たなごころ》には、黒い瞳をもつ二重|貝《かい》|殻《がら》ようのかたちをしたガラス玉がにぶい光を放っている。  そのとたん、手錠をはめられた九十郎の両手が、さっと上にふりあげられた。  もし、そのとき、木村刑事と清水巡査が、うしろから九十郎をおさえなかったら、金田一耕助の掌の上で、義眼はこっぱみじんと吹っとんだろう。 「馬鹿! 馬鹿! 九ン十の馬鹿! おまえ由紀子に惚れとったのか」  荒れ狂う九十郎の体をうしろから、羽交いじめにした清水君のにきびだらけの童顔は、汗と涙でぐっしょりぬれている。 「だれが……だれが……あんなしょんべん臭い娘に……」  と、九十郎はバリバリと歯を|噛《か》みならし、 「おれはきらいなんだ。この村がきらいなんだ。村のやつら、どいつもこいつもきらいなんだ。なにが村長だ、なにが模範青年だ、おれは村のやつらに復讐してやったんだ。この村にできるかぎりのきたない罪の|烙《らく》|印《いん》をやきつけてやったんだ。|姦《かん》|通《つう》、暴行、殺人……それからもっともっときたない、けがらわしい罪名を……村のやつらもう世間へ顔むけができなくなるだろう。世間のひとはこの村の名をきいただけでも身ぶるいをするだろう。|態《ざま》アみろ、態アみろ、態アアみろ!」  それはもう常人の|形相《ぎょうそう》ではなかったのである。      十一 「金田一さん、ありがとう、ありがとう」  北神九十郎のくわしい自供(それは金田一耕助の組み立てた推理と全然おなじだったが)があって、すっかり肩の重荷をおろした磯川警部は、その晩、金田一耕助をまじえて、部下とともにささやかな慰労の宴をはったが、ほんのりと酒気をおびた磯川警部は、幸福そのもののようであった。 「あんたのおかげでこんなにはやく片づいて……わしゃまさか九十郎がやったとは、ゆめにも思わなんだからなあ」 「いやあ、実際|奸《かん》|知《ち》にたけたやつですな。金田一先生もおっしゃったが、わたしもいままであんな|狡《こう》|猾《かつ》な犯人にお眼にかかったことがない」  木村刑事もビールの|満《まん》をひきながら、慨嘆するように肩をゆすった。  金田一耕助はてれながら、 「それはねえ、あいつの立場がよかったんです。あいつはいわゆるインヴィジブル・マン、すなわち見えざる男だったんですね。敗戦ボケの九十郎は、どこでなにをしようと、だれも気にするものはなかった。あいつは牛馬同様に、いや、牛馬以上に完全に、村の連中から無視されていた。そういう立場を利用して、村長夫人と浩一郎の秘事を知ったんですが、またその立場を利用してああいう巧妙な犯行をやってのけたんですね。これが村のほかの連中なら、たれそれは何時ごろから何時ごろまで隣村にいたが、何時ごろから何時ごろまではいなかったと、調べてみればすぐわかる。康雄のばあいがそうですね。だけど、九十郎のばあいだと、おそらくその調査はやっかいですよ。だれだってあの男の存在に関心をはらうものはありませんからね。そういう有利な立場を極端に利用した犯罪ですね」 「なるほど、インヴィジブル・マンというのはいい言葉ですな。ああいう罪であげられていながら、あいつの存在は完全に、われわれの焦点からはずれていたからな」  金田一耕助はため息をつくと、 「ねえ、警部さん、あなたは一昨日こういうことをおっしゃったでしょう。こういうものしずかな農村のほうが、われわれの住んでいる都会よりも、ある種の犯罪の危険性をはるかに多分に内蔵していると。……実際、そのとおりなんです。しかし、それはあくまで内蔵しているだけであって、ある種の刺激がなければ、こんどのような陰惨な事件となって爆発しなかったろうと思うんです。では、その刺激とはなにか……やはり都会人の|狡《こう》|知《ち》ですね。こんどの事件の下絵をかいたのは疎開者である村長夫人、そして、それをおのれの奸悪な計画に利用したインヴィジブル・マンは引揚者、きっすいの農村人である浩一郎や康雄はただ踊らされただけですからね。だからぼくのいいたいのは、農村へ都会のかすがいりこんでいる、現在の状態がいちばん不安定で危険なんですね」 「なるほど、なるほど、いわれてみればそのとおりだな」  磯川警部はふとい|猪《い》|首《くび》をふりながら、しきりに感服の体だったが、急に思い出したように、 「それはそうと、金田一さん、話はちがうがあの義眼ですな。あれはどこにかくしてあったんですか。あんたのはしっこいのには驚いたが……」  そのとたん、金田一耕助の顔はそれこそ火がついたように真っ赤になった。 「いやだなあ、警部さん、そんな皮肉をおっしゃると、ぼく穴があったら入りたいですよ」 「皮肉……?」  磯川警部はじめ一同は、びっくりしたように耕助の顔を見なおす。金田一耕助はいよいよ照れて、がぶりとビールをひと口のむと、 「もちろん、あんなこと|卑怯《ひきょう》なことです。少なくともフェヤーじゃない。しかし、ぼくとしてはああするよりほかに手段がなかったんです。いかに牛小屋みたいにせまい小屋でも、義眼のような小さいものを探すとなるとたいへんですからな。ですから、きのう赤土穴のあの状態から、てっきり犯人は九十郎とにらむと、けさ、岡山の医大へ行って手ごろの義眼を借りてきたんです。ただ、ぼくの心配だったのは、九十郎のやつが義眼をすでに始末してやあしないかということでした。たたきつぶすとか、湖水へ沈めるとかねえ、そこでのっけにカマをかけて反応をためしてみたところが、まだ、どこかにかくしてあるらしい。そこで、とうとうああいうインチキをやったんですが……警部さん、ぼくのやりかたがフェヤーでなかったことについてはあやまります。だが、それはそれとしておいて、至急、九十郎の小屋を捜索してください。どこかに義眼がかくしてあるはずですから」  磯川警部はじめ一同は、|唖《あ》|然《ぜん》としてあいた口がふさがらなかった。     蜃気楼島の情熱      一 「いったい、アメリカみたいな国からかえってきて、都会に住むならともかく、こういう田舎へひっこんだ人間で、アメリカ在住当時の生活習慣をまもっていくやつはほとんどないな。みんな日本趣味、それも極端な日本趣味に還元してしまうようだな」 「ああ、そう、そういうことはいえますな。アメリカのああいう、|劃《かく》|一《いつ》|的《てき》な缶詰文化の国からかえってくると、この国の非能率的なところが、かえって大きな魅力になるんですね」 「つまり束縛から解放されたような気になるのかな。耕さんのその和服主義なども、その現われのひとつだろうが……」 「いやあ、ぼくの話はよしましょう」  金田一耕助は、|雀《すずめ》の巣のようなもじゃもじゃ頭を、五本の指でゆるく|掻《か》きまわしながら、照れたようなうす笑いをうかべた。 「あっはっは、しかし、あんたの和服主義も久しいもんだな。もう何十年来というところだが、何か主義とか主張とかいうようなものがあるのかな」 「何十年来はひどいですよ。おじさん、これでもまだぼくは若いんですからね。うっふっふ」  金田一耕助はふくみ笑いをして、 「べつに主義もへちまもありませんがね。このほうが便利ですからね。第一、洋服だとズボンをはいてバンドでとめる。ワイシャツを着てネクタイをしめる。靴下をはいてガーターでとめる。靴をはいて……それだって靴べらってものがいりまさあ。それから|紐《ひも》をむすぶ。考えただけだって、頭がいたくなりそうな手数をかけて支度をしながら、さて、ひとさまのうちを訪問して、そのままスーッとあがれるうちってめったにありませんからね。まず靴の紐をといて靴をぬぎ、それからやっと上へあがるということになる。かえるときにはどうかというと、靴べらはどこへやったと、あちこちポケットをさがしまわったあげく、結局、うちへ忘れてきたことに気がつき、やむなくそのうちの備えつけの、いやに長っ細いへなへなした靴べらを借用したとたん、ポキッと折っちまう。大いに面目玉を失墜したあげく、お|尻《しり》をおったてて靴の紐をむすんでるうちにまえへつんのめる」 「あっはっは」 「ことにおじさんみたいに、腹のつん出たひとが、フーフーいいながら靴の紐を結んでるところを見ると気の毒になりますよ。今朝だって、式台に泥靴をかけておばさんに|叱《しか》られたじゃありませんか」 「うっふっふ」 「あれだって、じぶんのうちだからこそ、亭主関白の位でああいうことが出来るんだが、ひとさまのおうちじゃ、いかにおじさんみたいなずうずうしいひとでもやれんでしょう。結局、まえへつんのめって|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》を起こすということになる。これをもってしても、日本における洋服生活というやつが、いかに非能率的であり、かつ非衛生的だということがわかるじゃありませんか。おじさんなんぞもいまのうちに考えなおしたほうがいいですよ」  金田一耕助がけろりとすましているのに反して、いや、耕助がすましているだけにかえっておかしく、相手は腹をかかえてげらげら笑っている。 「わかった、わかった。それじゃ、耕さんが和服で押し通しているのは、脳溢血がこわいからだね」 「そうですよ。この若さでよいよいになっちゃみじめですからね。おじさん、この|蟹《かに》、うまいですよ。食べてごらんなさい」  金田一耕助の相手は眼に涙をためてまだ笑っている。それでいて耕助を見る眼つきにこのうえもない愛情がこもっている。  この男は|久《く》|保《ぼ》|銀《ぎん》|造《ぞう》といって、金田一耕助の一種のパトロンである。  金田一耕助が「本陣殺人事件」でデビューしたときの登場人物で、若いころアメリカヘわたって、カリフォルニヤの農園で働いていたが、そこで習得した技術と稼ぎためた金を日本へ持ってかえって、郷里の岡山県の農村で果樹園をはじめた。この果樹園は成功して、いまではジュースなども製造して、かなり盛んにやっている。  金田一耕助も青年時代の数年を、アメリカの西部で放浪生活を送ったが、そのころ、ふとしたことから|識《し》り|合《あ》って以来、親子ほどある年齢のへだたりにもかかわらず、どういうものかうまがあって、耕助がげんざいやっている、風変わりな職業に入るときにも、この男の出資を仰いだ。  |爾《じ》|来《らい》、いっそう緊密な友情にむすばれて、耕助は年に一度はかならず銀造の果樹園へ、骨休めにやってくる。  金田一耕助のような職業にたずさわる人間には、ときどきの休養が必要だし、休養の場として、静かで、新鮮な果樹の|熟《う》れる果樹園ほどかっこうの場所はなかった。久保銀造も金田一耕助の|飄々《ひょうひょう》たる人柄を愛して、年に一度、かれがやってくるのを何よりの楽しみとしている。  今年もかれがやってくるのを待って、二、三日のんきなむだ話に過したのち、|俄《にわ》かに思い出したように旅行にひっぱり出した。そしていま瀬戸内海に面した町の、宿の二階にくつろいでいるふたりである。 「ねえ、耕さん、いまのような話をね、|志《し》|賀《が》のやつにしておやり。よろこぶぜ、あの男……」 「承知しました。志賀さんの日本趣味に大いに共鳴して、ご機嫌をとりむすんで、ひとつパトロンになってもらいますかな」 「あっはっは、それがいいかもしれん。あいつはおれより、よっぽど金を持っとるからな。しかし、あいつのあれ、日本趣味というのかな。日本趣味だか支那趣味だか、なんだかえたいのしれん趣味だよ、あいつのは……何しろあのとおり、竜宮城みたいな家を建てるやつだからな」  久造銀造はふりかえって欄干の外を指さした。欄干の外はすぐ海で、海の向こう一里ばかりのところに、小さい島がうかんでいる。  夏はもう終わりにちかいころのこととて、海はとかく荒れぎみで、今日も雀色の|黄昏《たそがれ》の|靄《もや》のなかに、幾筋かの白い波頭をならべて、不機嫌そうな鉛色をしている。その海の向こうに小ぢんまりと藍色にうかんでいるのは、周囲一里たらずの小島だが、この島は全然孤立しているのではなく狭い桟道のようなもので本土とつながっているらしい。 「しかし、志賀さんがああいう島を買って、竜宮城のような家を建てるというのも、長いアメリカ生活にたいするひとつの反動でしょうな。|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》にいうとレジスタンスというやつかな」 「そうそう、それは大いにあるんだ。アメリカでしこたま稼ぎためたにゃちがいないが、それと同時にひどい目にあってるからな」 「ひどい目って……?」 「いや、それはいつか話そう。耕さんの領分にぞくすることだがな」 「ぼくの領分に……?」  耕助がちょっとドキリとしたような眼で、銀造の顔を見直したとき、女中が階下からあがってきて、 「あの……沖の小島の旦那さまがいらっしゃいましたが……」  話題のぬしがやってきたのである。      二  久保銀造はそこへ入ってきた男の服装をみると、おやというふうに眼を見張って、 「どうしたのそれ、ちかごろ君はいつでもそんな服装をしてるの?」 「あっはっは、馬鹿なことを。……なんぼぼくがこちらかぶれになったからって、紋付きの|羽織袴《はおりはかま》をふだん着にしちゃたいへんだ。いや、失礼しました」 「いや、どうも、はじめまして……」  金田一耕助もおどろいたのだが、その男、黒紋付きの羽織袴に白足袋をはいて、手に白扇を持っている。年齢は銀造とおっつかっつというところだろうが、色白の好男子なので五つ六つ若く見える。八字ひげをぴいんと生やして、七三にわけた髪もまだくろい。  これがいま話題になっている|志《し》|賀《が》|泰《たい》|三《ぞう》という人物なのである。 「どうだい? こうしてるとちょっとした男前だろう」 「まったくだ。|静《しず》|子《こ》さんの|惚《ほ》れるのも無理はないな」 「いや、ありがとう。そのとおり、そのとおりだ」  志賀は扇を使いながら、子供のようによろこんでいる。 「しかし、どうしたんだ。その服装は……?」 「いや、それについてちょっとお|詫《わ》びにあがったんだが、親戚のうちに不幸があってね、今夜がそのお|通《つ》|夜《や》なんだ。いま、そっちへ出向くとちゅうなんだが……」 「おや、それはそれは……親戚というとお医者さんをしている|村《むら》|松《まつ》さん?」 「ああ、そう、ぼくの親戚といえばあそこしかないからね。そこの次男の|滋《しげる》というのが亡くなって、今夜がそのお通夜なんです」 「ああ、そう、それはいけなかったね」 「そういうわけで、これからすぐにあなたがたを御案内するというわけにはいかなくなったんだが、お通夜といったところで、どうせ半通夜で、十二時ごろにはお開きになるそうだから、その時分お迎えにあがります。それまで待ってください」 「いや、そんな無理はしなくても……そういうわけなら今度はご遠慮しようか」 「それはいけませんよ、久保さん、あなたはともかく金田一先生はわざわざ東京からいらっしたんだから、是非見ていってください。ねえ、金田一先生、よろしいでしょう」  八字ひげなんか|生《は》やして|鹿《しか》|爪《つめ》らしいが、ものねだりするようなそういう口のききかたには、子供のような無邪気さがある。 「はあ、ぼくはぜひ見せていただきたいと思ってるんですが……」 「そうれ、ごらん、久保君、このかたのほうがあんたなんかよりよっぽど同情があるぜ。あっはっは」  眼尻に|皺《しわ》をよせてうれしそうにわらっている。 「なにしろ御自慢のおうちだからね」 「そうですとも、それからもうひとつ御自慢のものをね、ぜひ見ていただかなくちゃ……」 「もうひとつ御自慢のもの……? それ、なんだっけ?」 「あれ、いやだなあ、久保さんたら、それをわしの口からいわせるんですか。そりゃ、いえというならいくらでもいうが……あっはっは」  いくらか|赧《あか》くなった顔を、白扇でばたばた|煽《あお》いでいる。 「あっはっは、そうか、そうか、御自慢の奥さんを忘れてちゃ申し訳ない。ところで、今夜、奥さんも御一緒……?」 「ところがね、久保さん」  と、志賀は亀の子のように首をちぢめて、 「静子はちかごろ体のぐあいが悪いといって、寝たり起きたりしてるんだ。それで、今夜もおいてきたがね」 「ああ、そりゃ、心配だね」 「どうして? 何も心配なことないじゃないか。そりゃまあ、おれもはじめてだから、心配なことは心配だが、それよりうれしいほうがさきでね。あっはっは」 「ああ、そうか」  銀造ははじめて気がついたように、 「そうか、そうか、それはお目出度う。そうすると志賀泰三先生、いよいよ万々歳だね」 「あっはっは、ありがとう。おれ、それをはじめて聞いたとき、あんまりうれしいもんだから、静子のやつを抱きしめて、そこらじゅうキッスをしてやった。あっはっは」  あんまり露骨なよろこびの表現に、金田一耕助はクスクス笑う。  志賀もさすがに、照れたのか、血色のよい頬っぺたをつるりと|撫《な》であげると、 「いや、どうも御免なさい。なにしろアメリカ育ちのガサツもんですから、つい、お里が出ましたね。あっはっは」 「いや、わたしこそ。……そうすると、志賀さんはお子さん、はじめてですか」 「はあ。なにしろかかあもないのに、子供出来っこありませんや」 「すると、最近まで独身でいられたんですか」 「いや、若いころ一度結婚したことがあるんですが。……相手はアメリカ人でしたがね。それでひどい目にあって……そうそう、その話、久保君もよく知ってるんだが、お聞きじゃありませんか」 「いいえ、どういうお話ですか。……」 「あのとき、あなたみたいな名探偵がいてくれたら、わたしも助かったんですが。……それにこりたもんだから、生涯、結婚はすまいと思ったんですよ。それが、あの、静子みたいな天使が現われたもんだから……」  志賀はそこで、袴にはさんだ時計を出してみて、 「おや、もう出向かなきゃならないな。それじゃ、久保さん、金田一先生、わたし、ちょっとこれから出向いてきます。十二時前後にはきっとお迎えにあがります。それまでにさっきの話、久保さんから聞いてください。わたしもずいぶん可哀そうな男だったんです。じゃ、のちほど」  志賀泰三が出ていったあとで、金田一耕助と久保銀造は、顔見合わせて笑った。なんとなく心のあたたまる笑いであった。 「あっはっは、あいつも八字ひげなんか生やしているところは山師みたいだが、だいたいがああいう男なんだ。それにいま、幸福の絶頂にあるんだな」 「ねえ、おじさん、あのひとアメリカ主義に反抗して、日本趣味に転向したということですが、それにしてはただひとつ忘れてるところがありますね」 「忘れてるって、どういうとこ?」 「日本じゃ、あれくらいの金持ちで、あのくらいの年輩になると、もう少し気取るもんですがね。ああフランクによろこびを表現しない。もっとも、おじさんだからそうなのかもしれないけれど……」 「いや、誰にたいしてもああだよ。なにしろ変てこなうちを建てて、わかい細君をもって有頂天になってるんだからね」 「なかなか愛妻家のようですね」 「ああ、|舐《な》めるように可愛がるってのはあのことだね。それで最初の結婚のときも間違いが起こったんだ」  久保銀造はちょっと厳粛な顔をした。 「そのことですか。さっきあなたに話してもらうようにといってらしたのは……?」 「ああ、そう」  銀造はちょっと暗い顔をして、 「あの男、かくすってことが出来ないらしいんだね。それで、こちらの連中もみんなしってるんだが、最初の結婚の相手、イヴォンヌってフランス系のアメリカ人だったが、あいつのことだから猛烈に惚れてね、イヴォンヌでなければ日も夜も明けないという状態だったんだ。ところがわれわれはみんな知ってたんだが、イヴォンヌには結婚以前から、アメリカ人の情夫があって、結婚後もつづいていたんだね。だから、何か間違いがなければよいがと、みんな心配してたところが、果たしてそのイヴォンヌが殺されたんだね。ベッドのなかで」  金田一耕助はちょっと呼吸をのんで、銀造の顔を見直した。銀造は渋い顔をして、 「なんでも絞め殺されたって話だが、それを発見したのがあの男さ。ところが、あいつそれをすぐに届けて出ればよかったのに。イヴォンヌ、なぜ死んだというわけなんだろうね。二、三日、死体といっしょに暮らしたんだ。ベッドをともにして。……つまり、死体といっしょに寝たんだね」  銀造は顔をしかめて、 「もっとも、悪戯はしなかったようだが。……イヴォンヌを手放すにしのびなかったんだね。ところがそこを発見されたもんだから、てっきり犯人ということになったんだね。無理もない、われわれでさえ、ひょっとすると……と、思ったくらいだから。妻の不貞をしって、かっとして……と、そんなふうに思ったくらいだからな。ところが、あの男じしんは頑強に否定したんだね。第一、妻が不貞を働いていたってことさえ知らなかったというんだ。ところがあいつが犯人でないとすると、|睨《にら》まれるのは情夫だが、このほうは完全にアリバイがあったんだ。そのうちにあいつ当時まだあった検事のサード・ディグリーにひっかかって、身におぼえもないことを告白してしまったんだね。サード・ディグリーというのをおぼえてるだろう」 「一種の誘導訊問ですね」 「そうそう、あれは拷問にかわるもんだって、世論の反対にあってのちに禁止されたけど、それにひっかかったんだね。それで、あやうく刑の宣告をうけようというどたん場になって、真犯人が自首して出たんだ」 「真犯人というのは……?」 「それが悪いことにやはり日本人でね。|樋《ひ》|上《がみ》|四《し》|郎《ろう》といってあいつの友人だったんだ。これがイヴォンヌをくどくかなんかして、はねつけられたもんだから、ついかっとして……と、いうわけだったらしい。志賀が潔白になったのはうれしかったが、真犯人がやはり日本人だというんで、当時、われわれ肩身のせまい思いをしたもんだ」 「それで真犯人の樋上というのはどうなりました。電気|椅《い》|子《す》でしたか」 「いいや、電気椅子にはならなかった。自首して出たのと、それにそいつ、そう悪い人間じゃなかったんだね。イヴォンヌに誘惑されて、それに乗って、いざという間際にはぐらかされるかなんかして、それでかっとなったんだが、性質としては実直というより、いくらかこう鈍なやつだったな。たしか二十年だったと思うが、その後、どうなったかしらない。わたしが内地へひきあげてきたときには、まだくらいこんでいたようだが……」  夏の終わりといえばそろそろ|颱《たい》|風《ふう》の季節である。嵐でもくるのか、しだいに風と波の音がたかくなってくる。欄干の外にはすっかり夜の|闇《やみ》が垂れこめて、ふたつ、三つ、星のまたたく空には、雲脚が馬鹿にはやくなっていった。      三  志賀泰三が瀬戸内海の小島(沖の小島という)に建てた竜宮城のような建物は、新聞や雑誌にも報道されてちょっと評判になっていた。  それは日本趣味とも支那趣味とも、|飛鳥天平《あすかてんぴょう》とも安土桃山時代ともつかぬ、|摩《ま》|訶《か》不思議な構造物の混血児だが、見るひとのどきもを抜くには十分だった。 「なあに、よくよくみるとチャチなもんでね。材料やなんかも安っぽいもんで、それを極彩色に塗りたくって誤魔化してあるというもんなんだが、結構だけは相当なもんだな。あいつがああいう家を建てようとは思わなかった。結局、あれはアメリカ主義で、アメリカ人の見た東洋趣味が、あそこに圧縮されているのかもしれない」  久保銀造はその家についてそう説明した。 「奥さんはこの土地のひとですか」 「ああ、そう、さっき話の出た村松ね、名前はたしか|恒《つねし》といったと思うが、そのひとがこの町のお医者さんなんだ。静子というのはみなし児で、村松さんのところで看護婦をしてたんだが、それを戦後アメリカからかえってきた志賀のやつが見染めてね。村松さん夫婦の媒酌で結婚したんだ。自慢するだけあってなかなかべっぴんだよ」 「まだお若いんですか」 「若いも若いも、二十三か四だろう。結婚したのは一昨年だったがね。それからだよ、あいつひげを生やしたり、髪をきれいになでつけたりしはじめたのは、もとはわれわれ同様もっとラフな男だったがな」 「いまでもその感じはありますな。とても無邪気で、……しかし、そういう奥さんに子供が出来るとなると、ああして有頂天になるのもむりはありませんね」 「あいつもいよいよ|有《う》|卦《け》にいったかな」  銀造もわがことのようによろこんだが、しかし、必ずしも有卦に入ったのではないことは、それから間もなくわかった。  それはさておき、十二時少しまえになって、村松家から女中が懐中電灯をもって迎えにきた。  沖の小島の旦那様は、お酒に酔うてひとあしさきに|艀《はしけ》にいらっしゃいましたから、みなさまもこれからおいでくださいますようにという口上だった。  その女中の案内で船着き場まできた銀造は、そこに碇泊しているランチを見て、思わず大きく眼を見張った。  あとで聞くと、それが志賀泰三の自家用ランチだそうだが、まるで竜顔げ[#「げ」に傍点]き首のうえに、お|神輿《みこし》をくっつけたような恰好をしている。なるほど竜宮城のあるじの船としてはこうあるべきなのだろう。金田一耕助はちょっと|頬《ほほ》|笑《え》ましかった。  志賀泰三はそのランチのそばに、ぐでんぐでんに酔払った恰好で立っていた。足下もおぼつかない模様なのを、二十七、八の青年が肩でささえて、 「おじさん、危いですよ、危いですよ」  と、ハラハラするように注意をしている。 「志賀さん、どうしたんだね。ひどくまた酔っ払ったもんじゃないか」 「ああ、こ、これは久保さん、き、金田一先生も……し、失礼。だけどな、だけどな。ここ、これが酔わずにいられよか。あっはっは」  乾いたような笑い声をあげる志賀泰三の眼には、涙のようなものが光っている。 「どうかしたんですか。お通夜の席でなにかあったんですか」 「はあ、あの、……おやじがつい、よけいなことをおじさんのお耳にいれたもんだから。……失礼しました。ぼく村松の長男で|徹《とおる》というもんです」  ズボンに|開《かい》|襟《きん》シャツ一枚の徹は、陽にやけたたくましい体をしている。なんとなくうさん臭そうな顔色で、銀造と耕助の顔を見くらべていた。 「おじさん、お客さんがいらしたんだから、さあ、乗りましょう。ランチはぼくが運転します。|滋《しげる》のことは許してください。あいつも、もう仏になったんですから」 「うう、うう、許すも許さんも……だけど、おれはなんだか変な気になった」  志賀泰三はバリバリと髪の毛をかきむしる。金田一耕助と久保銀造は、思わず顔を見合わせた。 「おじさん、おじさん」  徹は泣き出しそうな声である。 「志賀さん、しっかりしたまえ。徹君が心配してるからとにかく船に乗ろう。われわれもいっしょに乗るから。さあ……」 「ああ、久保さん、すまん、すまん、こんな狂態をお眼にかけて……き、金田一先生、す、すみません」  徹に抱かれるようにして、志賀泰三はランチに乗り込む。久保銀造と金田一耕助もそのあとにつづいた。  ランチのなかにはビロードを張りつめた長い腰掛けがある。志賀はゴロリとその腰掛けによこたわると、駄々っ児のように両脚をバタバタさせながら、なにやらわけのわからぬことをくどくどいっていたが、急にしくしく泣き出した。 「どうしたんですか、徹君、なんだかひどく動揺しているようだが……」 「はあ、すみません、おやじがあんなことを打ち明けなければよかったんです。いま、すぐ船を出します」  徹が運転台へうつると、すぐランチが出発する。  嵐はだんだん強くなってくるらしく、雨はまだ落ちてこなかったが、風が強く、波のうねりが大きかった。空も海も墨をながしたように真暗で、そのなかにただひとつ、明るくかがやいている沖の小島の標識灯をめざしてランチは突進していくのである。  志賀泰三のすすり泣きは、まだきれぎれにつづいている。それを聞いているうちに、金田一耕助はふっと、物の|怪《け》におそわれたようなうすら寒さをおぼえた。  志賀泰三は腰掛けのうえで、しくしく泣きながらてんてん反側していたが、急にむっくり起きなおると、 「ああ、そうそう、久保さん」  と、涙をぬぐいながら声をかけた。 「はあ……」 「さっきいい忘れたが、樋上四郎がいまうちにいるんです。樋上四郎……おぼえてるでしょう」  それだけいうと、志賀泰三はまたゴロリと横になって、もう泣かなくなったけれど、それっきり口をきかなくなった。  金田一耕助と久保銀造は、思わずギョッと顔を見合わせる。  樋上四郎というのは、その昔、志賀の細君だったイヴォンヌを殺した男ではないか。  金田一耕助はふっと怪しい胸騒ぎをおぼえて、仰向けに寝ころんでいる志賀のほうへ眼をやった。久保銀造も同じ思いとみえて、食いいるように志賀の顔をにらんでいる。じっと眼をつむっている志賀の顔は|物《もの》|凄《すご》いほど|蒼《あお》|白《じろ》く|冴《さ》えて、なにかしら、悲痛な影がやどっている。  金田一耕助と久保銀造は、また、ふっと顔を見合わせた。      四  ランチが沖の小島へついたころには、嵐はいよいよ本式になってきた。  水門からボート・ハウスのなかへ入っていくと、白|小《こ》|袖《そで》に水色の|袴《はかま》をはいた少年が迎えに出た。 「徹、今夜はここへ泊まっておいで。夜が明けてから陸づたいにかえるがいい。それでも葬式に間にあうだろう」  志賀もいくらか落ち着いていた。 「はあ、そうさせていただきます。すみません」  徹はランチをつなぎとめながら、ペコリと頭をさげた。  徹をそこへのこして一同がボート・ハウスを出ると、暗い嵐の空に、累々層々たる屋根の|勾《こう》|配《ばい》が重なりあって、強い風のなかに|風《ふう》|鐸《たく》が鳴っている。昼間、この島を遠望すると、おそらく|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》のように見えるだろう。  大きな朱塗りの門を通り、|春日《かすが》燈籠のならんだ|御《み》|影《かげ》石の道をいくと玄関があり、老女がひとり出迎えた。 「ああ、お|秋《あき》さん、静のようすはどうだね」 「はあ、なんですか。今夜はとくべつに気分が悪いとおっしゃって、宵から寝所へお入りになりました。旦那さまがおかえりになりましたら、恐れいりますが、菊の間でおやすみくださいますようにとのことでした」 「ああ、そう、ちょっと見舞いにいっちゃいけないかしら」  志賀の声はひどく元気がない。 「おじさん、今夜はおよしになったほうがいいでしょう。気分がおさまってから……」  あとから来た徹が注意する。 「ふむ」  おとなしくうなずいたものの、徹を見る志賀の眼には、なにかしら不快なものがうかんでいる。しかし、すぐその色をもみ消すと、 「いや、失礼しました。それではこちらへ……」  案内されたのは菊の間だろう。欄間の彫りも|襖《ふすま》の模様も、ぜんぶ菊ずくめの豪華な十二畳で、客にそなえて|座《ざ》|蒲《ぶ》|団《とん》などもよくくばられていた。 「あの、召し上がりもののお支度をいたしましょうか」 「あ、いや、もうおそいからそれには及びません。志賀さん、あんたもおやすみなさい。なんだか気分が悪そうだから」 「はあ、どうも。……醜態をお眼にかけて……金田一先生もお許しください」  志賀はまだ深く酔いがのこっている眼付きだが、さっきの|狂躁《きょうそう》状態とは反対に、深い憂鬱の谷のなかに落ちこんでいるらしかった。  その晩、耕助は久保銀造と|枕《まくら》をならべて寝たが、なかなか眠りつけなかった。嵐はますますひどくなるらしく、風鐸の音が耳について離れない。しかし、それよりもっと耕助の眠りをさまたげたのは、さっきの志賀の狂態である。  宵に宿であったときの上機嫌とうって変わったあの狂態は、いったい、何を意味するのか。お通夜の席で親戚の村松が、何かいったということだが、それはどういうことか。  それにもうひとつ、気になるのは、かつて志賀の細君を殺したという男が、いまここにいるということだ。それ自体、不安をそそる事実だが、それよりも、あの狂態の最中に、志賀はなぜまたそのことをいいだしたのか。久保銀造も寝られぬらしく、てんてん反側していたが、しかし、さすがに、失礼な|臆《おく》|測《そく》はひかえて、ふたりとも口を利かず、そのうちに耕助はとろとろとまどろんだ。  その耕助がただならぬ気配に眼ざめたのは、明け方ちかくのことだった。  寝床のうえに起きなおって、聴き耳を立てると、遠くのほうで廊下をいきかう足音が乱れて、それにまじって誰か号泣する声がきこえる。 「おじさん、おじさん」  耕助がゆすぶると、隣に寝ていた銀造もすぐ眼をさました。 「耕さん、何かあったかな」  ただならぬ耕助の顔色に、銀造もギョッと起きなおった。 「おじさん、何かあったらしいですよ。ほら、あの声……」  銀造もちょっと耳をすまして、 「志賀の声じゃないか。いってみよう!」  寝間着のまま声のするほうへいってみると、一間のまえにお秋という老女と女中が三人、それに六十前後の白髪のおやじがひとりまじって、ものにおびえたように座敷のなかをのぞいている。  それを掻きわけて金田一耕助がのぞいてみると、つぎの間のむこうに寝室があるらしく、立てまわした|屏風《びょうぶ》のはしから絹夜具がのぞいている。その夜具のうえに白い寝間着を着た男の脚と、赤い腰巻きひとつの女の脚が寝そべっていて、 「静……静……おまえはなぜ死んだ。おれをのこしてなぜ死んだ。静……静……」  号泣する志賀の声が屏風のむこうから聞こえてくる。金田一耕助は久保銀造をふりかえって、ギョッと呼吸をのんだ。 「おれじゃない。おれじゃない。おれは何もしなかった」  そばに立っているずんぐりとした白髪のおやじが、何かつかれたような眼の色をしてつぶやいている。金田一耕助がまた銀造のほうをふりかえると、銀造がかすかにうなずきかえした。これがその昔、志賀の愛妻を殺したという樋上四郎なのだろう。 「おじさん、とにかくなかへ入ってみましょう」  屏風のなかをのぞいてみると、志賀はしっかりと愛妻の体を抱きしめ、|頬《ほお》ずりし、肌と肌とをくっつけて、静よ、なぜ死んだと掻きくどいているのである。  その静子は腰巻きひとつの裸体で、長い髪が肩からふくよかな乳房のうえにからまっている。志賀が夢中でその体をゆすったとき、黒髪がばさりと寝床のうえに落ちたが、そのとたん、金田一耕助と久保銀造ははっきり見たのだ。  静子ののどには大きな|拇《おや》|指《ゆび》のあとがふたつ、なまなましくついている。……  だが、それにしても、静子の枕もとにころがっているものはなんだろう。いびつな球状をしたガラスのたまで、中央に黒い円形の点がある。金田一耕助はそれをのぞいてみて、ギョッと呼吸をのみこんだ。  それは義眼であった。ガラスでつくった入れ眼である。その入れ眼が瞳をすえて、静子の死体と、志賀泰三の狂態を視すえているかのように。……  金田一耕助はゾクリと肩をふるわせた。      五 「おやじがあんなことを云わなければよかったんです。いかに弟の遺言だからって、おじさんの気性をよく知ってるんだから、いうべきじゃなかったんです。ただ、しかし、おやじもまさか、こんなことになろうとは思わなかったろうし、それにおじさんに謝りたいという気持ちもわかるんですが……」  おそく起きてこの変事をしった徹は、|愕《がく》|然《ぜん》たる顔色で、おじさんに悪かった、静子さんに気の毒だと、しきりに繰りかえしていたが、そこを金田一耕助と久保銀造に問いつめられて、やっとしぶしぶ口をひらいた。 「これはわれわれにとっても、思いもよらぬことだったんですが、病いが改まっていよいよもういけないと覚悟をきめたとき、滋がこんなことを告白したんです。静子さんと弟は、静子さんの結婚まえ、つまりうちでまだ看護婦をしていた時分、恋愛関係があったというんです。だから、静子さんは結婚したとき、処女ではなかったし、しかもその交渉は静子の結婚後も、ひそかにつづけられていたというんです」  金田一耕助と久保銀造は顔見合わせてうなずきあった。昨夜以来の志賀の言動から、ふたりはだいたいそのようなこともあろうかと想像していたのである。 「そして、そのことを昨夜、お通夜の席で村松さんがおっしゃったのかな」  銀造の口調はきびしかった。徹は身もちぢむような恰好で、愁然と頭をたれながら、 「はい。それが滋の遺言でしたから。……滋はおじさんにすまなかった。悪いことをしたといいつづけ、じぶんが死んだらおじさんにこのことをうちあけて、よく謝ってくれといいつづけて死んだものですから……」 「いくら故人の遺言だからって、静子さんの立ち場もかんがえないで……」  銀造の顔にはげしい憤りがもえている。言葉も強く、するどかった。 「はあ、あの、まったくそうなんです。しかし、父としては媒酌人としての責任もありますし、一応、耳に入れるだけは入れておこうと……まさか、こんなことになるとは思わなかったでしょうから……」 「なんぼ媒酌人としての責任があるからって、そ、そんな非常識な……」 「おじさん、まあまあ、しゃべってしまったものは仕方ありませんよ。ところで、徹さん」 「はあ」 「あなたはまさかこんなことになるとは思わなかったから、お父さんが秘密をうちあけたとおっしゃるが、そうすると、お父さんが秘密をうちあけたから、こんなことになった。……ということは、志賀さんが静子さんを殺したんだとおっしゃるんですか」  徹はギョッとしたように顔をあげ、金田一耕助の顔を見直すと、やがて声をひそめて、 「じゃおじさんじゃないんですか。たれかほかに……」 「いいえ、それはまだわかりません。こういうことはよく調査したうえでないと、軽々には判断はくだせないものです」 「失礼しました。ぼ、ぼく……昨夜の今朝のことですし、おじさんが非常な激情家だってことしってますし、それに……それに、昔、アメリカで、おじさん、やっぱり同じようなことやったって話聞いてますから……」 「しかし、あれは志賀がやったことじゃなかったんだよ。犯人はほかにあったんだ!」  銀造は怒りをおさえかねて怒鳴りつける。徹はしどろもどろの顔色ながら、しかし、どこかしぶとい色をうかべて、 「はあ、あの、それは……おじさんもそう云ってました。しかし、何分にも遠い昔の、しかもアメリカでの出来事ですから……」 「そ、それじゃ、君は……」 「おじさん、まあまあ、いいですよ。それより徹さん、もうひとつお訊ねしたいことがあるんですが……」 「はあ」 「滋君と静子さんの交渉は結婚後もつづけられていたとおっしゃるが、いつごろまでつづいていたんですか」 「はあ、あの、それなんです。それがあるから、父は面目ないというんです。ふたりの関係は滋が|大《だい》|喀《かっ》|血《けつ》をして倒れるまで、すなわち、三月ほどまえまでつづいていたというんです。だから、ひょっとすると、静子さんの腹の子は……」  徹もさすがにそれ以上はいいかねたが、それを聞くと耕助と銀造は、ギョッとしたように顔見合わせた。銀造は怒りに声をふるわせて、 「そ、そ、そんなことまでいったのか!」 「はあ、あの、それが一番だいじなことですから。……云いだしたからにはそこまでいわなければ……しかし、しかし、やっぱり父が悪かったんです。全然、云わなければよかったんです」  銀造が何かきびしい口調で怒鳴りつけようとするところへ、老女のお秋が入ってきた。 「久保の旦那様、ちょっと旦那様のところへ来ていただけないでしょうか。わたしどもではちょっと……」 「ああ、おじさん、いってあげてください。そのかわりお秋さん、あなたここにいてください。ちょっとお訊ねしたいことがありますから」 「はあ」 「耕さん、じゃわしはいってくる」  銀造は憎々しげな|一《いち》|瞥《べつ》を徹にのこして、そそくさと部屋から出ていった。徹はもじもじしながら、 「ぼくもそろそろかえりたいんですが……きょうは弟の葬式ですから」 「葬式は何時ですか」 「三時出棺ということになってるんですが、いろいろ仕度がありますから」  徹は心配そうに外を見ている。昨夜から見ると風はいくらかおさまったけれど、そのかわり大土砂降りになっていた。 「ああ、そう、それじゃおかえりにならなきゃなりませんが、そのまえにお訊ねがもうひとつ」 「はあ、どういうことですか」 「このへんに、どなたか入れ眼をしているひとがありますか」 「入れ眼?」 「お心当たりがありますか」 「入れ眼が、ど、どうかしたんですか」 「いや、お心当りがありますかって……」 「入れ眼なら滋さんがそうでしたね。右の眼がたしか入れ眼だとか……」  お秋の言葉に金田一耕助は、思わず大きく眼を見張った。それから、口をすぼめて口笛でも吹きそうな恰好をしたが、それをやめて、徹のほうにかるく頭をさげると、 「いや、お引きとめして失礼しました。それではどうぞお引き取りになって……」  徹はもじもじと、何かさぐり出そうとするかのように、耕助の顔を見ていたが、やがて|諦《あきら》めたように肩をゆすると、 「お秋さん、自転車をかしてほしいんだが……」 「はあ、ところが、いまみると、その自転車がこわれてるんですよ。傘を出させますから……」  お秋は女中を呼んで傘を出すように命じた。徹は外の雨を気にしながら、しぶしぶ出ていった。  そのうしろ姿を見送って、耕助はお秋のほうにむきなおった。 「ねえ、お秋さん。こういうことになったら、何もかも腹蔵なくおっしゃっていただかねばなりません。多少、失礼なことをお訊ねするかもしれませんが……」 「はあ、あの、どういうことでしょうか」  お秋は心配そうに体をかたくしている。 「露骨なことをお訊ねするようだが、奥さんはいつもああして……つまり、その、腰巻きひとつでおやすみになるんですか」 「とんでもない」  お秋は言下に打ち消して、 「奥さまはそんなかたではございません。あのかたはとてもたしなみのよいかたでしたから、裸で寝るなんて、そんな……」 「それじゃ、誰かが裸にしたと思わなければなりませんが、あの部屋には寝間着が見えなかったんですがね」 「はあ、あの、それは|敷《しき》|蒲《ぶ》|団《とん》の下に敷いてあるのじゃございませんか。奥さまは万事きちんとしたかたで、お召し物などもいつも折り目のついたのをお好みになりますので、お寝間着などお寝間をしくとき、ちゃんとたたんで、その下に敷いておきますんで……」 「ああ、なるほど、道理で……」  しかし、これはどういうことになるのか。静子は寝間着に着更えようとして、着物をぬいだところを絞め殺されたのだろうか。しかし、女が着物をぬぎかえるときには、誰でも本能的に用心ぶかくなるものだ。  着物をぬぎすててしまってから、敷蒲団の下にしいてある、寝間着を取り出しにかかるとは思えない。一応、寝間着を出しておいてから、着物をぬぐべきではないか。しかも、着物はきちんとたたんで|衣《い》|桁《こう》にかかっていたのだ。 「ところで、昨夜お召しになっていた着物は、衣桁にかかっている、あれにちがいないでしょうな」 「はあ、あれにちがいございません」 「奥さまは昨夜、何時ごろに寝所へおひきとりになりましたか」 「七時すぎでしたでしょうか。今夜は気分が悪いからとおっしゃって……」 「旦那さまがおかえりになったら、菊の間でおやすみになるようにとおっしゃったのはそのときで……?」 「はあ、さようでございます。わたしどもに用事があったらベルを鳴らすから、それまではさまたげないようにとおっしゃって……」 「それから今朝まで、奥さんにおあいにならなかったんですね」 「はあ、でも、十二時ちょっとまえでした。呼び鈴がみじかく鳴りましたので、お部屋のまえまでおうかがいして、声をおかけしたんですけれど、御返事がなくて、寝返りをおうちになるような気配がしました。それで、間違ってベルを押されたのだろうと、ひきさがって参りましたので。……ベルの鳴りかたが、ほんとにみじかかったものですから……」 「呼び鈴はどこに?」 「コードになって、枕許においてございます。寝ながらでも押せるように……」  金田一耕助はしばらくためらったのちに、 「ところで、旦那様と奥さんのお仲ですがね。ふだんどういうふうでした」 「それはもう、あれほど仲のよいご夫妻ってちょっと珍しいんじゃないでしょうか。旦那様はもう奥様のことといえば夢中ですし、奥様もとても旦那様をだいじになすって……」  それは誰でも奉公人のいう言葉である。 「どうでしょうね。奥さんには旦那さまのほかに愛人があったというようなことは……そして、結婚後もひそかに関係がつづいていたというようなことは……」  お秋はびっくりしたように、耕助の顔を見ていたが、急に|瞼《まぶた》を怒りにそめると、 「金田一先生、あなたのことはさきほど久保さんからおうかがいいたしました。あなたのような職業のかたは、とかくそういうふうにお疑いになるのかもしれませんが、なんぼなんでも、それではあたし心外ですよ。それはまあ、結婚以前のことはあたし存じません。しかし、こちらへお嫁にこられてから、そんな馬鹿なこと。……これだけ大勢奉公人がいるのですから。そういうことがあればすぐしれますし、第一、そんなかたじゃございません。しかし……」  と、お秋は急に不安そうな眼の色を見せて、 「誰かそんなことをいうひとがあるんですか」 「いや、まあ、それはちょっと……」  と、耕助は言葉をにごして、 「ときに志賀さんのご親戚といえば、村松さんしかないそうですが、あそこのかた、ちょくちょく……?」 「はあ、それはよくいらっしゃいます。奥様の娘時分、あそこのおうちにいられたんですから、|田《た》|鶴《ず》|子《こ》さんなど、しょっちゅういらっしゃいます」 「田鶴子さんというのは」 「さっきここにいらした徹さんの妹さん、お亡くなりになった滋さんの下で、ことし二十におなりとか……奥さまとはご姉妹のようになすって……」 「なるほど、それからほかには……」 「ちかごろは先生が一週に一度はいらっしゃいます。奥さまが御妊娠なすってから、旦那さまがとても御心配なさいますので……一昨日もいらっしゃいました」 「一昨日というと、滋君というひとが……」 「はあ、ですから、先生は滋さんの死に目におあいになれなかったそうで。……それですから、奥さまが悪い、悪いと気になすって……」  金田一耕助が何かほかに聞くことはないかと、思案しているところへ、対岸の町から係官がどやどやと駆けつけてきた。      六  志賀泰三はそのときまで、静子の死体を抱いてはなさなかった。肌と肌とをくっつけて、そうすることによって、静子の魂を呼びもどすことが出来るかのように、 「静、なぜ死んだ。おれを残してどうしておまえは死んだんだ」  と、愛妻の名を呼び、かきくどいてやまなかった。だから、係官がやってきたときも、静子の|亡《なき》|骸《がら》から泣きわめく志賀をなだめて、引きはなすのに難渋しなければならなかった。 「イヴォンヌのときがやっぱりあれだったんだ。愛情のこまやかなのもほどほどで、少し度がすぎるもんだから他の誤解を招くんだ」  と、久保銀造が慨嘆したが、じっさい、係官の心証はあまりよくなかったようだ。  さて、こういう場合、何よりも必要なのは医者の検視なのだが、困ったことには嘱託医の村松氏は葬式でとりこんでいるうえに、近親者のことだから遠慮したいという申し入れがあったので、はるばる県の警察本部から、医者がくるのを待たねばならなかった。  金田一耕助は係官の現場検証がおわったあとで、敷蒲団のしたを見せてもらったが、そこにははたして|袖《そで》だたみにした寝間着がしいてあったので、そのことについて係官の注意を喚起しておいた。  正午過ぎ、志賀泰三が睡眠剤をのんでよく寝こんだところを見計らって、 「お秋さん、ぼく、ちょっと対岸の町へいってみたいんですが、自転車があったら貸してくれませんか」 「それがあいにくなことには。……どうしたのか今朝見ると、泥まみれになってこわれておりますの。まことに申し訳ございませんけれど……」 「ああ、そう、歩いていくとどれくらい?」 「歩いてはたいへんです。うかうかすると一時間はかかります。あの、なんでしたらランチを仕立てましょうか」 「ああ、そうしていただけたら有難いですね。それじゃ、おじさん、あなたもいっしょにいきましょうよ」 「ああ、そう、じゃいこう」  金田一耕助のやりくちをしっている銀造は、多くをいわずについてきた。  午前中降りしきっていた雨は小降りになって、霧のように細かい水滴が、いちめんに海のうちに垂れこめて、対岸の町も|模《も》|糊《こ》としてかすんでいる。  ボート・ハウスヘ入っていくと、ランチの運転台にはゆうべ迎えに出た少年がすわっていた。むろんきょうは白小袖ではなく、金ボタンの小ざっぱりとした|詰《つ》め|襟《えり》である。 「やあ、君が運転してくれるの。ご苦労さん」 「いいえ」  少年はちょっと|頬《ほお》を|赧《あか》くする。ふたりが乗りこむとランチは水門をくぐってすぐ海へすべりだした。 「君、君、運転手君、君の名はなんというの」 「はあ、ぼく|佐《さ》|川《がわ》|春《はる》|雄《お》ともうします」 「佐川春雄か、いい名だね。ところで春雄君、君、いつもこのランチを運転するの」 「はあ」 「それじゃあ、昨夜はどうして運転してこなかったの」 「昨夜は徹さんがお迎えにいらっしゃいましたから」 「徹君が迎えにきたって? なんできたの? いや、なんのためにという意味じゃあなく、なにに乗ってやってきたの」 「自転車であっちの道……」  と、桟道を指さして、 「からいらっしゃったんです。何かご用事もおありだったんでしょう。あのかたもランチの運転がおできになりますから。旦那様をのっけてごじぶんで運転していらっしゃったんです」 「ああ、そう、それじゃ徹君、はじめっからお通夜がすんだら、またじぶんで送ってくるつもりだったんだね」 「はあ、そうおっしゃってました」 「それで、徹君の乗ってきた自転車はどうしたの」 「ランチに乗っけていらっしゃいました」 「しかし、それじゃ困るじゃないか。ご主人を島まで送ってきて、こんどかえるときはどうするつもりだったんだろう」 「いえ、それは、ゆうべひと晩泊まって、けさまた旦那といっしょに、ランチで町へおかえりになるつもりだったんじゃないでしょうか。どうせきょうはお葬式ですから、旦那もお出かけになるはずでしたから。あんなことさえなかったら……」 「ああ、そうか。そのとき君に運転してもらえばいいわけだね」 「はあ」 「おじさん、おじさん、この問題、狼と小羊をおなじ岸へおかないようにして、舟で川をわたらせるあの考えものに似てるじゃありませんか。あっはっは」  対岸の町へついて村松家をきくとすぐわかった。そこはランチのつく桟橋からものの百メートルとははなれておらず、裏の石崖の下はすぐ海である。いかにも田舎の医者らしい門構えをなかへ入っていくと、弔問客が三々五々とむらがっており、玄関わきの受付には喪章をつけた男がすわっている。  ふたりがそのほうへ歩いていくと、弔問客のなかから、 「あらまあ、お嬢さん、どうおしんさりましたの。そのお手……?」  と、仰山そうにたずねる女の声がきこえた。 「おっほっほ、いややわあ。会うひとごとに訊かれるんやもン。ゆうべ階段からすべり落ちてはっと手をついたとたん|挫《くじ》いたンよ。大したことないんやけどお母さんにうんと|叱《しか》られたわ。お転婆やからって。あら、あの、どなた様でいらっしゃいましょうか」  と、金田一耕助と久保銀造のほうへむきなおったのは、黒っぽいスーツを着たわかい娘で、左手を|繃《ほう》|帯《たい》でまいて首からつっている。これが田鶴子という娘だろう。色の白い、大柄の、ぱっと眼につく器量だが、いかにも高慢ちきで、それでいて品がない。 「はあ、あの、ぼくたち、沖の小島の志賀さんとこに厄介になってるもんですが、ちょっとお父さんやお母さんのお耳に入れておきたいことがございまして……」 「ああ、そう」  と、田鶴子はうさんくさそうに、ふたりの風態をじろじろ見ていたが、 「あの、あっちゃのお姉さん……」  と、いいかけて気がついたように、あたりを見まわすと、 「少々お待ちください。いま、お父さんにいってきますから」  田鶴子はいったんなかへ入っていったが、すぐ出てきて、 「どうぞ」  と、案内されたのはむさくるしい四畳半。いかにお葬式でとりこんでいるとしても、ここは客を通すような部屋ではなく、どうやらふたりは村松家にとって、あまり好ましい客ではないらしい。  金田一耕助と久保銀造は、顔見合わせてにがわらいをした。      七 「いや、お待たせしたね。何しろこのとおりとりこんでいるもんだから」  およそ十五分ほど待たせて、やっと顔を見せたのは村松医師とその細君らしい五十前後の中婆あさん、徹と田鶴子もうしろからついてきた。田鶴子をのぞいた三人は紋服姿で、みんなじろじろうさんくさそうに金田一耕助の風采を見ている。 「あんたが金田一さんかね。じつはさっき徹から話をきいて、こちらからいこうかと思っていたところだったんだ。あんた、けさ徹に義眼のことを訊いたそうだが、それはどういう……?」  村松医師は志賀泰三のまたいとこだということだが、なるほど、そういえばちょっと似ている。眼の大きな、鼻のたかい、わかいときは相当の好男子だったろうと思われるが、泰三とちがうところは、ひどく尊大にかまえていて高飛車である。  しかし、これは田舎の医者として、あとから身についた体臭ででもあろうか。 「はあ、あの、ちょっと……」  と、金田一耕助はわざと思わせぶりな|口《くち》|吻《ぶり》で、 「こちら、義眼について何かお間違いでも……?」 「いや、さっきお秋さんが云うたそうだが、亡くなった滋というのが義眼をはめてたんだ、ところでさっきあんたから義眼の話が出たと、徹がかえっていうもんだから、ふしぎに思ってお|棺《かん》の|蓋《ふた》をとってみたところが、はたして滋の義眼がくりぬかれているんだ。君、それについて何か心当たりのことでも……」  村松医師も、細君も、徹も、田鶴子も疑わしそうな眼で耕助の顔を見まもっている。 「なるほど、それでいつくりぬかれたか、お心当たりはございませんか」 「そうだねえ。滋の|亡《なき》|骸《がら》を納棺したのはきのうの夕刻のことだったが、そのときにはむろん義眼もちゃんとはまっていたよ。だからくりぬかれたとすると、それからあとのことになるが……」 「すると、お通夜のあいだということになりますか」 「たぶんそういうことになるだろう。納棺したとはいうものの、蓋に|釘《くぎ》がうってあったわけじゃあないからね」 「あなた、あなた」  と、そばから細君がじれったそうに、 「そんなこといってないで、このひとがなぜ義眼のことなんかいいだしたのか、それを聞いてごらんになったら……」 「いや、奥さん、失礼しました。それじゃ、ぼくから申し上げましょう。じつは……そうそう、沖の小島の奥さんが絞め殺されたってことは、徹君からもお聞きになったでしょう」 「はあ、それはさっき聞いた。みんなびっくりしてるところで……さっそく駆けつけなきゃあいけないんだが、こっちもこのとおりのとりこみで……」 「いや、ごもっともです」 「で、義眼のことだが……?」 「はあ、それが、……絞め殺された奥さんの|枕《まくら》もとに、義眼がひとつころがっていたんです。まるで死体を見まもるようにね」  そのときの一同のおどろきかたはたしかに印象的だった。さすがに尊大ぶった村松医師も、さっと顔が土色になり、田鶴子のごときは、 「あら、いやだ!」  と、さけんで畳につっぷしたくらいである。 「田鶴子、なんです。お行儀の悪い。あなたは向こうへいってらっしゃい」  村松夫人がするどい声でたしなめる。これまた良人におとらぬ見識ぶった女だが、田鶴子はしかし頭を横にふったまま動こうとはしなかった。 「しかし、それは、ど、どういうんだろう」 「さあ、どういうんでしょうかねえ。ひょっとすると滋君の魂が、愛するひとの最期を見とどけにいったんじゃあないでしょうかねえ」 「馬鹿なことをおっしゃい」  夫人がぴしりと極めつけるように、 「それは泰三さんがくりぬいていったにきまってますよ。滋がよっぽど憎らしかったんでしょう。だから、義眼をつきつけて静さんを責めたあげく、|嫉《しっ》|妬《と》にくるって絞め殺したんですよ。いかにもあのひとのやりそうなことだよ」 「|安《やす》|子《こ》、おだまり」  村松医師は夫人を叱りつけておいて、 「これのいうことを気にしないで。少し気が立ってるもんだからね。ところで何か心当たりが……そうそう、徹もてっきり泰三君がやったことだと思いこみ、けさがた失礼なことを云ったそうだが、まあ、若いもんのことだから勘弁してやってくれたまえ。……強盗でも入ったような気配は……?」 「さあ、いまのところまだはっきりとは……何しろいつごろ殺されたのか、それすらまだよくわからない状態ですから……」 「いや、それはすまないと思ってる。おれがいければいいんだが、何しろこの状態で……本部のほうから誰か来たかね」 「いや、われわれが島を出るころには、まだ見えておりませんでした。検視の時刻がおくれると、それだけ正確な死亡時刻をつきとめにくくなるので、それを心配してるんですが……」 「いや、ごもっともで」 「でも、主人としてはいまのところ、出向けないってことくらい、あんたでもわかるでしょう」  安子夫人の高飛車な調子である。 「いや、もう、それはごむりもございません」  それから昨夜のお通夜の話になったが、いくら故人の遺言とはいえ、あんなことを打ち明けなければよかった。その点についてはふかく反省していると、村松医師は恐縮がったが、夫人はそれにたいして不服らしく、 「でもねえ、あんたがたはどういうお考えかしりませんが、あたしどものような律義な性分のものとしては、そういうことをしっていて、だまって頬冠りで通すなんてことはできませんよ。どうしてもいちど打ち明けてあやまらなければ気がすみませんからね」 「それはそうでしょうねえ。奥さんのようなかたとしては……」 「それにしても、あたし泰三さんというひとを見そこないました。あのひとアメリカでさんざん好きなことしてきてるんでしょう。それならば静子さんが処女であろうがなかろうが、そんなこととやかくいえた義理じゃないじゃありませんか」 「しかし、奥さん」  と、久保銀造はむっとしたように、 「なんぼなんでもじぶんの妻のお腹にいる子が、他人のタネかもしれないなどといわれて、激昂しない男はまあおそらくおらんでしょうねえ」 「ほっほっほ、それでお腹の子ぐるみ、殺してしまったとおっしゃるのね」  銀造は色をなしてなにかいいかけたが、金田一耕助に眼くばせされて、唇をきっとへの字なりに結んでだまってしまった。どうせ口ではこの女にかなわない。  それでもふたりはせっかく来たのだからと、仏に線香をあげ、三時の出棺を見送って村松家を出た。村松医師もこちらが片付いたら、できるだけはやく駆けつけるといっていた。      八 「耕さん、何か収穫があったかね」  ランチに乗ったときの銀造の顔色はいかにも不愉快そうである。 「いやあ、べつに……ただ、なんとなくあのひとたちに会ってみたかったんです。しかし、おじさん、なかなか興味ある一家じゃあありませんか。四人が四人ともね」 「どうもわしにはあの細君が気にくわん。あの女、ひと筋縄でいくやつじゃないぜ」 「あっはっは、おじさん、みごとお面いっぽんとられましたね」  口では笑っているものの、金田一耕助はなにかしらもの思わしげな眼で、ぼんやりと窓外を見ていたが、何気なくその視線を腰掛のうえに落としたとき、急に大きく眼をみはった。腰掛けと板壁とのあいだのすきに、何やらきらきら光るものがはさまっている。 「おじさん、おじさん、ナイフかなにかお持ちじゃありませんか」 「耕さん、何かあったかね」  銀造にかりたナイフで、その光るものを掘りだしてみると、なんとそれはダイヤをちりばめた豪華な腕輪ではないか。しかも中央についているロケットのようなものを開いてみると、安産のお守りが入っている。 「あっ、こ、耕さん、こりゃあひょっとすると静さんの……」 「そ、そ、そうでしょうねえ、きっと。……君、君、春雄君」 「はあ、お客様、なんですか」 「この腕輪、ひょっとしたら奥さんのもんじゃあない」  運転台でハンドルを握っていた佐川少年は、腕輪を見るとおどろいて、 「さあ、ぼく、こんな腕輪見たことありませんが、ここいらでこんなもん持ってるのは、うちの奥さんよりほかにいないでしょう。お客さん、これ、ランチのなかに落ちていたんですか」 「ああ、いまここで見つけたんだが、奥さんがいちばんさいごにランチに乗られたのはいつのこと……」 「もうずいぶんまえのことです。お腹が大きくなられてから、乗り物に乗るのをできるだけひかえていらっしゃるんです。はっきりおぼえておりませんが、もうひと月もまえのことではないでしょうか」  金田一耕助は思わず銀造老人と顔見合わせた。 「それで、奥さん、腕輪をなくしたというようなこと、おっしゃってはいなかった?」 「いいえ。……変ですねえ、ひと月もまえからランチのなかに落ちていたとしたら、たとえどこにあったとしても、ぼく、気がつかねばならんはずですが。……毎日ランチのなかを掃除するんですから。……お客さん、どこに落ちていたんですか」 「この腰掛けと板壁のあいだの、すきまにはさまっていたんだが……」 「それならばなおのこと。……その腰掛けは蓋のように開くんですよ。ぼくは毎日、それをひらいてそのなかも掃除するんです」 「ああ、そう、おじさん、ちょ、ちょっと立ってみてください」  金田一耕助の眼があやしくぎらぎら光るのを見ると、銀造は思わず|唾《つば》をのみ、あわてて腰掛けから立ちあがった。  耕助が腰掛けの上部に手をかけてひきあげると、なるほど蓋のように開いて、なかは箱になっている。しかも、その箱のなかはごくさいきん誰かが洗ったらしく、まだ少しぬれている。 「君、君、春雄君、きょうこの箱のなかを洗ったの君かい?」 「いいえ。けさはランチのなか、きれいに掃除ができていたので、ぼくはなんにもしなかったんです」 「掃除ができてたって、誰がしたの。君のほかに誰かランチの掃除係りがいるの」 「いいえ。ランチの係りはぼくだけなんです。だから、きっと徹さんだろうと思ってお礼をいったら、旦那がゆうべへどをお吐きになったから、掃除をしておいたといってました」  金田一耕助と久保銀造はまた顔を見合わせる。志賀泰三はずいぶん泥酔していたけれど、そんな粗相はしなかったはずである。  金田一耕助は五本の指をもじゃもじゃ頭につっこんで、眼じろぎもせずに箱のなかを視つめていたが、やがてもじゃもじゃ頭をかきまわす、指の運動がだんだん忙がしくなってくるのを見て、 「こ、こ、耕さん」  と、銀造老人も興奮してどもる。 「こ、こ、この箱がどうかしたのかな」 「おじさん、おじさん」  と、耕助は老人の耳に口をよせ、 「この箱のなか、人間ひとり押しこもうとすれば、入らないことありませんね」 「な、な、なんだって!」  耕助は蓋をしめようとして、蓋のうらがわから、ながい毛髪をつまみあげた。 「おじさん、あなたが証人ですよ。この髪の毛は蓋のうらにくっついていたんですよ」  耕助はその毛髪をていねいに紙にくるむと、 「おじさん、もうかけてもいいですよ」  と、みずから腰掛けに腰をおろし、しばらく眼をつむって考えていたが、やがてぎくっとしたように、 「君、君、春雄君」  と、運転台の少年に声をかけた。 「はあ、お客さん、なんですか」 「お秋さんに聞いたんだけど、今朝見ると自転車がこわれてたんだってね」 「ええ、そうです、そうです。それですからお客さん、ゆうべ泥棒がはいったんですよ、きっと」 「こわれたって、どんなふうにこわれてたの」 「ペダルがひとつなくなっているうえに、ハンドルがまがってしまって、まえの車輪がうごかなくなってるんです。きのうの夕方までそんなことなかったんですから、ゆうべきた泥棒が、自転車で逃げようとして、どこかで転んだんじゃありませんか」 「自転車はどこにあったの?」 「自転車置き場にあったんです」 「自転車置き場はどこにあるの」 「裏木戸のすぐあちらがわです」 「裏木戸は開いてたの」 「さあ、それは……ぼく、聞きませんでした」  金田一耕助はまた眼をつむって、ふかい思索のなかへ落ちていく。      九  沖の小島へかえってみると、さっき着いたといって、県の警察本部から駆けつけてきた連中が、島のまわりを駆けずりまわっていた。  金田一耕助が玄関から入っていくと、なかからとび出した中老の男が、いきなり耕助に抱きついた。 「金田一さん、金田一さん、あんたがこっちへきてるとは夢にもしらなかったよ。岡山へきて、わしのところへ挨拶にこんという法はないぞな。わしが県でも|古狸《ふるだぬき》だということをしらんのかな。あっはっは」  いかにもうれしそうに笑っているのは|磯《いそ》|川《かわ》警部である。 「本陣殺人事件」以来おなじみのふたりは、「獄門島」や「八つ墓村」のときもいっしょに働いたので、強い友情でむすばれている。 「いやあ、さっそくご挨拶にうかがいたかったんですが、ここにいるご老体がはなしてくれませんのでね」 「あっはっは、耕さんはわたしの|情人《いろ》ですからな。いや、警部さん、しばらく」 「いやあ、しばらく。あんたもお元気で。……しかし、金田一さん、あんたゆうべここへ来られたということだが、もう犯人の当たりはついてるんでしょうな」 「まさかね」 「どうだかな」  磯川警部はわざと小鼻をふくらませて、意地悪そうにジロジロ耕助の顔を見ながら、 「その顔色じゃ、何だかどうも臭いですぞ」 「いやね。警部さん、ぼくは第一、犯行の時刻もしらんのですよ。それに死因なんかもはっきりわからないし……」 「ああ、そう、犯行の時刻は昨夜の十二時前後、……はばを持たせて午後十一時から午前一時ごろまでのあいだというんですがね。それから死因は|扼《やく》|殺《さつ》、……両手でしめたんですな。ところがちょっと妙なことがある」 「妙なことって?」 「|下《しも》から相当出血していて、ズロースは真紅に染まってるんだが、そのわりに腰巻きがよごれていない。それに汚物を吐いた形跡があるというんだが、敷布のよごれかたがこれも少ない。しかし、これは大したことじゃないかもしれんが……」  と、いいながら磯川警部はジロリとふたりの顔を見て、 「あっはっは、金田一さん、あんたはしらをきるのはお上手だが、こちらのご老体は駄目ですな。いまのわたしのいったことに何か重大な意味があるらしいですな」 「あっはっは、おじさん、気をつけてください。この警部さん、みずから古狸と称するだけあって、なかなか油断はなりませんからね」  銀造はしぶい微笑をうかべている。 「冗談はさておいて、警部さん、あなたがたのお考えでは……?」 「われわれのはいたって単純なもんです。昨夜のお通夜の席で、妻の不貞をきいたここの主人が、嫉妬のあまりやったんじゃないか。いや、やったにちがいないということになってるんですがね。犯行の時刻を一時とすると、時間的にもあいますからね。みなさん十二時過ぎにかえってきたそうじゃありませんか」  金田一耕助はちょっとおどろいたように磯川警部の顔を見なおした。 「それじゃ、昨夜のお通夜の話は、もうあなたがたにもれてるんですか」 「そりゃ、お通夜ですもの。ほかにも客がおおぜいいましたからね。土地の警察のもんがそれらの客から聞き出したんです」 「ああ、そう、それじゃほかにも客のいるまえであんな話をしたんですか」  金田一耕助はうれしそうにもじゃもじゃ頭をかきまわしている。銀造はあきれかえったように苦りきっていた。 「それにここの主人、若いときにもアメリカで細君をやったというじゃありませんか」  銀造の顔にはいまにも爆発しそうな|憤《ふん》|懣《まん》の色がうかがわれたが、金田一耕助はいよいようれしそうにもじゃもじゃ頭をかきまわす。 「金田一さん、金田一さん、どうしたんです。あんたがその頭をかきまわすとどうも臭い。何かしってるなら教えてください」 「失礼しました。警部さん、それじゃお秋さんをここへ呼んでください」  お秋はあの腕輪をみると眼をまるくして、言下に静子のものだと断言した。そして、そこに安産のお守りが入っているから、肌身はなさず、寝るときだって身につけていたという。 「それで、お秋さん、あなたがさいごにこの腕輪をごらんになったのはいつでした」 「きのうの夕刻のことでした」  と、これまたお秋は言下に答える。 「ご妊娠なさいましてからは、奥さまのご入浴のさい、いつもあたしがお|背《せな》を流してさしあげることになっているんですが、きのうの夕刻ご入浴なさいましたとき、その腕輪をはずして、脱衣場の鏡のまえにおいてあるのを、あたしはたしかに見ておぼえております」 「金田一さん、その腕輪、どこで見つけたんですか」  磯川警部がちょっと呼吸をはずませた。 「いや、それはあとでもうしあげましょう。ところで、お秋さん、奥さんのことですがね。昨夜奥さんが外出されたというようなことは考えられませんか」  お秋はそれを聞くと、ギョッとしたように耕助の顔を見なおしたが、やがて低い声で、 「そうおっしゃれば、あたし、不思議に思ってることがございますの」 「不思議というと……?」 「じつは、あの、ぶしつけな話でございますが、奥さまがお腰のもののしたにズロースをお召しになってらしたってこと……」 「それがどうして不思議なんですか」 「奥さまは和服のときはぜったいに、ズロースをお召しにならないかたでした。ズロースをはくと着物の線がくずれるし、また、ズロースをはいてるという気のゆるみから、無作法なまねがあってはならぬとおっしゃって……ましてや、おやすみになるというのに」 「ああ、なるほど。しかし、洋装のときにはもちろんおはきになるんですね」 「ええ、それはもちろんですけれど……」 「それで奥さん、ゆうべ洋装で外出されたということは考えられませんか」 「はあ、あの、あたしどもにはよくわかりませんが、しかし、奥さまがだれにも内緒で、日が暮れてから外出なさろうなどとは」 「しかし、金田一さん」  と、そばから磯川警部が口を出した。 「ここの奥さんが外出したにしろしなかったにしろ、そのことはこの事件に大して関係ないんじゃないかな」 「どうしてですか。警部さん」 「たとえ外出したにしろ、十二時にはこちらへかえっていたんですからな。お秋さんがベルの音を聞いたのは十二時ごろでしょう。……それから一時ごろに殺されたとすれば……」 「なるほど、なるほど、しかし、まあ、一応念のためにたしかめておきましょう。お秋さん、奥さんの洋服ダンスを調べてみてくれませんか。ああ、そうそう、それから今朝、自転車置き場のそばにある裏木戸が、なかからしまっていたかどうか、だれかに聞いてたしかめてくれませんか」 「裏木戸なら今朝たしかに、うちがわからしまっておりましたそうです。それから、自転車が泥だらけになってこわれているのが不思議だと……」 「ああ、そう、それではそのほうはかたづきました。では恐れいりますが、むこうへいったら樋上四郎さんに、こちらへくるようにつたえてください」      十  樋上四郎は久保銀造や志賀泰三よりわかいはずなのだが、たてよこいちめんにふかい|皺《しわ》のきざまれたその顔や、いつも背をかがめて真正面からひとの顔を見れないその態度から、じっさいの年齢よりも少なくとも十は老けてみえる。  まるでちりめんのように顔じゅうにきざまれたその皺のひとつひとつに、この男の不幸な人生の影がきざみこまれていて、老いてもなおつやつやと色艶のよい久保銀造などにくらべるとき、わかいころの過ちが、いかに人間の一生を左右することかと|惻《そく》|隠《いん》の情をもよおさせる。  樋上四郎は中腰になって上眼づかいに三人に挨拶すると、無言のまま|膝《ひざ》|小《こ》|僧《ぞう》をそろえて|坐《すわ》ると背をまるくする。すくめた|頸《くび》|筋《すじ》のあたりがみごとな渋紙色にやけていて、短く刈った白髪が銀色に光っている。  金田一耕助はにこにこしながら、 「樋上さん、また同じようなことが起こりましたね。二度あることは三度あるというが」  樋上はちらと上眼使いに耕助の顔を見ると、おびえたように首をすくめて、 「しかし……しかし……こんどはわたしじゃない。わたしはなにもしなかった……」  と|喘《あえ》ぐようにいって|咽喉仏《のどぼとけ》をぐりぐりさせる。 「しかし、樋上さん、あんたはひょっとすると、ゆうべ奥さんの部屋へ入っていったんじゃありませんか」  樋上ははじかれたように顔をあげ、瞳に恐怖の色をたたえて、何かいおうとするように、顎をがくがくさせていたが、すぐぐったりとうなだれた。 「金田一さん、この男がゆうべ奥さんの部屋へ……?」  磯川警部はぎくっとした面持ちである。 「はあ、ぼく、そうじゃないかと思っていたんです。樋上さん、正直にいってください。あなた、奥さんの部屋へいったんですね」 「はあ」  と、短くこたえて樋上四郎は右腕の袖で眼をこする。 「しかし、いったい、なんのために、奥さんの部屋へ入っていかれたんですか」 「はあ、あの、しかし……」  と、樋上は追いつめられた獣のような眼をして、三人の顔をギロギロ見ながら、 「わたしがまいりましたときには、奥さんは、しかし、あの部屋にゃいなかったんです。わたしゃご不浄へでもいかれたんだろうと思うて、半時間あまり待っておりましたんですが、奥さんはとうとうかえってこられなかった。そのうちに、呼鈴にさわったとみえて、お秋さんが用事を聞きにきたりしたんで、わたしもとうとうあきらめてじぶんの部屋へかえりましたんです。あの、これは決していつわりでは……」  磯川警部が色をなしてなにかいおうとするのを、金田一耕助はかるく手でおさえると、おだやかな微笑を樋上にむけて、 「ねえ樋上さん、わたしはあんたが奥さんを殺したといってるんじゃないんですよ。奥さんが外出してたってことはわたしもしってる。わたしのききたいのは、なんのためにあんたが奥さんの部屋へ入っていったかということなんだが……」 「はあ、あの、それは……」  と樋上はまた咽喉仏をぐりぐりさせながら、 「ずっと昔、わたし志賀さんの奥さんを殺したことがあるもんですから……」  磯川警部はまたギョッとしたように樋上の顔を見なおしている。金田一耕肋はそれについて、一応説明の労をとらねばならなかった。 「いや、警部さん、それはいいんです。いいんです。そのことはもうすんでるんです。このひとは自首してでて、むこうで刑期をすましてきてるんですから。……樋上さん、それで……?」 「はあ、あの、そのことを志賀さんは黙っておれ、内緒にしとけとおっしゃるんですが、わたしゃ、それではなんだか心配で、心配で……」 「心配というのは……?」 「はあ、さっきあなたが二度あることは三度あるとおっしゃったように、わたしまた、あの奥さんの咽喉をしめるようなはめになりゃあせんかと。……そんな気がしてならないんです。奥さんに親切にしていただけばいただくほど、なんだか怖くなって……それで奥さんにわたしのことをよくしっていただいて、おたがいに用心したほうがよくはないかと、そんなことを考えたんです。そこで、ゆうべ志賀さんの留守をさいわいに、お話にあがりましたんです。わたし、あんないい奥さんを殺そうなどとは夢にも思いませんが、それでいながら、夢に奥さんの咽喉をしめるところを見たりして……」  樋上四郎はまた右腕で眼をこする。  人生のいちばんだいじな出発点で足をふみはずしたこの男は、たえずそのことが強迫観念となり、いくらかでも幸福な世界に足をふみいれると、またおなじような過ちをくりかえし、他人を不幸におとしいれると同時に、じぶんもふたたび不幸になるのではなかろうかと、怖れつづけてきたのにちがいない。  金田一耕助はまたあらためて惻隠の情をもよおし、この人生の廃残者をいたましげに視まもっていたが、そこへお秋が入ってきた。 「あの……奥様の黒のスーツが一着と、お靴が一足見当たらないようでございますけれど……」      十一  正午過ぎから出た南の微風が、沖の小島をおおうていた霧をすっかり吹きはらい、海上はまだいくらかうねりが高かったが、空は秋の夕べの色を見せて、くっきりと晴れわたった。  本土と島をつなぐ桟道から、この沖の小島をながめると、それこそまるで|蜃《しん》|気《き》|楼《ろう》のようである。なるほど建築学上からいうと、|摩《ま》|訶《か》不思議な構造物であるかもしれない。しかし、おりからのあかね色の西陽をあびて、累々層々と島のうえに連らなり、盛りあがっている複雑な夢の|勾《こう》|配《ばい》をみると、やはりひとつの偉観でもあり、美観でもあった。久保銀造のいうように、たとえ、材料やなんかチャチなものであるにしても。 「いや、耕さん、わしも見なおしたよ。なるほどここからみるといいな」  桟道のとちゅうのとある|崖《がけ》のうえに立った久保銀造は、ステッキのかしらに両手をおいて、ほれぼれとした眼でこのうつくしい蜃気楼をながめている。  金田一耕助はしかし、この蜃気楼がうつくしければうつくしいほど、これをつくりあげた男の情熱に思いをはせて、気がめいってならないのである。  志賀泰三は夢を見ていたのだ。子供のようにうつくしい夢の世界にあそんでいたのだ。しかしいまその夢が蜃気楼のようにくずれさったとき、いったいあとに何が残るのだ。その夢がうつくしければうつくしかっただけに、それが悪夢と化してすぎさったあとの、灰をかむようなわびしさに思いおよんで、金田一耕助の胸はえぐられるのだ。 「静よ、静よ。なぜ死んだ。おれをのこしてなぜ死んだんだ。静……静……」  号泣する志賀泰三の声が、いまもなお耕助の耳にかようてくる。 「金田一さん、金田一さん、見つけましたよ。ほら、このペダル……」  崖のしたから磯川警部が、ふとい猪首にじっとり汗をにじませてあがってきた。 「ああ、そう、それじゃあやっぱりここで自転車がころんだんですね。警部さん」 「はあ」 「それじゃ刑事さんたちにもう少しこのへんから、崖の下をさがしてもらってください。そしてどのようなものにしろ、およそ人間の身につけるようなものを発見したら、だいじに持ってかえるようにって」 「はあ、承知しました」  磯川警部がそのへんにちらばっている私服たちに、金田一耕助のことばをつたえおわるのを待って、 「警部さん、それじゃわれわれはひとあしさきに、沖の小島へかえりましょう。あるきながら話すことにしようじゃありませんか」 「はあ、話してください。わたしにはだんだんわけがわからなくなってきた」  適当の湿度をふくんだこころよい微風が、金田一耕助の|蓬《ほう》|髪《はつ》をそよがせ、|袂《たもと》や|袴《はかま》をばたつかせる。三人はしばらく黙々として歩いていたが、やがて耕助はうるんだような眼をあげて、そばを歩いていく磯川警部をふりかえった。 「ねえ、警部さん、推理のうえで犯人を組み立てることはやさしいが、じっさいにそれを立証するということはむつかしいですね。ことに新刑法では本人の自供は大して意味がなく、物的証拠の裏付けがたいせつなんですが、この事件のばあい、完全に証拠を蒐集しうるかどうか」 「それは、しかし、なんとかわれわれが努力して……」 「はあ、ご成功をいのります。それではだいたいこんどの事件の骨格をお話することにいたしましょう」  金田一耕助はなやましげな視線を蜃気楼島の蜃気楼にむけて、 「さっきの話でもおわかりのとおり、志賀夫人は昨夜あそこにいなかったんです。少なくとも十一時半から十二時ごろまで、すなわち、樋上四郎があの座敷にがんばっているあいだ、奥さんがあそこにいなかったことはたしかですね。では、奥さんはどこにいたのか、おそらく対岸の町にいたのでしょう。そして、犯行の時刻を十一時ごろとみて矛盾がないとすれば、奥さんはむこうの町で殺されたんですね」  磯川警部はギクッとしたように眼をみはり、耕助の顔を視なおした。 「金田一さん、そ、それはほんとうですか」 「はあ、これはもう完全にまちがいないと思います。なぜといってさっきお眼にかけたあの腕輪は、ランチのなかで発見されたのだから。その点についてはおじさんも証人になってくれると思います」  久保銀造は無言のままおもおもしくうなずいた。 「しかし、志賀夫人はなぜまた誰にも内緒で町へ出かけたんです」 「それはおそらく村松医師から|脅喝的《きょうかつてき》に、おびきよせられたんでしょう。奥さんとしては滋という男との昔の関係を、良人にしられたくなかった。そこへ村松医師がつけこんだんですね。葬式のまえにひとめでもよいから、滋の死に顔にあってやってくれ……とかなんとか、そんなふうに持ちかけられたら、奥さんとしてはいやとはいえなかったんでしょう。良人の激情的な性質をしっているだけにね」 「しかし、村松という男はゆうべお通夜の席の満座のなかで、志賀夫人と滋のなかをばらしているじゃありませんか」 「だから、警部さん、これは非常に計画的な犯罪なんですよ。村松医師がそのことをばらしたときには、志賀夫人はすでに殺害されていたにちがいない。そして、志賀泰三氏を動揺させるか、満座のなかで志賀氏がどのように狂態を演じるかを、あらかじめ計算にいれていたにちがいない。それによって志賀泰三氏の激情による犯罪であろうと、一般に信じこませようという周到な用意なんですね」 「それでは、金田一さん、志賀夫人を町へよびよせたのは、はじめから殺害する目的なんですか」 「もちろん、そうです。それと同時にその罪を志賀泰三氏におっかぶせようという、世にも陰険な計画なんです」 「金田一さん!」  磯川警部は声をうわずらせて、 「話してください。もっと詳しく話してください。どうしてそういう|悪《あく》|辣《らつ》きわまる計画が、かくもみごとに演出できたか。……いや演出されようとしたか。……われわれはてっきり志賀氏の情熱的犯行とおもいこんでいたんですからね」 「はあ。お話しましょう」  金田一耕助はまたなやましげな眼を蜃気楼島にむけて、 「村松医師から脅喝された志賀夫人は、ゆうべ寝室へさがったと見せかけて、黒のスーツに身をやつし、自転車に乗って桟道からひそかに対岸の町へ出向いていった。そして、そこで殺害されたのだが、じっさいに手をくだしたのは村松医師か|倅《せがれ》の徹か……そこまではぼくにもわかりませんが……」 「き、金田一さん!」  と、警部はギョッと耕助の顔をふりかえって、 「そ、それじゃ父子共謀だとおっしゃるんですか」 「ええ、もちろんそうです。徹という男はこの事件で非常に大きな役割を演じてるんですよ。かれはまずきのうの夕刻沖の小島まで志賀氏を迎えにいっている。何もわざわざ志賀氏を迎えにいく必要はなかったんですが、かれが迎えにいかないと、佐川春雄という少年がランチの運転手としてついてくる。それではかれらの計画にとって都合がわるいので、|何《いず》れ用事をこしらえて志賀氏を迎えにいき、みずからランチを運転してかえってきたんです。おそらくこのとき志賀夫人にきっと待っているからと、いっぽん釘をさしておいたにちがいない。さて志賀夫人がやってくると、これを殺して裸にして、ランチのなかの腰掛けのしたへかくしておいたんです」 「ランチのなかの腰掛けのしたあ?」  磯川警部は眼をまるくする。 「ええそうです。あのランチの腰掛けのしたは箱になってるんですが、そこにいちじ死体をかくしてあったことは、綿密に検査すれば証明できると思います。犯人は箱のなかを洗ったようですが、|下《しも》から相当出血があったとすれば、まだ血痕がのこっているかもしれないし、汚物の跡なども検出できると思います」  磯川警部はつよく息を吸って大きくうなずく。 「それにこの腰掛けの蓋の裏に毛髪がくっついたのを取っておきましたから、あとでおわたしいたしましょう。この毛髪についてはこのおじさんと佐川少年が証人になってくれましょうし、これを志賀夫人の毛髪と比較することによって、夫人の死体……いや、すくなくとも夫人のからだがいっとき、あの箱のなかにあったことが証明できましょう。それからあの腕輪もランチのなかで発見したんですが、犯人がこれを見おとしたというのは致命的な失敗でしたね。おそらく犯人はそのような腕輪を、夫人が肌身はなさず身につけているということをしらなかったんですね。ですから夫人を裸にするとき、腕輪がはずれて腰掛けのうえへおちたのに気がつかなかった。だから、腰掛けの蓋をひらいたとき、腕輪が板壁のほうへすべっていって、腰掛けと板壁とのあいだのすきまに落ちこんだのを、ぜんぜんしらなかったんですね。犯人にとってはこれほど大きな失敗はありません。ぼくだってこの腕輪を発見しなかったら、完全に犯人の術中におちいっていたことでしょうからね」      十二  金田一耕助はここでポツンと言葉をきると急にぞくりと肩をふるわせた。それはかならずしも|黄昏《たそがれ》どきの浜風が身にしみたせいではない。ある恐ろしい連想がかれの心をつめたくなでていったのだ。  久保銀造もそれに気づくと、にわかに大きく眼をみはり、 「耕さん、耕さん、それでいったいあの死体は、いつ沖の小島へはこばれたんだね。ひょっとするとわれわれといっしょに……」 「そうです、そうです、おじさん。そのときよりほかにチャンスはないわけですからね。かってにランチをうごかせば怪しまれるし、沖の小島でもランチの音をきけばすぐ気がつきます。だから、おじさん、ゆうべ志賀さんが泣きふしたあの腰掛けのしたに、奥さんの死体がよこたわっていたわけですよ」 「畜生!」  銀造老人は歯ぎしりをし、磯川警部はいまさらのように犯人、あるいは犯人たちのだいたんといおうか、冷血無残といおうか、ひとなみはずれたやりかたに、つめたい戦慄を禁ずることができなかった。 「さて、ランチが沖の小島へついて死体を寝室へはこびこむ段取りになるわけですが、ここでかりに志賀泰三氏を容疑者としてかんがえてみましょう。あのひとも夫人が殺害されたころ、対岸の町にいたわけですからね。だけど、あの死体の状態をみれば泰三氏は容疑者から除外してもよいと思う」 「死体の状態というと……?」 「犯人はね、殺人はあの部屋でおこなわれたと見せかけたかったんです。つまり奥さんはあそこで絞め殺されたと思わせようとしたんですね。だから、それには死体に寝間着を着せておくほうがよりしぜんですね。ところがその寝間着は敷き蒲団のしたにしかれていたので、犯人には見つからなかったんです。ところがこれが志賀さんなら、いつも|閨《けい》|房《ぼう》をともにしているんだから、奥さんのそういう習慣をしってたはずです。だから、これは志賀さんではなく、のこるひとりの徹のしわざだということになる。徹は寝間着が見つからなかったので、せめて腰巻きだけでもと、奥さんが出かけるとき、脱いでおかれた腰巻きをさせておいたんです」  陽はもう西にしずんで、名残りの余光が空にうかんだ|鰯雲《いわしぐも》をあたたかく染めだしている。波間にうかぶ蜃気楼は一部分まだ残照にかがやいているが、その他の部分はもうすでにまゆずみ色のたそがれのなかに沈んでいる。風が少し出てきたようだ。 「ところで金田一さん、あの自転車はどうしたんですか。誰があの自転車をかえしにきたんです」 「ああ、そうそう、自転車のことがありましたね。警部さん、犯人、あるいは犯人たちはなぜ死体を裸にしなければならなかったか。それにはいろいろ理由があると思うんです。まず|衣裳《いしょう》をつけたままじゃあの箱のなかへ押し込みにくかったこと。志賀夫人がきのう洋装の外出着を身につけたということを、だれにもぜったいにしられたくなかったこと。……それらも重大な理由ですが、もうひとつ、その衣裳が共犯者にとって必要だったんじゃないかと思う」 「衣裳が必要とは……?」 「自転車をかえしにいく人物がそれを身につけていったのではないか。……とちゅうでひとに見られても、志賀夫人だと思わせるために」 「耕さん!」  銀造老人のかみつきそうな調子である。それこそ怒り心頭に発するさけび声であった。 「そ、そ、それじゃ自転車をかえしにきたのは、田鶴子という娘だと……」 「おじさん、田鶴子はゆうべ階段からすべって折ったといって腕をつってましたね。しかし、あれはじじつではなく、あそこの崖から自転車ごと二メートルほど下の岩のうえまで|顛《てん》|落《らく》して、そのとき腕を|挫《くじ》いたんじゃないでしょうか。男たちはアリバイをつくるために、お通夜の席からあまりながくはなれたくなかった。そこでいちばん時間のかかる自転車をかえすという仕事、それは田鶴子にわりふられていたんじゃないでしょうか」 「金田一さん、金田一さん」  磯川警部の声ははずんでいた。 「それじゃ、一家全部で……?」 「そうです、そうです。おそらく村松夫人も参画していたと思う」 「耕さん、耕さん、参画どころじゃあないよ。きっとあのかかあが主謀だよ」 「おじさん、そう偏見にとらわれちゃあ……」 「偏見じゃないよ、耕さん。わしは断言する。これはあの女のかんがえだしたことにちがいないと……」  銀造老人の言葉はあたっていた。  磯川警部の活動によって、つぎからつぎへと有力な証拠があげられ、村松家の四人が検挙されたとき、かれらもそれを認め、世人を戦慄させたものである。 「しかし、金田一さん、動機はなんです。いったいなんのためにそんな恐ろしい……」 「警部さん、ごらんなさい。あのうつくしい蜃気楼を……」  金田一耕助はなやましげな眼をあげて、刻々として黄昏の|夕《ゆう》|闇《やみ》のなかにしずんでいく、蜃気楼を視やりながら、 「あの連中にとってあの蜃気楼はそれだけのねうちがあったんです。静子さんは志賀さんのたねをはらんでいた。だから、子供がうまれるまえに殺す必要があったんです。そしてその罪を志賀さんにおっかぶせてしまえば、あれだけの財産がどこへころげこむかということを考えればね」  金田一耕助は溜め息をついて、 「しかし、かれらはおそらくそうはかんがえていないでしょう。滋をうらぎった女、滋から愛人をうばった男、そのふたりに復讐したのだと考えているかもしれません。そのほうが良心の痛みもすくなく、自己満足できるでしょうからね。だから、この事件の動機はなかなか複雑だと思うんです。成功者にたいする|羨《せん》|望《ぼう》、看護婦から島の女王に出世した婦人にたいする嫉妬、そういうもやもやとした感情が、滋の告白をきいたせつな爆発したんですね。ですけれど、ぼくはやはりこれを|貪《どん》|慾《よく》の犯罪だと思いますよ」  しばらくおもっくるしい沈黙がつづいたのち、銀造老人が思い出したように口をひらいた。 「しかし、耕さん、あの義眼は……?」 「ああ、そうそう」  耕助も思い出したように、 「あの義眼については婆あさん、志賀さんが義眼をくりぬいてかえって、それをつきつけて奥さんを責めてるうちに、嫉妬にくるって絞め殺したんだといってましたね。ぼくはそう思わせるために、徹がぬきとっていったんじゃあないかと考えてみたんですが、それにしては、義眼が死体のそばにあったと聞いたときの、あの連中のおどろきかたは大きかったですね。いったい、計画的な犯罪のばあい、それが計画的であればあるほど、計画以外の事態がおこると、犯人はとっても不安をかんじるようです。こんどのばあいもそれで、あの義眼のことは犯人の計画になかったこと……すなわち、あれを抜きとっていったのは、犯人あるいは共犯者ではなく志賀さんではなかったか。なんのために志賀さんがそんなことをしたのか、これは志賀さんじしんにきいてみなければわかりませんが……」  それについて志賀泰三はのちにこう説明をくわえている。 「わたしは結婚まえの滋と静子との関係はしっていたんだ。しかし、そんなことはわたしの眼中になかった。わたしはきっとじぶんの愛情と誠意で、静子の心をとらえ、じぶんに惚れさせてみせるという自信があったし、また、じじつそのとおりになったんだ。だから、そのことを……結婚まえの滋との関係をしっていて許しているということを、静子にいっておけばよかったと思う。ところが静子はそれをしらないものだから、いつも心を苦しめていたようだ。それがふびんでならないものだから、滋が死亡したのを機会に、なにもかも打ち明けて許してやろうと思った。と、同時に昔の恋人にわかれをつげさせてやりたいとも思ったんだ。とはいえ、滋の体をこっそり持ってかえるわけにはいかんので、滋の体の一部分として義眼をくりぬいて持ってかえったんだ。それを滋の亡骸としてわかれをつげさせたうえ、なにもかもしっていて許していたということをいってやりたかったんだ。義眼のほうは葬式のとき持参して、滋にかえすつもりでいた。ところが、お通夜の席上の、しかも満座のなかで、とつぜん村松が滋と静子の関係をぶちまけた。それのみならず結婚後もふたりの関係がつづいており、静子の腹の子もひょっとすると滋のタネではないかなどと、とほうもないことをいいだしたので、わたしはもうすっかり混乱してしまったんだ。混乱したというのは静子をうたがったからではない。そんな馬鹿なことがあるべきはずのないことはよくしっていたが、村松がなぜまたそんなことをいいだしたのか、その真意がのみこめなかったからおどろいたんだ。ところが、そこへ村松の細君がアメリカでわたしが妻を殺したようなことをいいだして、こんどはそんなことをしちゃあいけないなどと忠告めいたことをいいだすにおよんで、わたしははっとこの夫婦、じぶんに静子を殺させようとしているのではないか。……と、そんな気がしたんだ。わたしはそれまであの夫婦をとても信頼していただけに、混乱と動揺が大きかったわけだ。静子はまえからあの夫婦には、あまり心を許さないようにといってたが……静子……静子……おまえもしかしあの連中が、じぶんの命までねらっているとはしらなかったんだなあ」  磯川警部はよくやった。  かれはまず犯行の現場として村松家の物置きに目をつけたが、このカンが的中したのだ。この物置きのがらくたのなかから、静子の耳飾りのかたっぽうが発見されるに及んで、村松医師も恐れいったのである。  村松医師もいざとなるとさすがに気おくれしたが、それをそばから|叱《しっ》|咤《た》し、けしかけたのが夫人の|安《やす》|子《こ》だと聞いて、ひとびとは戦慄せずにはいられなかった。安子夫人はこういったという。 「あなた、なにをぐずぐずしてるんです。あれだけ大きな財産がころげこもうというのに、そんな気の弱いことでどうするんです」  この鬼畜のような夫婦にとりおさえられて、恐怖のあまりあわれな静子はそのときすでになかば意識をうしなっていたので、声をたてることもできなかったのである。  死体はすぐ裏の海に待ちかまえている徹のボートヘおろされた。徹はそれをあのランチのなかへはこんでいったのだが、それからあとのことは金田一耕助の推理のとおりである。  志賀泰三はそののちまもなく蜃気楼をひきはらって、樋上四郎とともにふたたびアメリカヘわたることになった。ふたりが横浜から出発するとき、金田一耕助も突堤まで、久保銀造とともに送ってやった。  四人の手に握られたテープが切れて、わびしげに手をふるあの廃残の二老人のすがたが、しだいに甲板のうえで小さくなっていくのを見たとき、久保銀造は老いの眼をしばたたき、金田一耕助もしみじみと、運命というものに思いをはせずにはいられなかった。     蝙蝠と蛞蝓      一  およそ世の中になにがいやだといって、|蝙《こう》|蝠《もり》ほどいやなやつはない。昼のあいだは暗い洞穴の奥や、じめじめした森の|木《こ》|蔭《かげ》や、土蔵の軒下にぶらんぶらんとぶら下がっていて、夕方になると、ひらひら飛び出してくる。  第一、あの飛びかたからして気に食わん。ひとを小馬鹿にしたように、あっちへひらひら、こっちへひらひら、そうかと思うとだしぬけに、高いところから舞いおりてきて、ひとの頬っぺたを|撫《な》でていく。子供がわらじを投げつけると、いかにもひっかかったような顔をして、途中までおりてくるが、いざとなると、ヘン、お気の毒さまといわぬばかりに、わらじを見捨てて飛んでいく。いまいましいったらない。ヨーロッパの伝説によると、深夜墓場を抜け出して、人の生血を吸う吸血鬼というやつは、蝙蝠の形をしているそうだ。またインドかアフリカにいる白蝙蝠というやつは、実際に動物の生血を吸うそうだ。そういう特別なやつはべつとしても、とにかく、これほど虫の好かん動物はない。いつかおれは夕方の町を散歩していて、こいつに頬っぺたを撫でられて、きもを冷やしたことがある。それ以来ますます嫌いになった。  ところでおれがなぜこんなことを書き出したかというと、ちかごろ隣の部屋へ引っ越してきた男というのが、おれの嫌いな蝙蝠にそっくりなんだ。べつにつらが似ているわけじゃないが、見た感じがだ。なんとなくあのいやな動物を連想させるのだ。このあいだもおれがアパートの廊下を散歩していたら、だしぬけに暗い物蔭からふらふらと出てきて、すうっとおれのそばへ寄ってきやァがった。おれはぎゃっと叫んでその場に立ち|竦《すく》んだが、するとやつめ、フフフと鼻のうえに|皺《しわ》を寄せ、失礼ともいわずに、そのままふらふらむこうへいってしまやァがった。いま考えてもいまいましいったらない。  そもそも——と、ひらきなおるほどの男じゃないが、そいつの名前は|金《きん》|田《だ》|一《いち》|耕《こう》|助《すけ》というらしい。わりに上手な字で書いた名札がドアのうえに|貼《は》りつけてある。|年齢《とし》はおれより七つか八つ年うえの、三十三、四というところらしいが、いつも髪をもじゃもじゃにして、|冴《さ》えぬ顔色をしている。それにおかしいのは、こんな時代にもかかわらず、いつも和服で押しとおしている。ところがその和服たるやだ。|襟《えり》|垢《あか》まみれの|皺《しわ》|苦《く》|茶《ちゃ》で、なにしろああ|敵《かたき》のように着られちゃ、どんな筋のとおったもんでも|耐《た》まるまいと、おれはひそかに着物に同情している。しかし、ご当人はいっこう平気なのか、それともそういう取りつくろわぬ服装をてらっているのか、外へ出るときには、垢まみれの皺苦茶のうえに、|袴《はかま》を一着に及ぶんだから、いよいよもって鼻持ちがならん。その袴たるや——と、いまさらいうだけ野暮だろう。いまどき、場末の芝居小屋の作者部屋の見習いにもあんなのはいない。もっとも、小柄で貧相な風采だから、おめかしをしてもはじまらんことを自分でもちゃんと知っているのかもしれん。生涯うだつのあがらぬ人相だが、そこが蝙蝠の蝙蝠たるゆえんかもしれん。はじめおれは戦災者かと思っていたが、べらぼうに本をたくさん持っているところを見ると、そうでもないらしい。アパートのお|加《か》|代《よ》ちゃんの話によると、昼のうちは寝そべって、本ばかり読んでいるが、夕方になるとふらふら出かけていくそうだ。いよいよもって蝙蝠である。 「いったい、どんな本を読んでいるんだい」  おれが|訊《たず》ねると、お加代ちゃんはかわいい|眉《まゆ》に|皺《しわ》を寄せて、 「それがねえ、気味が悪いのよ。死人だの骸骨だの、それから人殺しの場面だの、そんな写真ばかり出てる本なのよ。このあいだ私が掃除に入ったら、|首《くび》|吊《つ》り男の写真が机のうえにひろげてあったからゾーッとしたわ」  フウンとおれはしかつめらしく|顎《あご》を撫でてみせたが、心中では大変なやつが隣へきたもんだと、内心少なからず気味悪かった。職業を訊くとお加代ちゃんも知らんという。 「なんでも伯父さんがまえにお世話になったことがあるんですって。それでとても信用してんのよ。でも、あんな死人の写真ばかり見てる人、気味が悪いわねえ、|湯《ゆ》|浅《あさ》さん」  お加代ちゃんもおれと同意見だったので|嬉《うれ》しかった。  それにしても、隣の男のことがこんなに気にかかるなんて、おれもよっぽどどうかしている。おれは戦争前からこのアパートにいるが、いままでどの部屋にどんなやつがいるか、そんなことが気になったためしはない。むろん、つきあいなんかひとりもない。もっとも、三階の、おれの真上の部屋にいる|山《やま》|名《な》|紅《こう》|吉《きち》だけはべつだ。その紅吉が、このあいだ、心配そうにおれの顔を見ながらに、こんなことをいった。 「どうしたんです。湯浅さん、お顔の色が悪いようですね。どこか悪いんじゃありませんか」 「うん、どうもくさくさして困る。つまらんことが気になってね」 「まだ、裏の|蛞《なめ》|蝓《くじ》女史のことを気にしてるんじゃないですか。あんな女のこと、いいかげんに忘れてしまいなさい。ひとの身よりもわが身の上ですよ」 「ううん、いまおれが気にしてるのは、蛞蝓のことじゃない。こんど隣へ引っ越してきた、蝙蝠男のことだ」 「はてな、蝙蝠たアなんです」  そこで、おれが蝙蝠男の金田一耕助のことを話してやると、山名紅吉は心配そうに指の爪をかみながら、 「あなた、それは神経衰弱ですぜ。気をつけなければいけませんね。当分学校を休んで静養したらどうですか」  それから紅吉は、情なさそうに溜息をつくと、 「いや、お互い、神経衰弱になるのも無理はありませんね。私なんぞも、いつまで学資がつづくかと思うと、じっとしていられないような気持ちですよ。今月はまだ部屋代も払ってないしまつでしてね」  と、さみしそうな声でいう。そこでおれもにわかに同情をもよおして、 「田舎のほう、やっぱりいけないのかい」  と、親切らしく訊いてやった。 「駄目ですね。財産税と農地改革、二重にいためつけられてるんですから、よいはずがありません。没落地主にゃ秋風が身にしみますよ。学資はともかく、部屋代だけはなんとかしなきゃあと思ってるんですがね」 「なあに、部屋代のことなんざあどうでもいいさ。君にゃお加代がついているんだから大丈夫だよ」  おれがそういってやると、 「ご冗談でしょう」  と、紅吉はあわてて打ち消したが、そのとたんにポーッと|頬《ほお》を|赧《あか》らめるのを見たときにゃあ、われにもなく、おれは|妬《ねた》ましさがむらむらとこみ上げてきた。山名紅吉、名前もなまめかしいが、実際、大変な美少年である。 「ご冗談でしょう? ヘン、白ばくれてもわかってるよ。君がお加代とよろしくやっていることを、おれはちゃあんと知ってるんだ。君はうまうま人眼を|欺《あざむ》いているつもりだろうが、ヘン、そんなことでごまかされるもんか。だいたい君はみずくさいぜ。まえの下宿を追い出されてさ、いくところがなくて弱っているのをここのおやじの|剣《けん》|突《つき》|剣《けん》|十郎《じゅうろう》に口をきいてやったのはこのおれだぜ。いわば、このアパートでは先輩のおれだ。しかるになんぞや、いつのまにやら先輩を出し抜いて、お加代をものにするなんぞ……いや、なに、それはいいさ、それはいいが、なにも先輩のおれに隠し立てするこたァないじゃないか。お加代とできたのならできたと……」  おれは急にパックリと口を|噤《つぐ》んだ。紅吉があっけにとられたように、まじまじとおれの顔色を見ているのに気がついたからである。いけない、いけない、おれはやっぱり神経衰弱かしらん。内かぶとを|見《み》|透《す》かされたような気がして、おれは急にきまりが悪くなった。ぬらぬらとした冷汗が、体中から吹き出してきた。そこで、照れかくしに、かんらかんらと豪傑笑いをしてやった。それからこんなことをいった。 「そんなことは、ま、どうでもいいや。金のことだって、いまになんとかなるさ。金は天下のまわりものさ。裏の蛞蝓を見い。このあいだまで、メソメソと、死ぬことばかり考えていやァがったが、ちかごろ、にわかに生気を取り返しゃアがったじゃないか」 「それゃア、裏の蛞蝓女史は、ああして売り飛ばす着物を持っとるです。しかし、われわれときた日にゃ……」 「まったく逆さにふるっても鼻血も出ないなア。君はそれでも、お加代がついてるだけましだよ」 「まだ、あんなことをいってる。それよりねえ、湯浅さん。裏の蛞蝓女史ですがね、きょうまた着物を売って、たんまり金が入ったらしいですよ。さっき三階の窓から見ていたら、手の切れそうな札束の勘定をしてましたよ。ぼくアもう、それを見ると、世の中がはかなくなりましてねえ」 「ようん」  おれは溜息とも、|呻《うめ》き声ともつかぬ声を吹き出した。それからにわかに思いついてこういった。 「おい、山名君、君、お加代もだが、ひとつあの蛞蝓女史にモーションをかけてみないかい」 「蛞蝓女史に、モーション、かけるんですって?」  紅吉はびっくりしたように、一句一句、言葉を切ってそういうと、眼をパチクリさせながら、おれの顔を見なおした。 「そうさ、君なら大丈夫成功するよ。いや、あいつ、とうから君に|思《おぼ》し召しがあるんだ。だからああして、わざと縁側に机を持ち出して、あんな変てこな書置きを書きやがるんだ。あれゃアつまり、君の同情をひこうという策戦だぜ。だからさ、なんかきっかけをこさえて、インギンを通ずるんだね。そして、嬉しがらせのひとつもいってやってみろ。部屋代の心配なんか、たちどころに|雲散霧消《うんさんむしょう》すらあ。おい、山名君、どうしたんだい。逃げなくたっていいじゃないか。ちょっ、意気地のねえ野郎だ」  山名紅吉がこそこそと部屋を出ていってからまもなく、階下のほうでお加代さんの|弾《はじ》けるような笑い声が聞こえたので、おれはぎょっとした。気のせいか紅吉の声も聞こえるような気がする。ちきしょう、ちきしょう、ちきしょうと、おれは|切《せっ》|歯《し》|扼《やく》|腕《わん》した。なにもかも|癪《しゃく》にさわってたまらん。お加代も紅吉も蝙蝠男も蛞蝓女も、どいつもこいつも鬼にくわれてしまやぁがれ!      二  きょう、おれは学校からの帰りがけに、素晴らしいことを思いついた。そこで晩飯を食ってしまうと、さっそく机に向かって原稿紙をひろげ、まず、  蝙蝠男——  と、題を書いてみた。だが、どうも気に食わんので、もうひとつそのそばに、  人間蝙蝠——  と、書き添えてみた。そしてしばらく二つの題を見くらべていたが、結局どっちの題も気に入らん。第一、こんな題をつけると、|江《え》|戸《ど》|川《がわ》|乱《らん》|歩《ぽ》の真似だと|嗤《わら》われる。そこで二つとも消してしまうと、あらためてそばに、  蝙蝠——  と、書いた。これがいい。これがいい。このほうがよっぽどあっさりしている。さて、題がきまったので、いよいよ書き出しにかかる。  ええ——と、蝙蝠男の耕助は——なんだ、馬鹿に|語《ご》|呂《ろ》がいいじゃないか。蝙蝠男の耕助か……ウフフ、面白い、面白い。だが——その後なんとつづけたらいいのかな。いや、それより蝙蝠男の耕助に、いったいなにをやらせようというんだ。——おれはしばらく原稿紙をにらんでいたが、そのうちに頭がいたくなったので、万年筆を投げ出して、畳の上にふんぞり返った。実はきょうおれは、学校の帰りに、蝙蝠男の耕助をモデルにして、小説を書いてやろうと思いついたのだ。その小説のなかで、あいつのことをうんと悪く書いてやる。日頃のうっぷんを存分晴らす。そうすれば、|溜飲《りゅういん》がさがって、このいらいらとした気分が、いくらかおさまりやせんかと思ったのだ。  しかし、いよいよ筆をとってみると、なかなか|生《なま》|易《やさ》しいことで書けるのでないことが判明した。第一、おれはまだ、蝙蝠男の耕助に、なにをやらせようとするのか、それさえ考えていなかった。まず、それからきめてかからねばお話にならん。そこでおれは起き直ると、書こうとすることを箇条書きにしてみる。 [#ここから1字下げ] 一、蝙蝠男の耕助は気味の悪い人物である。 二、蝙蝠男の耕助は人を殺すのである。 [#ここで字下げ終わり]  と、そこまで書いて、おれは待てよと考え直した。耕助に人殺しをさせるのは平凡である。そんなことで溜飲はさがらん。そこで筆をとって次のごとく書きあらためた。 [#ここから1字下げ] 二、蝙蝠男の耕助は人を殺すのではない。他人の演じた殺人の罪をおわされて、あわれ死刑となるのである。 [#ここで字下げ終わり]  うまい、うまい、このほうがよろしい。このほうがはるかに深刻である。身におぼえのない殺人の嫌疑に、|蒼《あお》くなって|周章狼狽《しゅうしょうろうばい》している蝙蝠男の耕助の顔を考えると、おれはやっと溜飲がさがりそうな気がした。ざまァ見ろだ。さて——と、おれはまた筆をとって、 [#ここから1字下げ] 三、殺されるのは女である。女というのはお加代である。 [#ここで字下げ終わり]  と、いっきに書いたが、書いてしまってから、おれはどきっとして、あわててその項を塗り消した。一本の線では心配なので、二本も三本も棒をひいた。おれはよっぽどどうかしている。お加代を殺すなんて鶴亀鶴亀、あの子はおれに好意を持っている。いや、ちかごろ山名紅吉が移ってきてからは、少し眼移りがしているらしいが、元来、あの子はおれのものである、と、おれは心にきめとる。それにあの子がおらんと、このアパートは一日もたちゆかん。あの子はここの経営者、剣突剣十郎の|姪《めい》だが、おやじの剣十郎はどういうものか、とかくちかごろ病いがちである。鬼のカクランで、しょっちゅう床についている。あの子がおらんと、アパート閉鎖ということにならぬとも限らん。あの子はまあ生かしておくことにしよう。  そこでおれはあらためて、どこかに殺されても惜しくないような女はおらんかと物色したが、するとすぐ思いついたのが裏の蛞蝓女。おれははたと|膝《ひざ》をたたいた。そうだ、そうだ、あの女に限る。第一、あいつ自身、死にたがって、毎日ほど書置きを書いてやがるじゃないか。あの女を殺すのは悪事ではなくて|功《く》|徳《どく》である。そこでおれはあらためてこう書いた。 [#ここから1字下げ] 三、殺されるのは女である。女というのは蛞蝓女のお|繁《しげ》である。 [#ここで字下げ終わり]  こうきまるとおれは|俄《が》|然《ぜん》愉快になった。一石二鳥とはこのことだ。蝙蝠男が隣へ引っ越してくるまでは、おれの関心の的はもっぱらこのお繁だったが、いまや一挙にしてふたりを粉砕することができる。名案、名案。  ところで小説というものは、いきなり主人公が顔を出しても面白くないから、まず殺されるお繁のことから書いてみよう。お繁のことならいくらでも書けそうな気がする。そこでおれはしばし沈思黙考のすえ、あらためて題を、  蝙蝠と蛞蝓——  と、書いた。それから筆に脂が乗って、いっきにつぎのごとく書きとばした。      三  いったい、その家というのは路地の奥にあるせいか、よくお|妾《めかけ》が引っ越してくる。このまえ住んでいたのも女給あがりのお妾だったが、その後へ入ったお繁もお妾である。お繁がその家へ入ってから三年になるが、戦争中はたいそう景気がよかった。それというのがお繁の旦那が軍需会社の下請けかなんかやっていて、ずいぶんボロイ儲けをしていたからだ。  ところが敗戦と同時にお繁の運がかたむきはじめた。まず、旦那が警察に引っぱられたのがけちのつきはじめだった。聞くところによると、終戦のどさくさまぎれに、悪どいことをやったのが暴露して、当分|娑《しゃ》|婆《ば》へ出られまいとのことである。だが、そのころお繁はまだそれほど参ってはいなかった。戦争中旦那からしぼり上げた金がしこたまあって、当分、楽に食っていけるらしかった。ところが、そこへやってきたのが貯金封鎖、ついでもの|凄《すご》いインフレだ。貨幣価値の下落とともに、彼女は|二進《に っ ち》も|三進《さ っ ち》もいかなくなった。お繁が二言目には死にたい、死にたいといい出したのはそれ以来のことである。  もっともこの女には昔からヒステリーがあって、よく発作を起こす。ただしその発作たるや唐紙を破るとか、着物を食いやぶるとか、ひっくりかえって|癪《しゃく》を起こすとか、そういうはなばなしいやつではなくて、妙に陰にこもるのである。その発作がちかごろ慢性になったらしい。すっかり|窶《やつ》れて|蒼《あお》|白《じろ》い顔がいよいよ蒼白くなった。いや、蒼白いというよりは生気のない蒼黒さになった。そして、髪もゆわず、終日きょとんと寝床の上に|坐《すわ》っている。外へ出ると、世間の人間、これことごとく敵である、というような気がするらしい。  こういうわけでお繁はもう、広い世間に身のおきどころのないような心細い気持ちになり、さてこそ、ちかごろ死にたい、死にたいとやりだしたわけだ。しかも彼女は口に出していうのみならず、紙に向かって書きしるす。まず彼女は縁側に机を持ち出す。そのうえに巻紙をひろげる。そして、書置きのことと、わりに上手な字で書く。そしてそのあとヘさんざっぱら、悲しそうなことを書きつらねる。書きながら、ボタボタと涙を巻紙のうえに落とす。これがちかごろの日課である。  ところで、お繁の家のすぐ裏には、三階建てのアパートがあって、その二階に湯浅|順平《じゅんぺい》という男が住んでいる(これは下書きだから、おれの本名を書いとくが、いよいよの時には、むろん名前は変えるつもりだ)。順平の部屋の窓からのぞくと、お繁の家が真下に見える。障子が開いてると座敷の中は|見《み》|透《とお》しで、床の間の一部まで見える。順平はまえからお繁が嫌いであったが、ちかごろではいよいよますます、彼女を憎むことがはげしくなった。髪もゆわずに、のろのろしているお繁を見ると、日陰の湿地をのたくっている|蛞《なめ》|蝓《くじ》を連想する。順平は蛞蝓が大嫌いだ。  そのお繁がちかごろ縁側に机を持ち出して、毎日お習字みたいなことをやりだしたのはよいとして、書きながら、しきりにメソメソしている様子だから、さあ、順平は気になりだした。この男は一度気になりだすと、絶対に気分転換ができない|性《たち》である。そこである日こっそりと、友人の山名紅吉のところから持ち出した双眼鏡で、お繁の書いているところのものを偵察したが、するとなんと書置きのこと。  これには順平も驚いた。驚いたのみならず、にわかにお繁が|憐《あわ》れになった。いままで憎んでいたのが|相《あい》|済《す》まぬような気持ちになった。自業自得とは申せ、思えば|不《ふ》|愍《びん》なものであると、大いに|惻《そく》|隠《いん》の情をもよおした。  こうして順平が同情しながら、一方、心ひそかに期待しているにもかかわらず、お繁はいっこう彼の期待に添おうとしない。つまり自殺しようとせんのである。それでいて、毎日、『書置きのこと』を手習いすることだけはやめんのだから妙である。はじめのうち順平は、正直にきょうかあすかと待っていたが、しまいにはしだいにしびれが切れてきた。 「ちきしょう自殺するならさっさと自殺しゃアがれ!」  だが、それでもまだしゃあしゃあと生きているお繁を見ると、順平はムラムラと|癇癪《かんしゃく》を爆発させた。 「ちきしょう、ちきしょう。あいつは結局自殺なんかせんのだ。書置きを書くのが道楽なんだ」  ところがある日、順平は大変|面《めん》|妖《よう》なことを発見した。昨日までメソメソとして、書置きばかり書いていたお繁が、きょうは妙ににこにこしている。久しぶりに髪も取り上げ、|白粉《おしろい》も塗り、着物もパリッとしたやつを着ている。はて、面妖な、これはいかなる風向きぞと、順平が驚いて偵察をつづけていると、まもなく彼女はどこからか、手の切れそうな紙幣束を持ち出して勘定をはじめたから、さあ、順平はいよいよ驚いた。驚くというより|呆《あき》れた。|呼吸《いき》をのんで双眼鏡をのぞいてみると、札束はたっぷりと一万円はあった。お繁はそれを持って久しぶりに、しゃなりしゃなりと外出していったのである。  あとで順平が、|狐《きつね》につままれたような顔をして、ポカンと考えこんでいた。いったい、どこからあんな金を——と、そこで、彼ははたと|膝《ひざ》をたたいたのである。まえの晩のことである。お繁は二、三枚の着物を取り出して、妙に悲しげな顔をしながら、撫でたりさすったりしていたが、さてはあの着物を売りゃアがったにちがいない……。  この金があるあいだ、お繁は幸福そうであった。毎日パリッとしたふうをして、いそいそと楽しげに出かけていった。そして毎晩牛肉の|匂《にお》いで順平を悩ませ、どうかすると、三味線など持ち出して浮かれていることもあった。ところがそれも束の間で、日がたつにしたがって、風船の中から空気が抜けていくみたいに、眼に見えて、お繁の元気がしぼんでいった。そして髪もゆわず、白粉気もなくなり、寝間着のままのろのろしている日が多くなったかと思うと、またある日、縁側に机を持ち出して、書置きのこと。  お繁はなんべんもなんべんもそんなことを繰り返した。そして、いよいよますます、順平をじりじりさせた。この調子でいけば、お繁の自殺は、いつになったら実現するかわからん、と順平は溜息をついた。着物道楽の彼女は、まだまだ売代にこと欠かん様子である。インフレはますます|亢《こう》|進《しん》していくが、その代わり、着物もいよいよ高くなっていくから、この調子ではあと一年や二年、寿命が持つかもしれん。それにだ、お繁はまだ若いのである。お化粧をして、パリッとしたみなりをしているところを見ると、まだまだ男を|惹《ひ》きつける魅力を持っとる。いつなんどき、ヤミ屋の親分かインフレ成金がひっかからんもんでもない。そうなったらもうおしまいである。未来|永《えい》|劫《ごう》、彼女の自殺を見物するという楽しみは消し飛んでしまう……。  順平はだんだんあせり気味になったが、そういうある日、お繁は妙なものを買ってきた。金魚鉢と金魚である。世の中には金があると、うずうずして、なんでもかんでも手当たりしだい、買わずにいられんという人間があるもんだが、この女もそういう人種のひとりにちがいない。順平もそういう金魚鉢を、ちかごろ表通りのヤミ市でたくさん売ってるのを知っているが、そこから買ってきたにちがいない。ふつうありきたりのガラスの鉢で、|縁《ふち》のところが|巾着《きんちゃく》の口みたいに、ひらひら波がたになっているあれだ。中に金魚が五、六匹泳いでいる。  つまらんものを買ってきたなと順平は心で|嗤《わら》ったが、お繁がこの金魚ならびに金魚鉢を大事にすることは非常なものである。彼女は毎日水をかえてやる。ところが、この女はモノメニヤ的性向が多分にあると見えて、水をかえてやるのが大変なのである。彼女はいちいち|物《もの》|尺《さし》を持ってきて、水の深さを測量する。なんでも、金魚鉢の首のところまで、きっちりしなければ承知ができんらしい。それより多くても少なくても、注ぎ足したり汲み出したり、そして、そのたびにいちいち物尺で測り直すのだから大変だ。さて、ようやく水の深さに納得がいくと、こんどはそれを、床の間へかざるのがまたひと仕事だ。なんでも、左の床柱からきっちり一尺のところへ置かんと気がすまんらしい。これまた、いちいち物尺で測ったのちに、やっと彼女は満足するのである。  こういう様子を見ていると、順平はいちいち、神経をさかさに撫でられるようないらだたしさを感じた。切なくて呼吸がつまりそうであった。ちきしょう、ちきしょう、ちきしょう。——と、全身がムズがゆくなるようないらだたしさに、順平は七転八倒するのである。殺してやる、殺してやる、殺してやる。——と、つい夢中になって叫んでいるうちに、彼ははっとして、自分の心のなかを見直した。そして、恐ろしさに、ブルルと身をふるわせた。しばらく彼は、しいんと黙りこんで、視線のさきをあてもなく見つめていた。  ふいに彼はけらけらと笑った。それから、なぜいけないんだ。あの女を殺すことがどうしていけないんだと自問自答した。あの女は蛞蝓である。蛞蝓をひねりつぶすのに、なんの遠慮がいるものか。しかもあいつは道楽とはいえ、死にたがって毎日ほど書置きを書いているのではないか。 「よし」  と、そこで順平は決心の|臍《ほぞ》をさだめる。すると、近来珍しく、胸中すがすがしくなるのを感じたが、しばらくすると、しかし、待てよと、また小首をひねった。あの女は蛞蝓である。その点、疑う余地はない。しかし、あの女の正体を看破しているのは自分だけである。世間ではあいつ、立派に人間の|牝《めす》でとおっている。とすれば、あんなやつでも殺したら、いや、殺したのが自分であるということがわかったら、やっぱり自分は警察へ引っぱられるかもしれん。悪くすると死刑だ。死刑はいやだ。蛞蝓と生命の取りかえはまっぴらである。  ここにおいて順平が思いついたのが、蝙蝠男の耕助のことである。そうだ、そうだ、蛞蝓を殺して、その罪を蝙蝠にきせる。おれの代わりに蝙蝠が死刑になる。ここにおいておれははじめて、めでたし、めでたしと枕を高くして眠ることができる。ああ、なんという小気味のよいことだ。考えただけでも溜飲がさがるではないか……。      四  おれはいっきにここまで書いて筆をおいた。これからいよいよ|佳境《かきょう》に入るところだが、そういっぺんには書けん。ローマは一日にして成らず、傑作は一夜漬けではできん。それに第一、いかにして蛞蝓を殺すか、そしてまた、いかなるトリックを用いて、蝙蝠に罪をきせるか、それからして考えねばならん。それはまあ、いずれゆっくり想を練ることにして、——と、おれはひとまず筆をおさめて寝ることにした。その晩おれは久しぶりによく眠った。  ところが翌日になると、おれはすっかり小説に興味を失ってしまった。昨夜書いたところを読み返してみたが、|阿《あ》|房《ほ》らしくておかしくてお話にならん。こんなものをなぜ書いたのか、どうして昨夜は、これが一大傑作と思われたのか、自分で自分の神経がわからん。そこでおれは本箱のなかに原稿を突っ込んでしまうと、きれいさっぱりあとを書くことを|諦《あきら》めた。諦めたのみならず、そんなものを書いたことさえ忘れていた。  ところが、——である。半月ほどたって大変なことが起こったのである。  おれはその日も、いつもと同じように学校へいって、四時ごろアパートへ帰ってきたが、見ると、表に人相の悪い奴がふたり立っていた。おれがなかへ入ると、そいつら妙な眼をして、ギロリとおれの顔を|睨《にら》みやアがった。虫の好かん奴だ。おれはしかし、べつに気にもとめんとアパートの玄関へ入ったが、するとそこにお加代ちゃんと紅吉のやつが立っていた。ふたりともおれの顔を見ると、おびえたように、二、三歩あとじさりした。おれがなにかいおうとすると、お加代ちゃんは急に真っ青になって、バタバタむこうへ逃げてしまった。紅吉のやつもこわばったような顔を、おれの視線からそむけると、これまたお加代ちゃんのあとを追っていきやアがった。  どうも変なぐあいである。  しかし、おれはまだ気がつかずに、そのまま自分の部屋へ帰ってきたが、すると、さっき表に立っていた人相の悪いふたりが、すうっとおれのあとから入ってきやアがった。 「な、なんだい、君たちゃア——」 「湯浅順平というのは君ですか」  こっちの問いには答えずに、むこうから切り出しアがった。いやに落ち着いたやつだ。 「湯浅順平はおれだが、いったい君たちゃア——」 「君はこれに見憶えがありますか」  相手はまた、おれの質問を無視すると、手に持っていた風呂敷包みを開いた。風呂敷のなかから出てきたのは、べっとりと血を吸った抜身の短刀だが、おれはそれを見るとびっくりして眼を見はった。 「なんだ、どうしたんだ、君たちゃア。その短刀はおれのもんだが、いつのまに持ち出したんだ。そしてその血はどうしたんだ」 「むこうにかかっているのは君の寝間着だね。あの袖についているしみ[#「しみ」に傍点]はいったいどうしたんだね」  相手は三度おれの質問を無視しゃアがった。しかし、おれはもう相手の無礼をとがめる余裕もなかった。重ねがさね妙なことをいうと、後ろの柱にかかっている、寝間着に眼をやったが、そのとたんおれの体のあらゆる筋肉が、完全にストライキを起こしてしまった。白いタオルの寝間着の右袖が、ぐっしょりと赤黒い血で染まっているのである。 「この原稿は、——」  と、人相の悪い男がおれの顔を見ながらまたいった。 「たしかに君が書いたものだろうね」 「わ、わ、わ、わ、わ!」  おれはなにかいおうとしたが、舌が|痙《けい》|攣《れん》して言葉が出ない。人相の悪いふたりの男は、顔見合わせてにやりと笑った。 「|河《こう》|野《の》君、そいつの指紋をとってみたまえ」  おれは抵抗しようと試みたが、何しろ全身の筋肉が、完全におれの命令をボイコットしているのだからどうにもならん。|不《ふ》|甲《が》|斐《い》なくもまんまと指紋をとられてしまった。人相の悪いやつはその指紋を、別の指紋と比較していたが、やがて薄気味悪い顔をして|頷《うなず》き合った。 「やっぱりそうです。まちがいありません」 「い、い、いったい、君たちゃア」  突然、おれの舌がストライキを中止して、おれの命令に服従するようになった。そこでふたたびスト態勢に入らぬうちにと、おれは大急ぎでこれだけのことを怒鳴った。 「き、き、君たちゃなんだ。勝手にひとの部屋に|闖入《ちんにゅう》して、いつのまにやらおれの原稿を探し出したり、そ、そ、それは新憲法の精神に反するぞ」  人相の悪い男はにやりと笑った。そしてこんなことをいった。 「まあ、いい。そんなことは警察へきてからいえ」 「け、け、警察——? おれがなぜ警察へいくのだ。おれがなにをしたというんだ」 「君はな、昨夜、その原稿に書いたことを実行したのだ。君のいわゆる蛞蝓を、この短刀で刺殺したのだ。さて、お繁を殺したあとで、君は金魚鉢で手を洗った。そのことは、金魚鉢の水が赤く染まっているのですぐわかるんだ。ところが、君はそのとき、ひとつ|大《おお》|縮《しく》|尻《じり》を演じた。金魚鉢の縁をうっかり握ったので、そこに君の指紋が残ったのだ。なあ、わかったか。その短刀は、だれかが盗んだのだと言い訳することができるかもしれん、また、寝間着の血痕にも、もっともらしい口実をつけることができるかもしれぬ。しかし、金魚鉢に残った指紋ばかりは、言い抜けする言葉はあるまい。あるか」  なかった。第一、おれはお繁の家の金魚鉢になど、絶対にさわった覚えはないのだから。 「よし、それじゃ素直に警察へついてきたまえ」  人相の悪い男が左右からおれの手をとった。おれは声なき悲鳴をあげるとともに、首を抜かれたように、ぐにゃぐにゃその場にへたばってしまった。      五  それからのち数日間のことは、どうもよくおれの記憶に残っていない。警察へ引っぱられたおれは、五体の筋肉のみならず、精神状態までサボタージュしていたらしい。元来おれは小心者なのだ。警察だのお巡りだのと聞くと、この年になっても、五体がしびれて恐慌状態におちいるという習慣がある。だから、はじめのうちはいっさい無我夢中だった。うまく答えようと思っても、舌が意志に反してうまく回らなかった。そして、そのことがいよいよ警察官の心証を悪くすることがわかると、ますますもっておれは|畏縮《いしゅく》するばかりだった。  ところが——ところがである。四、五日たつと、警部の風向きが変わってきだ。大変優しくなってきたのである。そして、こんなことを訊くのである。あなたは——と、にわかにていねいな言葉になって、お繁の家にあるような金魚鉢を、どこかほかでさわってみたことはないか。ああいう金魚鉢を、お宅の近所のヤミ市でたくさん売っているが、いつかそれにさわってみたことはないか、これは大事なことだから、ようく考えて、思い出してください、とそんなことをいうのだ。しかし、考えてみるまでもない。おれは何年も金魚鉢などさわったことがなかった。そこで、そのとおりいうと、警部はふうんと溜息をもらした。そして|憐《あわ》れむようにおれの顔を見ながら、あなたはきっと、度忘れをしているにちがいない、きっと、どこかでさわったにちがいない、今夜、ようく考えて思い出してごらんなさいといった。どうもその口ぶりから察すると、それを思い出しさえすれば助かるらしい気がしたが、憶えのないことを思い出すわけにはまいらん。  ところがその翌日のことである。いつものように取調室へ引っぱり出されたおれは、突然はっと、なにもかも一時に氷解したような気がした。と、いままでストライキしていた舌が、急におれの命令に服従するようになった。おれは大声でこう怒鳴った。 「そいつだ、そいつだ。その蝙蝠だ。そいつがやったことなのだ。そしておれに罪をかぶせやアがったのだ」  おれは怒り心頭に発した。|地《じ》|団《だん》|駄《だ》ふんで叫んだ、怒鳴った、そして果てはおいおい泣きだした。あのときなぜ泣いたのかしらんが、とにかくおれは泣いたのだ。すると警部はまあまあというようにおれを制しながら、 「まあ、そう昂奮しないで。ここにいる金田一耕助氏は、君の考えているような人物じゃありませんよ。このひとはね、きょうはあなたにとって、非常に有利なことを|報《し》らせにきてくださったのですよ」 「|嘘《うそ》だ!」  と、おれは叫んだ。 「嘘だ、嘘だ、そんなことをいって、そいつらはおれをペテンにかけようというのだ」 「嘘なら嘘で結構ですがね、とにかく私のいうことを聞いてください」  金田一耕助のやつ、長いもじゃもじゃ頭をかきまわしながら、にこにこ笑った。案外人なつっこい笑い顔だ。それからこんなことをいった。 「このあいだ、そう、あの事件のまえの晩のことでしたね。私が表から帰ってくると、あなたはお加代さんに呼ばれて、あの人の部屋へ入っていったでしょう」 「そ、そ、それがどうしたというんだ!」  おれはまだむかっ腹がおさまらないで、そう怒鳴ってやった。 「まあまあ、そう昂奮せずに——さてあのとき、お加代さんの部屋は真っ暗だった。電気の故障だということだった。それで、その修繕にたのまれて、あなたはお加代さんの部屋へ入っていったのでしたね。あのとき私は、自分に少し電気の知識があるものだから、もしあなたの手にあまるようだったら手伝ってあげようと、部屋の外で待機していたんですよ。すると真っ暗な部屋のなかから、お加代さんのこういう声が聞こえた。湯浅さん、ちょっと、この電気の笠を持っていて——離しちゃ駄目よ、ほら、ここのはしを持って——お持ちになってて、ああ、やっぱりこっちへとっとくわ、危ないから。——ねえ、そうでしたね。あのとき、あなたは暗がりのなかで、お加代さんの差し出した電気の笠のはしを、ちょっとお持ちになったんじゃありませんか」  そういえばそんなことがあった。 「しかし、そ、それがどうしたというんだ」  おれはなんとなく心が騒いだ。舌が思わずふるえた。 「つまりですね、問題はそのときの笠の形なんですがね、お加代さん、どうしたのか、ちかごろ馬鹿にでかい笠をつけたじゃありませんか。朝顔みたいにこっぽりしたやつで、縁が巾着の口みたいにひらひらしている……」  おれは突然ぎょくんとして跳び上がった、眼がくらんで、|顎《あご》ががくがく痙攣した。 「君は——君は——なにをいうのだ。それじゃ——あのときお加代さんが電気の笠だといって、おれに握らせたのが——」 「つまり、金魚鉢だったんですよ」  おれはなにかいおうとした。しかし舌がまたサボタージュを起こして、一言も発することができないんだ。すると金田一耕助はにこにこしながら、 「湯浅さん、まあ、お聞きなさい。このことに私が気がついたのは、あなたのあの未完の傑作のおかげなんですよ。あなたはあの小説のなかに、お繁という女が、金魚鉢について、いかにモノメニヤ的な神経質さを持っているか、ということを書いていますね。ところが、お繁が殺された現場にある金魚鉢は、あなたがお書きになった位置よりも、約一尺、つまり金魚鉢の直径ほど、右によったところにあり、しかも、なかの水も半分ほどしかなかったんですよ。その水が赤く染まっているところから、犯人が金魚鉢で手を洗ったことはわかっていますが、手を洗うのに金魚鉢を動かす必要もなければ、また、水が半分もへるわけがない。そこで私はこう考えたんです。犯人は第二の金魚鉢を持ってきて、もとからあった第一の金魚鉢のそばに置いた。そして第一の金魚鉢の中身を、第二の金魚鉢に移したが、そのときあわてていたので半分ほどこぼした——と、このことは、床の間のまえの畳が、じっとりとしめってるのでも想像ができるんです。だが、なぜそんなことをしたのか、——それはつまり、あなたの指紋を現場に残しておきたかったからですね。そこで、昨日警部さんに頼んで、あなたに、どこかほかで、金魚鉢にさわったことはないかと、訊ねてもらったんです。しかし、あなたはそんな記憶がないとおっしゃる。そこでふと思い出したのが、先日のあの電気の笠のエピソードなんですよ」 「それじゃ——それじゃあのお加代が——」  おれはいまにも泣きだしそうになった。あのお加代が——あのお加代が——ああ、なんちゅうことじゃ! 「そう、あのお加代と山名紅吉の二人がやったんですね。というよりも、お加代が紅吉を|唆《そその》かしてやらせたんですよ。湯浅さん、人間を外貌から判断しちゃいけない。あのお加代という女は、年は若いが実に恐ろしいやつですよ。私がなぜあのアパートヘ招かれていったと思います? 実は剣突剣十郎氏の依嘱をうけて、剣十郎氏のちかごろ悩まされている、正体不明の|吐《と》|瀉《しゃ》事件を調査にいったんですよ。剣十郎氏はあきらかにある毒物を少量ずつ盛られていた。放っておけば、その毒物が体内につもりつもって、早晩命とりになるという恐ろしい事件です。私はちかごろやっと、その毒殺魔が|姪《めい》のお加代であるという証拠を手に入れた、その矢先に起こったのがこんどの事件で、だから私ははじめからお加代に眼をつけていたんです。あいつは恐ろしい女ですよ。美しい顔の下に、蛇のような陰険さと|貪《どん》|婪《らん》さを持った女です。あいつまえから、お繁の金に眼をつけていたが、その矢先に、あなたの原稿を見たので、それからヒントを得て、ああいう恐ろしい計画をたて、山名紅吉を口説き落として仲間に引きずりこんだんです。つまりあなたが空想のうえで私にしようとしたことを、すなわち自分で殺して私に濡れ|衣《ぎぬ》をきせようという、あの空想を、お加代は実際にやって、しかも罪を背負わされる犠牲者にあなたを選んだのです。どうです、わかりましたか」 「それじゃ——それじゃ、——お加代は自ら手をくだして、——お繁を殺したんですか」 「そう、半分——。半分というのはこうです。お繁は心臓をえぐられて死んでいたんですが、同時に咽喉のところに|縊《くく》られた跡が残っていた。しかも、その跡は、心臓をつかれた後でも先でもないことがわかった。しかも心臓をえぐり殺したあとで、首を絞めるやつもありませんね。つまり、その跡は心臓をえぐると同時にできたものなんです。だから、これは一人の人間の仕業でないことが想像された。どんな器用な犯人でも、|細《ほそ》|紐《ひも》で首を絞めながら、心臓をえぐるわけにいきませんからね。そういうことからも、共犯者のないあなたが犯人でないことがわかったし、同時にお加代と紅吉に眼をつけたというわけです。何しろ|凄《すご》いやつですよ、お加代という女は——お繁の後ろからとびついて、細紐で首を絞め、そこを紅吉に突き殺させたというんですからね」  おれはもう口をきくのも大儀になったが、それでも突きとめるだけのことは突きとめておかねばならん。 「しかも、私に罪をきせるために、兇器として私の短刀を用いたんですね。そして私の寝間着に血をつけて……」 「そうです、そうです。あの短刀は二、三日前にお加代があなたの部屋から盗み出したもので、また、寝間着の血は、あなたが学校へいったあとで、お加代が自分の体からしぼりとった血をなすりつけておいたんです。利口なやつで、あの寝間着が発見されるのは、ずっとあとのことになり、それまでには血が乾いているだろうことを知っていたし、また、お繁が、自分と同じ血液型だということを、隣組の防空やなんかでちゃんと知っていたんですね」  おれは悲しいやら、恐ろしいやら、わけがわからん複雑な気持ちで、しいんと黙りこんでいたが、するとふいに金田一耕助が、にこにこ笑いながら、こんなことをいった。 「どうです、湯浅さん、あなたはこれでもまだ蝙蝠が嫌いですか」  正直のところ、おれはちかごろ蝙蝠が大好きだ。夏の夕方など、ひらひら飛んでいるのは、なかなか風情のあるものである。  それに第一、蝙蝠は益鳥である。     人面瘡      一 「警部さん、警部さん、もし、|磯《いそ》|川《かわ》警部さん、恐れいりますが、ちょっと起きてくださいませんか。もし、磯川警部さん」  障子のそとから気ぜわしそうに呼ぶ声に、やっとうとうとしかけていた金田一耕助は、はっと浅い夢を破られた。  じぶんを呼んでいるのかなと、寝床のうえで半身起こした金田一耕助が、|片《かた》|肘《ひじ》をついたまま聞き耳を立てていると、ふたたび、 「警部さん、警部さん、もし、磯川警部さん、ちょっと……」  と、切迫した男が障子のそとで|喘《あえ》ぐようである。それは金田一耕助を呼んでいるのではなく、|枕《まくら》をならべてそばに寝ている磯川警部を呼んでいるのである。  若い男の声で、だいぶんせきこんでいるようだが、かんじんの磯川警部は寝入りばなとみえて、灯りを消した座敷のなかで健康そうな寝息がきこえる。  金田一耕助が枕下の電気スタンドをひねると、陽にやけた磯川警部の顔がはんぶん夜具に埋まっていた。みじかく刈った白髪が銀色に光って、地頭がすけてみえている。 「警部さん、警部さん」  と、金田一耕助が寝床から体をのりだして、 「起きなさい、起きなさい。だれかがあなたを呼んでいらっしゃる」  と、|蒲《ふ》|団《とん》のうえから体をゆすると、磯川警部ははっとしたように眼を見開き、 「えっ!」  と、下から金田一耕助の顔を見ていたが、急に寝床のうえに起きなおると、 「先生、な、なにかありましたか」 「いや、わたしじゃありません。縁側からどなたか呼んでいらっしゃる……」 「えっ?」  と、寝間着にきてねた浴衣のまえをつくろいながら、磯川警部が縁側のほうへむきなおると、障子の外に懐中電灯をもった男の影がちらちらしていた。 「だれ……? そこにいるのは……?」 「ぼくです。警部さん、|貞《さだ》|二《じ》です。ちょっとお願いがあってまいりました。恐れ入りますがこっちへ顔をかしてくださいませんか」 「なあんだ。貞二君か」  と、磯川警部は寝床から起きあがると、黒いくけ|紐《ひも》を締めなおしながら、 「いったい、どうしたんだい、いまごろ……?」  と、障子の外へ出ていった。  貞二君というのは宿のひとり息子である。  金田一耕助はそのうしろ姿を見送っているうちに、ふっと夜更けの|肌《はだ》|寒《ざむ》さをおぼえたので、夜着をひっぱってふかぶかと寝床のなかにもぐりこんだが、うとうとしかけているところを起されたせいか、なかなか寝つかれそうになかった。  障子の外では磯川警部と貞二君が、なにか早口にしゃべっていたが、やがて警部が障子のすきから顔をのぞけて、 「金田一さん、ちょっと母屋のほうへいってきますから……」 「ああ、そう、なにか……?」 「はあ、貞二君の話によると、なにかまたやっかいなことが起ったらしい。ひょっとすると、またお起しするようなことになるかもしれませんが、それまではごゆっくりとお休みください」 「金田一先生、夜分お騒がせして申訳ございません」  と、貞二君も磯川警部の背後から顔をのぞけた。 「いやあ……」  と、金田一耕助が寝床のうえから半身起して、ショボショボとした眼で笑ってみせると、 「それじゃ、警部さん」 「ああ、そう」  と、磯川警部が障子をしめると、やがてふたりの足音があわただしく、離れの縁側から渡り廊下のほうへ遠ざかっていった。 いったい何事が起ったのか——と、金田一耕助が|枕下《まくらもと》においた腕時計をみるともう二時を過ぎている。  耳をすますともなく聞き耳を立てていると、ひろい宿のむこうのほうで、なにかしら、ただならぬ気配がしている。宿のすぐうしろを|谿流《けいりゅう》が流れているのだが、上流のほうで雨でもあったのか、今夜はひとしお岩を|噛《か》む谿流の音が騒々しいようだ。  なにか事件があったとすると、それは宿のものか、それとも泊りの客か、いや、そうそう、宿の隠居のお柳さまというのが、半身不随でながく寝ているということだが、そのひとになにかまちがいでも起ったのではないか。たしかさっきの磯川警部と貞二君との立話のなかに、お柳さまという名が出たようだが……  と、そんなことを考えているうちに、金田一耕助はハッとさっき見た異様な情景を思い出した。  そうだ、ひょっとするとこの騒ぎは、さっきじぶんが目撃した、あの異様な光景となにか関係があるのではないか。……  それは一時間ほどまえのことだった。金田一耕助は便意を催して、寝床を出て|廁《かわや》へいった。磯川警部はよく眠っていた。金田一耕助は廁に立って、いい気持ちで用を足しながら、なにげなく廁の窓から外をみていた。  |今《こ》|宵《よい》は|仲秋名月《ちゅうしゅうめいげつ》のうえに、空には一点の雲もなく、廁の外には谿流をこえて、奇岩奇樹が直昼のような鮮かさでくっきりとした影をおとしていた。  |眉《まゆ》にせまる対岸の峰々も、はっきりと明暗の|隈《くま》をつくりわけてそそり立っている。眼をおとすと、宿の下を流れる谿流が、月の光にはてしない|銀《ぎん》|鱗《りん》をおどらせて、そこからほのじろい蒸気がもうもうと立ちのぼっている。 [#ここから2字下げ] 名月にふもとの霧や田のけむり [#ここで字下げ終わり]  柄にもなく金田一耕助はふと芭蕉の句を思い出したりした。  あれはたしか芭蕉の紀行文にあった句だが、いったいどこへの旅のおりの句だったか——と、ぼんやりそんなことを考えながら用を足していると、|忽《こつ》|然《ぜん》として、この静寂な俳句の世界へわりこんできた人物があった。  おや……?  と、用をおわった金田一耕助が身を乗りだすようにして瞳をこらすと、いま眼前にあらわれたのは女であった。  年齢は二十六、七であろう。  髪を地味な|束《そく》|髪《はつ》に結って、フランネルのようなかんじのする寝間着を着ている。月光のせいで、その寝間着がまっしろに見えた。いや、まっしろにみえたのは寝間着ばかりではない。髪も手も素足も(その女ははだしだった)……髪の毛さえも、白いというより銀色にかがやいていた。  それにしてもいまじぶん、若い女がどこへいくのだろう。……  金田一耕助はふしぎそうに、女の動きを眼でおっていたが、そのうちにハッとあることに気がついた。そして、にわかに興味を催したのだ。  その女のあるきかたに、尋常でないものがあるのに気がついたからである。まるで雲を踏むような歩きかただった。顔を少しうしろに反らし、両手をまっすぐに側面に垂れ、わき眼もふらずにひょうひょうとして歩いていく。その歩きかたにどこか非人間的な|匂《にお》いがあった。  夢遊病者……?  金田一耕助は職業柄、夢遊病者に関する事件を、いままでに扱ったことも二、三度ある。なかには夢遊病者をてらった事件さえもあったのだが。……  しかし、じっさいに夢中遊行のその現場を、これほどまざまざと目撃したのはこれがはじめてである。金田一耕助は廁の窓からのりだすようにして、月光のなかをいくこの異様な女のすがたを見まもっていた。  女は左手のほうから現れたかとおもうと、廁から五、六間離れたところを横切って、宿の裏手から谿流のほうへおりていった。あいかわらず雲を踏むようなひょうひょうたる足どりで、|磧《かわら》の石ころづたいに下流のほうへ姿を消していった。  彼女のいくてには|稚《ち》|児《ご》が|淵《ふち》という、ふかい淵があるはずなのだが。……  女のうしろ姿が見えなくなると、金田一耕助はふっとわれにかえった。気がつくと全身がかるく汗ばんでいる。その汗が冷えるにしたがって、秋の夜更けの冷気が身にしみわたって、金田一耕助はおもわず身ぶるいをした。  このことを宿のものに知らせるべきかどうか。……  金田一耕助はちょっと迷ったが、けっきょく黙っていようと考えた。他人の秘事に立ちいることを|懼《おそ》れたのだ。  若い女のこういう奇病を騒ぎ立てられるほど、当人にとっても身寄りのものにとっても、迷惑なことはないだろうと考えたのと、もうひとつには、夢遊病者というものに、案外、|怪《け》|我《が》のないものだということをしっていたからである。  だから、それから間もなくじぶんの部屋へかえってきた金田一耕助は、となりに寝ている磯川警部を起そうともしなかった。そのまま枕に頭をつけて、まもなくうとうとしはじめていたのだが。……  こういうふうに書いてくると、金田一耕助というこの男が、いかにも冷淡で、不人情な人間のように思われるかもしれないが、かならずしもそうでないことは、諸君もよくしっているはずである。  金田一耕助のように長いあいだ、いっぷう変った特殊な職業に従事している人物にとっては、人間の生命だの運命だのという問題に関しても、おのずから常人とちがった感情があるのもやむをえまい。  それに金田一耕助はそのとき事件に食傷気味でもあったのだ。  東京のほうでむつかしい事件を解決して、その骨休みにと思ってやってきたのが岡山だった。金田一耕助と岡山県との関係は、かれの|探《たん》|偵《てい》|譚《たん》をお読みのかたはご存じと思うが、金田一耕助はこの土地のあたたかい人情風俗がたいへん気にいっているのである。  だから、東京の俗塵をさけた金田一耕助が、しばしの憩いの場所として岡山の土地をえらんだのはべつに不思議でもなんでもない。そこで岡山へやってきた金田一耕助は、さっそく県の警察本部につとめている、お|馴《な》|染《じ》みの磯川警部を訪ねていった。できれば警部にしかるべき静養地を紹介してもらおうという魂胆だった。  ところがあにはからんや、岡山で金田一耕助を待ちかまえていたものは、またしても|厄《やっ》|介《かい》千万な殺人事件であった。しかも、その事件の担当者が磯川警部とあってはただではすまない。  事件の捜査が|暗礁《あんしょう》に乗りあげて、磯川警部が四苦八苦、苦慮|呻《しん》|吟《ぎん》しているところへ、ひょっこり金田一耕助がやってきたのだから、警部にとっては地獄で仏にあったも同然だった。金田一耕助がいやおうなしに事件のなかへ引っ張りこまれたことはいうまでもない。  金田一耕助は磯川警部にたいする友情としてもひと肌ぬがずにはいられなかった。さいわい三週間で事件の解決はついた。しかも、犯人が自殺してしまったので、磯川警部も事後の|煩《はん》|瑣《さ》な手続きから解放された。  そこで、そのお礼ごころに磯川警部が案内したのが、この|薬《やく》|師《し》の湯なのである。そこは岡山県と鳥取県の境にちかい、文字どおり草深い田舎だが、ここの湯は眼病に|効《き》くというので、県下ではちょっとしられた湯治場になっているらしい。  磯川警部も一週間ほど休暇をとって、ゆっくりと金田一耕助につきあうつもりで、きょう昼間ここに旅装をといたばかりだったのだが。……      二 「先生、金田一先生、もうおやすみですか」  電気スタンドの灯りを消して、金田一耕助がまたうとうととしかけているところへ、磯川警部がかえってきた。 「ああ、いや、まだ起きていますよ」  金田一耕助は寝返りをうって、電気スタンドのスイッチをひねると、 「警部さん、どうかしましたか」 「ああ、いや……」  と、金田一耕助の顔を見おろしながら、厚いてのひらでつるりと額を|撫《な》であげる磯川警部のおもてには、世にも奇妙な色がうかんでいる。  金田一耕助と磯川警部はもうながいあいだの交際なのだ。だから警部の顔色をみると、金田一耕助にも事件の規模はわかるのだ。耕助は思わず寝床のうえに起きなおった。 「警部さん、なにか……」 「いや、先生」  と、警部は肉の厚い顔をしかめて、 「夜中はなはだ恐れ入りますが、ちょっと見ていただきたいものがあるんですが……」 「なにか事件ですか」 「はあ、こんなところまできて、また事件ではまことに申訳ないんですが、じつはカルモチンの自殺未遂なんです。ただし、そのほうの処置はいたしました。さいわい、発見がはやかったので、命はとりとめると思うんですが……」  物慣れた磯川警部は、カルモチンの自殺未遂ていどの事件ならば、医者がくるまでの応急処置くらいは心得ているのである。 「はあ、はあ、なるほど、それで……?」 「ところが、ここにちょっと妙なことがあって、それをぜひ先生に見ていただきたいんですが……先生にしてもごらんになっておかれたら、なにかの参考になりゃせんかと思うんですがな」  磯川警部の瞳には一種異様なかぎろいがある。それがなにか言外の奇妙な意味を物語っているようであった。 「ああ、そう、それじゃ……」  と、金田一耕助は気軽に立ちあがると、浴衣のうえからドテラを重ねた。さっきから見ると、またいちだんと冷えこむようだ。  田舎の湯治場などによくあるように、この薬師の湯もあとからあとから立てましたらしく、長い縁側や渡り廊下が、まるで迷路のようにひろがっている。外はあいかわらずよい月らしく、しめきった雨戸のすきから、鮮かな光がさしこんで、廊下のうえにくっきりと|縞《しま》|目《め》をつくっている。足の裏にその廊下の感触がひんやりとつめたかった。  磯川警部の案内で、長い縁側や渡り廊下を抜けて、母屋の裏側にあたっている雇人だまりのまえまでくると、なかから灯りの差す障子の外に黒い影が立っていた。  立ちぎきでもしていたのか、その男は障子のなかのようすをうかがっていたらしいのだが、ふたりの足音をきくとあわててそこを離れた。そして、顔をそむけるようにして、ふたりのそばをすり抜けると、母屋のほうへ逃げていった。  すれちがうとき、金田一耕助がなにげなくみると、右の|頬《ほお》におそろしい|火傷《やけど》のひきつれのある男だった。 「なんだろう……? あの男……」  そのうしろ姿を見送りながら金田一耕助がつぶやくと、磯川警部もうさんくさそうに|眉《まゆ》をひそめて、 「変ですねえ。宿の浴衣を着ていたから客でしょうが、やっこさん、ここでなかのようすを立ちぎきしていたんじゃありませんか」 「どうもそうらしいですね」 「頬に大きな火傷の跡かなんかがありましたね」 「そう、だから目印にはことかかない」  磯川警部はふっと不安らしく金田一耕助の顔をふりかえったが、すぐ思いなおしたように障子に手をかけて、 「さあ、どうぞ、この部屋です」  障子をあけるとそこは六畳、いかにも奉公人の部屋らしく、|煤《すす》けてゴタゴタしたなかに寝床がひとつ敷いてあって、そこに女がひとり|昏《こん》|睡《すい》状態で横たわっている。  金田一耕助はその女の顔をみたとたん、思わずほほうっと眼をみはった。  それはたしかにさっきの女、金田一耕助が廁の窓から目撃した夢中遊行の女であった。さっきは夜目遠目でよくわからなかったが、こうしてちかくから見ると、透きとおるような肌をしたなかなかの美人である。  女の枕下には男がひとり、落着きのない、心配そうな顔色で|坐《すわ》っていた。年頃は三十前後か、がっちりとしたよい体格をしているが、どこか神経質らしい男である。昏睡した女の寝顔を見まもりながら、しきりに唇をかんでいる。金田一耕助と磯川警部の姿をみると、少しあとへさがって窮屈そうに頭をさげた。  これが薬師の湯のひとリ息子で、去年の秋、シベリヤから復員してきたばかりだという貞二君なのである。 「このご婦人は……?」  金田一耕助が女の枕下に腰をおろして、磯川警部をふりかえると、 「ここの女中さんで|松《まつ》|代《よ》というんだそうです」 「カルモチンをのんだんだそうですね」  金田一耕助が貞二君のほうへむきなおると、 「はあ」  と、貞二君はかたわらの|一《いっ》|閑《かん》|張《ば》りの机のうえにあるカルモチンの箱を眼でしめした。  金田一耕助が手をのばしてその箱を手にとってみると、なかはすっかり空になっている。 「どうして自殺などはかったのかわかっていますか」  金田一耕助が訊ねると、 「貞二君、先生にあれをお眼にかけたら……?」  と、磯川警部がそばから注意した。  貞二君はちょっと|挑《いど》むような白い眼をして、磯川警部をにらんだが、やがてふてくされたように肩をゆすって、一閑張りの机のひきだしから、一通の封筒を取りだして、突きつけるように金田一耕助のほうへ差し出した。  金田一耕助が手にとってみると、封筒のおもてには万年筆の女文字で、御隠居さま、若旦那さまへと二行にわたって書いてあり、裏をかえすと松代よりとしたためてあった。かなり上手な筆蹟だが、ところどころ文字がふるえているのは、これを書いたときの筆者の心の動揺をしめすものだろうか。 「なかを見てもかまいませんか」 「どうぞ」  貞二君はあいかわらず、ふてくされたような調子である。  なかは女らしい模様入りの便箋で、そこになんの前置きもなく、いきなり、つぎのような奇妙な文句が、表書きとおなじ女文字で書いてあった。 [#ここから1字下げ]  あたしは今夜また由紀ちゃんを殺しました。由紀ちゃんを殺したのはこれで二度目で す。病気のせいとはいえ二度も由紀ちゃんを殺すなんて、なんというわたしは恐ろしい女でしょう。由紀ちゃんの|呪《のろ》いはせんからわたしの|腋《わき》の下にあらわれて、日夜、わたしを責めさいなみます。わたしはとても生きてはおれません。いろいろお世話になりながら、御恩がえしもできませず、かえって御迷惑をおかけいたしますことを、じゅうじゅうお詫び申上げます。 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]松代 [#ここから3字下げ] 御隠居さま 若旦那さま [#ここで字下げ終わり]  金田一耕助は眉をひそめて、注意ぶかく、二、三度その文面を読みかえしたのち、貞二君のほうをふりかえって、 「この由紀ちゃんというのは……?」  と、訊ねたが、貞二君が肩をそびやかしたきり答えなかったので、そばから磯川警部がかわって答えた。 「ここにいる松代の妹だそうです」 「やはりここにいるんですか」 「はあ、この春、松代をたよってきて、そのままここの女中に住込んだんだそうです」 「この手紙には松代君が今夜、妹を殺したように書いてありますが、なにかそういう気配でもあるんですか」  金田一耕助が訊ねると、磯川警部も渋面をつくって、 「さあ、それがよくわからないんですね。さっき松代君がにわかに苦しみ出したので、ほかの女中がびっくりして貞二君を呼びにいったんだそうです。そこで貞二君が駆けつけてくると、そういう遺書が枕下においてあった。それでいま手分けをして由紀子という女の行方をさがしているところなんですがね」 「それじゃ、まだ行方がわからないんですね」  金田一耕助が念を押すように貞二君のほうをふりかえると、 「はあ、まだ……とにかく家のなかにはいないようです」  と、貞二君は吐き出すような調子であった。  金田一耕助は改めてその貞二君の顔を見なおした。この男は松代という女の自殺未遂をどう思っているのか。多少なりとも|不《ふ》|愍《びん》がっているのか。それとも迷惑なこととして内心の怒りをおさえかねているのではないか。  どっちともとれる貞二君のそのときの顔色だった。  金田一耕助はふとさっき見た松代の姿を思い出していた。雲を踏むような足どりで稚児が淵のほうへおりていった、松代の奇妙な姿を|脳《のう》|裡《り》にえがきだしていた。  しかし、そのことについてはまだいうべき時期ではないであろうと差しひかえた。いずれ松代が|覚《かく》|醒《せい》したらそのことについてただしてみよう。  その松代は額にいっぱい汗をうかべて、寝苦しそうな荒い息使いである。顔色がびっくりするほど悪かった。  金田一耕助はまた改めて遺書の文面に眼を落して、 「それにしてもここに妙なことが書いてありますね。由紀ちゃんを殺したのはこれで二度目ですと。……これはいったいどういう意味でしょう。病気のせいとはいえ、二度も由紀ちゃんを殺すなんて……と、書いてありますが、松代君はまえにも妹さんを殺した……いや、殺そうとしたことがあるんですか」  金田一耕助は貞二君を見た。貞二君はあいかわらずふてくされたようすで、ふてぶてしくぶっきらぼうな調子で、 「松代は気が変になっていたんです」 「気が変になっていた……? なにかそういう徴候があったんですか」 「いや、いや、そういうわけじゃありませんが……」  と、貞二君はいくらかあわてた調子で、 「しかし、そうとしか思えないじゃありませんか。でなきゃそんな妙なことを書くはずがない。おなじ人間を二度殺す。そんなバカなことがあるはずがないじゃありませんか。だいいち、今夜、由紀子を殺したというのだって、どうだかわかったものじゃない」 「しかし、それじゃ由紀子さんはいまどこにいるんです。こんな時刻に若い娘が家のなかにいないというのはおかしいじゃありませんか」  そのときまた金田一耕助の脳裡には、ひょうひょうたる足どりで、稚児が淵のほうへおりていった松代の姿がうかんだが、かれはあわててそれを|揉《も》み消した。 「なあに、どっかひとめのつかないところで寝ているか、それとも……」 「それとも……?」 「いやさ、だれか男と|逢《あい》|曳《び》きでもしているのかもしれませんよ。あっはっは!」  こういう場合としては、貞二君のその笑いかたには、なにかしらひとをゾッとさせるような毒々しさがあり、また多分にわざとらしかった。  金田一耕助は|眉《まゆ》をひそめて、さぐるようにあいての顔色を見つめていたが、それでも言葉だけはおだやかに、 「いや、できればそうあってほしいものですね。ところで最後に、由紀ちゃんの|呪《のろ》いが腋の下にあらわれて……と、いうのはどういうわけですか」 「ああ、そのこと……」  と、磯川警部は膝をのりだして、 「じつはそれなんです、先生、あなたに見ていただきたいものがあるとさっき申上げたのは……貞二君、金田一先生に見ていただこうじゃないか」 「はあ……」  と、貞二君は答えたものの、その眼にはちょっと|怯《おび》えたような色が走った。  金田一耕助はふしぎそうにふたりの顔を見くらべながら、 「なんです。その見てほしいとおっしゃるのは……?」 「いや、じつはこれなんですがね」  磯川警部が掛蒲団をめくるのを、貞二君は毒々しい眼で見つめている。  磯川警部は蒲団を胸までめくると、女の胸を左右にかきわけ、金田一耕助の眼のまえで右の腋の下をむき出しにした。  と、同時に金田一耕助は大きく眼をみはって、思わず息をはずませたのである。  女の腋の下にはもうひとつの顔がある。  もっとも大きさはふつうの人間の顔よりよほど小さく、野球のボールくらいである。しかし、それはたしかに人間の顔……それも女の顔のようである。  眼、鼻、口……と、死人のように妙にふやけた顔だったが、まぎれもなく人間の顔の諸器官を、のこらずそなえているではないか。      三 「金田一先生」  と、磯川警部は呼吸をのむように、 「よく小説や物語なんかに|人《じん》|面《めん》|瘡《そう》というのがありますが、ひょっとするとこれがそうではないでしょうかねえ」  磯川警部のそういう声は、押し殺したようにふるえている。なんとなく|咽喉《のど》のおくがむずかゆくなるような声である。  金田一耕助はそれには答えず、無言のまま喰いいるようにその気味悪い|腫《はれ》|物《もの》を|眺《なが》めている。  じっさいそれは世にも薄気味悪い腫物だった。土左衛門のようにぶよぶよとして、|眉《まゆ》|毛《げ》のあるべきところに眉毛がないのが、ある種の悪い病気をわずらっている人間の顔のようである。眼のかたちはありながら、眼球のあるべきところにそれがなかった。|唇《くちびる》をちょっと開いているように見えるのだが、唇のあいだには歯がなかった。  ちょうどそれは|彫塑《ちょうそ》家が人間の首をつくろうとして、なにかのつごうで途中で投げだしたような顔である。そういえばちょうど粘土細工のような顔で、色なども土色をしている。  金田一耕助がそっと指でおさえてみると、ゴムのようにぶよぶよとした手触りだった。 「ふうむ!」  金田一耕助はおもわず太いうなり声を吐き出すと、貞二君のほうをふりかえった。 「このひと、昔からこんなものがあったんですか」  貞二君はギラギラと脂のういたような眼をひからせながら、強く首を左右にふって、 「そんなことしるもんですか」  と、きたないものでも吐きすてるような調子である。 「しっていたら、そんな気味の悪い女、一日だって家におくことじやありません。とっくの昔に|叩《たた》き出してしまってまさあ」  と、恐ろしく残酷な口調でいったが、それでもさすがに気がとがめるのか、こんどは急に弱々しい口調になって、 「しかし、そういえばこの夏頃から、松代はほかの女といっしょに風呂へ入ることをきらって、いつも夜おそく、ひとりでこっそり入っていたそうです」 「そうすると、これが妹の由紀ちゃんの呪いというんですかねえ」  金田一耕助はもういちど、その奇怪な腫物を入念にのぞきこんだが、そのときそばから磯川警部が口をはさんで、 「いや、そういえばその顔は、どこか由紀子という娘に似てるようだと、ほかの女中たちがいってるんですがねえ」  金田一耕助はその言葉を聞いているのかいないのか、医者が難症患者を診療するような入念さで、その腫物をしらべていた。  と、そこへあわただしい足音をさせて、男衆らしい男がふたり、提灯をぶらさげたまま障子の外からとびこんできた。 「若旦那、たんへんです。たいへん……」  と、息を|喘《はず》ませていいかけたが、そこにいる金田一耕助に気がつくと、はたとばかりに口をつぐんでたがいに顔を見合せている。 「いいんだ、いいんだ、|万《まん》|造《ぞう》」  と、貞二君はもどかしそうに腰をうかして、 「由紀ちゃんのいどころはわかったのか」 「は、はい……」 「いいんだ、いいんだ。こちらは構わないかたなんだ。由紀ちゃんはどうしたんだ。いったいどこにいるんだ」  と、まるで|噛《か》みつきそうな調子である。 「はい、あの、それが……」 「それがいったいどうしたというんだい。もっとはっきりいわないか」 「はい、あの、すみません」  と、万造はあまりすさまじい貞二君の権幕に、いっそうおどおど度を失って、 「あの……|稚《ち》|児《ご》が|淵《ふち》に死体となってうかんでいるんです」 「稚児が淵に死体となって……?」  貞二君ははじかれたように立ちあがった。金田一耕助と磯川警部はおもわずぎょっとした眼を見交わせた。  そして、つぎのしゅんかん三人の眼はいっせいに、そこに昏睡している松代のほうへ注がれた。それじゃやっぱり松代が殺したのか……? 「へえ、あの、しかも由紀ちゃんは、素っ裸で水のなかに浮いてるんです」  金田一耕助はしずかに女の胸をかくすと、磯川警部のほうをふりかえって、 「警部さん、あなたお出掛けになるんでしょう」 「はあ……あの、それはもちろん……」 「そう、それじゃわたしもお供しましょう」 「先生、どうも恐縮です。せっかく御静養にいらしたのに、またとんでもないことがもちあがっちまいまして……」 「いいですよ。ちょっと考えるところがありますから……」  金田一耕助は松代の顔から貞二君のほうへ視線をうつすと、 「貞二さん、君も出かけるんでしょう」 「はあ……そ、それはもちろん」 「そう、それじゃちょっと待っていてください。警部さんとふたりで支度をしてきますから……ああ、そうそう、それからこの患者ですがね。みんな出かけたあとで、うっかり意識をとりもどして、また無分別を起すといけませんからだれか気の利いたものをつけておいてください」 「はあ、あの、それは大丈夫です。まもなく先生がきてくださると思いますから」  こういう山奥の湯治場だから、医者までそうとう遠いのである。 「ああ、そう、それじゃ、警部さん」 「承知しました。それじゃ貞二君、ちょっと待ってくれたまえ」  もとの座敷へかえって支度をするあいだも、磯川警部はしきりに恐縮していた。 「金田一先生、表はそうとう寒いですよ。そのおつもりでお支度をなさらなきゃ……」 「はあ、二重廻しを着ていきましょう」 「そうなさい。わたしもレーン・コートを着ていきますから」  磯川警部はそうとうくたびれた背広のうえにレーン・コート、金田一耕助は例によって例のごとく、よれよれのセルの|袴《はかま》に足をつっこんだうえに、さいわい用意してきた|合《あい》トンビを肩にひっかけて、もとの女中部屋へかえってくると、松代の枕もとに夜具をつみかさねて、|肥《ふと》り|肉《じし》の老婆がひとりよりかかっていた。  それを見ると磯川警部は眼をまるくして、 「おや、御隠居さん、あんたが付添いをなさるんですかな」 「はあ、あの……これがあまり|不《ふ》|愍《びん》でございますから、せめてお医者さんがお見えになるまでと思って、貞二にここへつれてきてもらいました。そちらの先生もご苦労さまでございます」  半身不随のお柳さまは、重い口で|挨《あい》|拶《さつ》をすると、不自由なからだを動かして、それでもキチンと|坐《すわ》りなおした。 「ああ、そうそう、金田一先生、ご紹介しておきましょう。こちらがここの御隠居のお柳さま、御隠居、こちらがいつもわたしがお|噂《うわさ》している金田一先生」  磯川警部はこの薬師の湯とは遠縁にあたっているとかで、祝儀不祝儀にやってくるので、この家の内情にはそうとう精通しているのである。  お柳さまが改めてくどくどと挨拶をするのを、金田一耕助がほどよく応対しているところへ、貞二君も支度をして出てきたので、万造をさきに立てて一同は薬師の湯を出た。  時刻はもう真夜中を過ぎて暁ちかく、なるほど外はそうとう冷えこむのである。月ももうだいぶん西に傾いていた。  稚児が淵は薬師の湯から直線距離にして、五、六丁下手に当っているが、これを街道づたいにいくと、道が曲りくねっているので二十分はかかるのである。しかし、お柳さまの隠居所のすぐ下をながれている谿流の|磧《かわら》づたいに歩いていくと、わずか数分の距離だという。  それを聞いて金田一耕助は、磧づたいの道をいくことを提案した。 「先生、危いですよ。大丈夫ですか。石ころ道なんですが……」 「なあに、大丈夫ですよ。月が明るいから|提灯《ちょうちん》もいらない」  磧へおりるまえにふりかえってみると、さっき金田一耕助がのぞいていた廁の窓が、すぐ鼻先に見えている。  松代もこの道をいったのだ。  月がもうだいぶん西に傾いているので、谿谷は片かげりになっているが、金田一耕助の歩いていく磧のこちらがわは、提灯の灯りもいらぬくらい明るいのである。  時刻はもう三時をまわっているので、二重まわしをはおっていても、山奥の夜の風は肌につめたかった。  金田一耕助は磯川警部と肩をならべて、わざと貞二君たちの一行と、すこしおくれて磧の石ころを渡りながら、 「警部さん、貞二君というのはどういうんです。松代という女にたいして、なにかおだやかならぬ感情をふくんでいるようですが……」  磯川警部もくらい眼をしてうなずくと、 「さあ、そのことですがね。わたしもちょっと意外でした。あれはむしろ貞二という男の、自責の念のぎゃくのあらわれじゃないかと思うんですがね」 「自責の念といいますと……?」 「いえね、貞二は後悔してるんですよ。松代にすまぬと思っているんです。しかし、男の意地として、すなおにそれが表明できないんでしょう。貞二というのは元来あんな男じゃない。わたしは子供のじぶんからしってますが、ごく気性のやさしい男なんです。もっとも、ちかごろ魔がさしたといえばいえますがね」 「貞二君はなにか松代に……」 「ええ、松代というのはいちど貞二の嫁ときまっていた女なんです。隠居もそれを希望し、貞二もひところは松代が好きだったはずなんです。それが、由紀子という妹があらわれてから、なにもかもむちゃくちゃになってしまったんです」 「貞二君は妹のほうが好きになったというわけですか」 「ええ、まあね。由紀子という女が貞二を|横《よこ》|奪《ど》りしてしまったんですね。話せばまあ、いろいろあるんですが……」  磯川警部はいかにもにがにがしげなくちぶりだった。 「ときに、警部さん」  しばらくしてから金田一耕助がまた口をひらいた。 「松代という娘のあの|腋《わき》の下の奇妙な|腫《はれ》|物《もの》ですがねえ。あなたはもちろんああいうこと、ご存じなかったんでしょうねえ」 「しりませんでした」  と、警部は身ぶるいをするように、大きな呼吸をうちへ吸うと、 「金田一先生、いったいあれはどういうんでしょう。人面瘡というのは話に聞いたことがありますが、なんだか気味が悪いですねえ」 「さっきの貞二君の話によると、松代君はこの夏頃から、ほかの女中といっしょに風呂へ入ることをきらって、夜おそくこっそりひとりで入浴していたといってましたね」 「そうそう、そんな話でしたが、それがなにか……?」 「いや、と、いうことは夏頃までは松代という娘も、ほかの女中といっしょに風呂に入っていたということになりますね」 「あっ、なるほど。すると、ああいういまわしい出来物ができたのは、夏よりのちということになるわけですね」 「そうです、そうです。いったい医者はあの腫物を、どういうふうに説明しますか。……とにかく変っておりますねえ」  金田一耕助はそれきり黙って考えこんだ。  しばらくいくと、磧はにわかにせまくなって、そこからはどうしても街道へあがらなければならなくなっている。  そのあがりくちで貞二君と万造が提灯をぶらさげて待っていた。そのへんから月の光と縁が切れて、むこうの山の陰へ入るのである。  街道へ出ると稚児が淵はすぐだった。  土地のひとが|天《てん》|狗《ぐ》の鼻と呼んでいる大きな一枚岩が、街道からすこし入ったところに張り出している。その下がふかい淵になっていて、土地のひとはそれを稚児が淵とよんでいる。  稚児が淵はいまはんぶんは月に照らされ、はんぶんは月にそむいて、明暗ふたいろに染めわけられて、しいんとふかい色をたたえている。  天狗の鼻の突端には、おとなの|臍《へそ》くらいの高さに|木《もく》|柵《さく》がめぐらせてあり、その木柵のこちらがわに、五つ六つの人影が、なにか声高にしゃべっていた。  貞二君はそれを見ると急に足をはやめた。金田一耕助と磯川警部もそのあとから足をいそがせた。 「ああ!」  天狗の鼻の木柵は一部分凸型になってつきだしている。ひとをかきわけてその凸部へ踏み出した貞二君は、その木柵に手をかけて、淵のなかをのぞきこみながら、うめくような声を咽喉のおくから|搾《しぼ》りだした。  金田一耕助と磯川警部も、貞二君の背後から淵のなかをのぞきこんだが、ふたりとも思わずあらい息使いをした。  月光に染め出された稚児が淵の、にぶく底光をはなつ水のなかから、針のような岩がいっぽん突出している。  土地のひとはその岩を稚児の指と呼んでいるが、その稚児の指のすぐそばに、女がひとりうかんでいる。しかも、その女は一糸まとわぬ全裸であった。月の光に女の裸身がまばゆいばかりにかがやいていた。  稚児が淵の水は、稚児の指をめぐって、ゆるやかに旋回しているらしく、女の裸身も木の葉のようにゆらりゆらりと、突出した岩の周囲をめぐるのである。月の光に女の裸身が、おりおり、魚の腹のような光を放った。  それは美しいといえば美しい、残酷といえばこのうえもなく残酷な眺めであった。  貞二君は|爪《つめ》も|喰《く》いいらんばかりに木柵をつかんで、やけつくような視線で女の裸身をみおろしていたが、とつぜん金田一耕助と磯川警部のほうをふりかえると、 「あいつだ、あいつだ、あいつがやったのだ!」  と、|噛《か》みつきそうな調子である。 「貞二君、あいつというと……?」 「火傷の男だ! 顔に火傷のひきつれがある男がやったのだ!」 「火傷の男……?」  磯川警部ははっとしたように、金田一耕助をふりかえったが、そのとたん、 「危い!」  と、叫んで金田一耕助が、貞二君の腕をつかんでうしろへひきもどした。  引きもどされた貞二君の腹の下から、木柵が一間あまり、大した音も立てずに、淵のなかへ|顛《てん》|落《らく》していったのである。  一同は|茫《ぼう》|然《ぜん》たる眼で、水面へ落下していく木柵をみつめている。      四  金田一耕助はまたいそがしくなりそうだった。  この男はよっぽど貧乏性にうまれついているとみえて、ゆっくり静養もできないように、いたるところに事件が待ちうけているらしい。ことにこの事件のばあい、かれはひとかたならぬ興味と好奇心にもえていた。松代の腋の下にあるあの奇怪な肉腫に、かれはこのうえもなく興味をそそられるのだ。  |人《じん》|面《めん》|瘡《そう》。——  人面の顔をした肉腫に関する伝説は、日本にも中国にも、古くから語りつたえられている。なかには人面瘡が人間の声で歌を歌ったなどという、奇抜な伝説さえのこっているが、それらの多くはとるに足らぬ浮説で、科学的にはなんの根拠もなさそうだった。  たまたま、肉腫に生じた|皺《しわ》や凸凹が、眼、鼻、口に符節しているところから、そのような伝説が生じたのであろう。  ところが、ゆうべ金田一耕助の見た人面瘡は、そんな怪しげなものではなさそうだった。  ふたつの眼は単純な皺などではなくて、はれぼったい|瞼《まぶた》をひらけば、そこに水晶体の眼球があるにちがいないと思われた。  鼻も偶然の凸所などではなくて、不完全ながら、ふたつの|鼻《び》|孔《こう》をそなえているように見えるのだ。  唇もいろこそ悪いが、たしかに人間の唇のようにみえ、それを開くとそのおくに、歯なみがあるのではないかと思われた。  それでいてその顔は、野球のボールくらいの大きさなのである。  南洋の土人のなかには、人間の生首を保存する方法をしっている種族がある。  それには|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》を抜きとってしまうのである。頭蓋骨をぬかれた首は、野球のボールくらいの大きさに収縮するが、それでもなおかつ、もとの顔のかたちを完全に保っているのである。  金田一耕助もある大学の医学教室に、そういう生首の標本が保存してあるのをみたことがあるが、ゆうべ見た松代の人面瘡からうける感じは、そういう生首によく似ていた。  昨夜——と、いうより今暁思わぬ活躍をした金田一耕助は、明方ごろやっと眠りについて、眼が覚めたのは十一時ごろだった。  朝昼兼帯の食事をすませた金田一耕助が、縁側へ|籐《とう》|椅《い》|子《す》をもち出して新聞を読んでいると、|谿流《けいりゅう》の音にまじって、どこかで|蝉《せみ》がないているのが聞える。夜は冷えこむが日中はまだまだ暑いのだ。  新聞にはべつに変ったことも出ていなかった。金田一耕助はそれを小卓のうえに投げ出すと、ぼんやりとゆうべ見た人面瘡のことを考えていたが、そこへ磯川警部が庭のほうから汗をふきながらやってきた。 「やあ、お早うございます」 「お早う……と、いう時刻じゃありませんがね」  と、金田一耕助は白い歯を出してわらいながら、 「警部さんはゆうべ眠らなかったんでしょう」 「はあ。……でも、こんなこと慣れてますからな」  と、磯川警部は赤く充血した眼をショボショボさせながら、それでも元気らしく、金田一耕助のまえの籐椅子にどっかと腰をおろした。 「お元気ですねえ。警部さんは……ぼくはどうも睡眠不足がいちばんこたえます。意気地がないんですね」 「なあに、こちとらは先生みたいに脳ミソを使いませんからな。頭を使うひとにゃ睡眠不足がいちばん毒でしょう」 「ときに、|検《けん》|屍《し》は……?」 「はあ、いますんだところです」 「死因は……?」 「解剖の結果をみなければ厳密なことはいえないわけですが、だいたいにおいて、|溺《でき》|死《し》と断定してもよろしいでしょうねえ」 「解剖はいつやるんですか」 「きょうの午後、ここでやることになってるんですが……金田一先生」 「はあ」 「またお手伝いねがえるでしょうねえ」 「まあね。ぼくでお役に立つことでしたら……それはまあ、そのときのことにしましょう。ところで溺死ということにして、他殺か自殺か過失死か……と、いうことはまだハッキリしないわけですか」 「はあ、そこまではまだ断定できませんが、ここにちょっと妙なことがあるんです」 「妙なこととおっしゃると……?」 「あの稚児が淵の周囲のどこからも、由紀子の着物が発見できないんです」 「ほほう」 「あの女、まさかここから裸であそこまで、のこのこ出向いていったわけじゃないでしょうがねえ」 「なるほど、それは妙ですね」 「はあ、それから、もうひとつ妙なことがあるんです」 「もうひとつ妙なことというと……?」 「いや、あの顛落した木柵ですがねえ。あれはやっぱり鋭利な|鋸《のこぎり》かなんかでひききってあったんです。つまりだれかがもたれると、淵のなかへ落ちるように仕掛けてあったんですね。しかも、鋸でひききったあとを、黒くぬってゴマ化してあるんです」 「なるほど」 「まあ、そういうところから見ると、他殺の|匂《にお》いもするんですが、と、いって、由紀子がその|罠《わな》に落ちたとも思えないんです。あなたもご存じのとおり、木柵は貞二君がもたれるまで、ちゃんとしていたんですからね。しかし、だれかがだれかを陥入れるために、あの木柵をひききってあったことはたしかですからね」 「なんだか複雑な事件のようですね」 「そうなんですよ。一見なんでもないような溺死事件に見えてますが、その底にはなにやらえたいのしれない複雑な事情がひそんでいるようです。だから、金田一先生」 「はあ」 「ひとつまたご協力願いたいんですが……」 「承知しました。それで、死体の状態は……?」 「それがまたふしぎでしてねえ」  と、磯川警部は|眉《まゆ》をひそめて、 「あの稚児が淵というのは表面はあのとおりおだやかですが、水面下には岩がいっぱいあるんだそうです。しかも、底のほうにはかなり急な|渦《うず》がまいているんですが、由紀子はその渦にまきこまれたとみえて、全身にひどい|擦過傷《さっかしょう》をうけています。なかには肉のはじけたところもあり、そりゃ眼もあてられない死にざまです」  と、磯川警部はいまわしそうに眉をひそめて、 「もっとも、それらの傷はぜんぶ死後できたものですから、当人としてはべつに苦痛は感じなかったでしょうがねえ」 「このへんのひとたち、あそこで泳いだりすることがあるんですか」 「ああ、そうそう、そのことですがね。だいたい稚児が淵というのはいまいったとおり、そうとう危険な場所ですから、男はともかく女はぜったいに泳いではならぬと、昔からいわれているんです。女が泳ぐときっとたたりがあるというんですね。ところが由紀子という女がアマノジャクで、みんながとめると、よけい面白がって泳ぐというふうだったそうです。だから、いまにたたりがあるぞと、土地のものがいってるところへ昨夜の事件ですから、てっきり稚児が淵のぬしのたたりだというんですよ。田舎のものは単純ですからね」 「泳ぎにいって溺れたにしても、着物のないのが妙ですね。ああいうところで泳ぐばあい、だいたい着物をぬぐ場所はきまってるんでしょう」 「ええ、そう、きのう|磧《かわら》から街道へあがっていったでしょう。あの磧をもう少しいったところで、由紀子はいつも着物をぬいでいたそうですが、それが見当らないんですね」 「それで、溺死の推定時刻は……?」 「昨夜の九時ごろ……九時を中心として、前後の一時間くらい幅をもたせた時刻だろうというんですがねえ」 「すると、昨夜の八時半から九時半までのあいだということになりますが、そんな時刻に女が泳ぎにいくというのはねえ」  金田一耕助は昨夜、廁の窓から松代のすがたを目撃した時刻を思い出していた。  あれはたしか午前一時ごろのことだったが、してみると、あの時刻の松代の行動と、由紀子の溺死とのあいだには、直接にはなんの関係もないわけだ。 「ところで、松代は由紀子の死の責任がじぶんにあるように考えているようですが、その時刻……由紀子が溺死したと思われる時刻における松代の行動は……?」 「さあ、それが妙ですよ。昨夜、松代はわたしたちの座敷につききりでしたよ」  じつは昨夜、金田一耕助と磯川警部は名月を|賞《め》でながら、柄にもなく運座としゃれこんだのである。その席には貞二君もつらなっていた。 「あの娘はおとなしくて目立たないから、先生はお気づきだったかどうですか、終始この座敷にいましたよ」 「いや、それはわたしも気がついてましたよ。じぶんも俳句が好きだとかいってましたね」 「ええ、そう、ですから、あの娘が直接手をくだして、由紀子を殺したというのはおかしいんです。なにかそこに事情があることはあるんでしょうがねえ」 「貞二君は火傷の男が怪しいとかいってましたね。ありゃ、いったいどういう男なんです?」 「ああ、あの男……あれは|田《た》|代《しろ》|啓《けい》|吉《きち》といって大阪からきてるんですが、由紀子の昔の|識合《しりあ》いらしいんですね」 「なるほど、すると、由紀子を追っかけてきた……と、いうわけですかね」 「まあ、そこいらでしょうねえ。ときおり、由紀子とひそひそ話をしているのを見たものがあるといいますし、それに、あの男がきてから、由紀子はすっかりヒステリックになっていたと、ほかの奉公人たちもいってるんです」 「それで、その男のアリバイは……?」 「ところが、それがちゃんとあるんですね。女中がふたり宵から十二時ごろまで、あの男の部屋でおしゃべりをしていたというんです」 「なるほど、それじゃ……」 「ええ、それほどふかい|馴《な》|染《じ》みでもない客のために、女中がふたりまで、偽証するとは思えませんしねえ」 「貞二君は昨夜、われわれといっしょにいましたねえ」  金田一耕助はしばらく黙ってかんがえていたが、やがて思い出したように、 「由紀子は昨夜、なにをしていたんですか」 「はあ、あの娘はちかごろ眼をわずらっていて、客のまえへは出ないことにしていたそうです。それに貞二との問題がこじれているところへ、なにかひっかかりのあるらしい田代という男がやってきたりしたので、すっかりヒステリーを起していたんですね。ちかごろはとかく部屋にひっこもりがちだったというんですが、まあ、そうでなくてもムシャクシャしているところへ、眼が悪くなっちゃ、いっそう憂うつになるわけでしょう」 「ここの湯は眼病にきくというのに、どうして眼をわずらったりしたのかな」 「それも稚児が淵で泳いだたたりだっていってますよ。田舎のものはたあいがありませんからね。あっはっは」  金田一耕助はゆっくりとたばこを吸いつけた。それからしばらくよく晴れた空へまいあがる、煙のゆくすえを眺めていたが、やがておもむろに磯川警部のほうへむきなおった。 「それじゃ、さいごに貞二君を中心とした、松代と由紀子の三角関係についてきかせていただきましょうか」 「承知いたしました」  金田一耕助の質問に応じて、磯川警部の語って聞かせた事情というのは、だいたいつぎのとおりである。      五  松代が薬師の湯へ女中として住み込んだのは、昭和二十年六月、戦争がまだたけなわのころだった。  彼女ははじめから女中としてここへやってきたのではない。三月の大空襲で大阪を焼出された彼女は、ほとんど着のみ着のままの姿で、郷里の岡山県へ疎開してきたらしい。  しかし、当時の都会人と農村のひとたちとのあいだには、とかく意志の|疏《そ》|通《つう》をかいていた。農村のひとたちもいいかおをしていれば、つぎからつぎへと疎開してくる都会の連中に、喰いつぶされるおそれがあった。  物質でももっていればともかくも、松代のように着のみ着のままの疎開者は、農村としてももっとも迷惑な存在だった。けっきょくどこへいってもあたたかく松代を迎えいれてくれる家はなかったらしく、彼女はまるで乞食のように諸処方々を転々しなければならなかった。  そして、絶望のあまり自殺一歩手前の心境で、|辿《たど》りついたのがこの薬師の湯である。  当時、薬師の湯は軍に徴用されて、傷病兵の療養所になっており、いくら手があっても足りない状態だった。  そのじぶん女あるじのお柳さまはまだ達者だったが、良人はとっくの昔に故人になっており、ひとり息子の貞二君は兵隊にとられて満州にいた。だから、しっかりもののお柳さまが三人の女中をあいてに、てんてこまいをしているところへ、ころげこんできたのが松代である。  お柳さまは一も二もなく松代をひろいあげて女中にした。猫の手も足りないくらいの当時の事情では、|氏素姓《うじすじょう》、身許しらべなどしているひまはなかったのである。  使ってみると松代はかげ|日向《ひなた》なくよく働いた。  松代は口数の少い女であった。それとどっか暗いかげを背負うているような|淋《さび》しいところがあるのが難だったが、気性のやさしい、細かいところまでよく気のつく、まめやかな性質が、女あるじのお柳さまの気にいった。  傷病兵たちのあいだでも人気があって、松代はひっぱりだこだった。淋しいところを難としても、松代は美人でとおるに十分な器量の持主だった。傷病兵の二、三から求婚されたという|噂《うわさ》もあったくらいだ。  やがて戦争がおわって、薬師の湯が昔の経営状態にかえっても、松代はひまをとろうとしなかった。お柳さまもまた松代を手ばなそうとはしなかった。  お柳さまは日ましに松代がかわいくなり、いつか、貞二が復員してきたら……と、楽しい夢想をえがくようにさえなっていた。  ただ、それにたいして大きな障害となったのは、松代の|素姓《すじょう》がわからないことだった。  どういうわけか、松代はどんなに訊かれても、じぶんの素姓を打ちあけようとしなかった。故郷が岡山のどこなのか、大阪でなにをしていたのか、いっさい口をつぐんで語ろうとはしなかった。  あんまりしつこく訊くと泣き出すしまつで、どうかすると熱を出して寝ついたりした。なにかしら過去について、よほどひとにしられたくないことがあるらしく、あんまりそれを追求すると、ひまをとって出ていきそうにするのだった。  それがお柳さまにとっては不安の種だったが、しかし、そのことを除いては、松代のすべてがお柳さまの気に入っているので、彼女に出ていかれては困るのであった。  松代が前身をひたかくしにしていることに、絶えず不安と|危《き》|懼《く》をかんじながらも、お柳さまはやはり松代にたいする信頼をうしなわなかった。  長いあいだ湯治宿を経営していて、いつも数人の奉公人を使ってきたお柳さまは、ひとを見る眼をもっているという自負があった。  だから、松代が過去をかくしているにしても、松代自身に罪科があろうなどとは思えなかった。なにかしら大きな不幸に見舞われて、それを口にするのを潔しとしないのであろうと、お柳さまはかえって松代をいとおしがった。  ことに昭和二十二年の秋、中風で倒れてからというものは、いよいよ松代が手ばなせないものになってきた。お柳さまが倒れたのは、やはり、いつ復員するともわからぬ貞二君の身を思いわずらったからであろう。  松代はじっさいよく働いた。お柳さまにもよく仕えてその面倒も見た。少しもいやな顔もせず、お柳さまのおしもの始末までした。  いっぽう温泉宿の経営も常態に復して、客もだんだん多くなった。松代はそのほうでも骨身を砕いてはたらいた。  いまでは松代は、薬師の湯ではなくてはならぬ存在になっていた。  そこへ待ちに待った貞二君がシベリヤから復員してきた。それが去年の秋のことで、お柳さまのよろこびはいうまでもないが、さらに彼女をよろこばせたのは、かねて彼女がいだいていた夢想が、どうやら実現しそうな気配になってきたことである。  貞二君はすさんでいた。|苛《か》|烈《れつ》な戦争から戦後の|抑留《よくりゅう》生活が、貞二君の心をかたくなにし、すさんでとげとげしいものにしていた。その冷えきった魂に人間らしい温味を吹きこんでいったのは松代の存在だった。  貞二君は母のそばに意外にうつくしいひとを発見し、そのひとの母に対する献身的な、やさしい心使いのかずかずを見るにつけて、とげとげしく冷えきった心もしだいになごんでくるのを覚えた。  ちょうど春の氷がとけていくように、かれの魂にも愛情という暖い日差しが訪れてきた。ひかえめながらも、松代の貞二君をみる眼にも、しだいにもの思わしげないろがふかくなってきた。  お柳さまにとってはそれこそ思う|壺《つぼ》だった。  若いふたりのあいだに愛情が芽生え、育っていくということは、年老いた母にとってはこのうえもない喜びであると同時に希望でもあったが、ここでも難点は松代の素姓がハッキリしないということだった。  薬師の湯は温泉宿とはいえ、由緒正しい家柄だった。どこの馬の骨とも牛の骨ともわからぬものを嫁にするわけにはいかなかった。ましてや、過去に暗いかげを背負うているとあってはなおさらのことだった。  それにもかかわらず松代は依然として、その過去について口をわらなかった。  このことが障害となって、三人が三人ともこの縁談に心がすすみながら、奥歯にもののはさまったような日がつづいた。  ところがそこへとつぜん、新しい事態がもちあがって、がらりと局面が一変した。それが由紀子の出現である。  ある日、とつぜん姉を頼って、由紀子がたよってきたときの、松代のおどろきようったらなかった。松代をあんなに信頼しているお柳さまでさえ、そのときの松代の態度ばかりは|腑《ふ》に落ちなかった。妹が訪ねてきたというのに、松代はまるで幽霊にでも|出《で》|逢《あ》ったように、まっさおになってふるえていた。いまにも気をうしなって倒れそうな眼つきをした。  しかし、由紀子はいっこう平気で、しゃあしゃあとしてこんなことをいっていた。  終戦後、じぶんは神戸や大阪のバーやキャバレーで働いていたが、どこへいっても思わしくないおりから、風のたよりに姉がここにいるときいたからとんできた。都会はもういやになったから、ここで女中に雇ってほしいと。  そうして由紀子はそのまま薬師の湯に住みついたが、この由紀子の口からはじめて松代の素姓がわかってきたのである。  松代はおなじ岡山県のO市でも、有名な菓子の司、福田家の長女にうまれた。  福田屋というのは江戸時代からながくつづいた|老舗《しにせ》で、そこで売出す宝|饅頭《まんじゅう》というのは、岡山でもなだかい名物になっていた。ところが、戦争中砂糖の輸入が|杜《と》|絶《ぜつ》したころから、しだいに店が左前になって、いまではすっかり没落している。  松代はしかしそのまえから、神戸にある親戚の|葉《は》|山《やま》といううちへあずけられていた。  葉山家の次男|譲治《じょうじ》というのと縁談がまとまっていて、松代はそこへ花嫁修業のためにひきとられていたのだ。当時、譲治は私立大学の機械科を出て、航空機会社の技師をしていた。  ところがそこへ福田家の没落がやってきて、にっちもさっちもいかなくなったところから、妹の由紀子も葉山家へあずけられることになった。  そこで葉山家では家が手狭になったところから、つい近所にもう一軒かりて、そこへまだ式はすんでいなかったけれど、譲治と松代を住まわせ、由紀子もそのほうへ預けられていた。  そこへ昭和二十年三月のあの大空襲がやってきたのだ。不幸にも葉山家のある付近一帯は猛火につつまれ、譲治は火にまかれて死んだ。そして、松代もそれ以来、ゆくえがわからなくなっていたというのが由紀子の話なのである。  お柳さまはこの話をきいてひどくよろこんだ。福田屋といえば薬師の湯に劣らぬ名家であった。そこの娘ならば家柄としても申分なかった。  ただ、お柳さまにとって|腑《ふ》に落ちないのは、なぜそのことを松代がひたかくしにかくしていたかということである。由紀子の話が真実とすれば、そこにはべつに秘密にしなければならぬ理由は、いささかなりともなさそうに思われる。それがお柳さまにとっては不思議であった。  しかし、それも考えようによっては、女のせまい心から、福田屋の娘ともあろうものが、温泉宿の女中などしていることを恥じたのかもしれない。  それともうひとつ考えられるのは、松代と譲治とのあいだに、もっと深い関係があったのかもしれない。たとえ婚約のあいだがらとはいえ、まだ式もすまぬうちに、そういう関係になっていたのを、ものがたい松代は恥として、それを知られることを恐れていたのではあるまいか。……  しかし、それもあいてが死んでしまったいまとなっては、なんの障害があろうか。むろん処女でないというのは残念だが、おたがいに好きあっていれば、それもたいして問題にはならないだろう。  そこでお柳さまは手をまわして、福田屋のことを詳しく調べてみたが、由紀子の話にすこしも間違いはなかった。  松代はたしかに福田屋の長女であり、葉山譲治という婚約者があったが、それも三月の神戸の大空襲で死亡したということも、ハッキリたしかめることができた。その譲治と肉体的に関係があったかなかったか、そこまではたしかめようもなかったが。……  これで貞二君との結婚に、なんの障害もないことになったので、お柳さまは大喜びだったが、そこへまた思いがけない障害が持ちあがって、お柳さまを失望のどん底へ|叩《たた》きこんだ。  由紀子と貞二君がひとめをしのんで、おくの|納《なん》|戸《ど》や土蔵へひそむようなことが、おいおいひとめについてきた。  由紀子というのは姉とちがって、派手で、明るい美貌の持主だが、気性も大胆で、積極的だった。キャバレーやダンス・ホールを渡りあるいてきているだけに、男の心をかきみだすコケティッシュなところもたぶんにそなえていた。そういう女にかかっては、貞二君のごときはひとたまりもなかった。  由紀子は貞二君と姉との関係、お柳さまの気持ちなど、百も承知のうえで、貞二君を誘惑したらしい。  それ以来、薬師の湯にはいざこざが絶えなかった。お柳さまと由紀子とはことごとにいがみあった。しかし、由紀子はお柳さまがどんなにいきり立とうと平気だった。  いちど関係ができてしまうと、貞二君はもう由紀子に頭があがらなかった。由紀子の歓心をかうために、貞二君は日夜きゅうきゅうたるありさまだった。貞二君をすっかり|自《じ》|家《か》|薬《やく》|籠《ろう》|中《ちゅう》のものにまるめこんだ由紀子は、じじつ上薬師の湯の女あるじとしてふるまった。半身不随のお柳さまなど眼中になかった。いわんや松代においておやである。  いちど貞二君の嫁として予定されていた松代は、またもとの女中の地位に|蹴《け》|落《おと》されて、妹の虐使に甘んじなければならなかった。彼女は妹にどんなに口ぎたなくののしられても、黙々として立働いた。  貞二君は心中どう思っていたかわからない。あるいはお柳さまにすまない、松代に悪いと|煩《はん》|悶《もん》していたのかもしれない。しかし、貞二君のような気の弱い男は、いちど関係ができてしまうと、女に頭のあがらないものである。  由紀子とのあいだに夜毎展開される肉の饗宴が、貞二君の身も心もただらせ、すさませ、貞二君からすっかり理性をうばってしまった。どうかすると昼間から抱きあって、あたりはばからぬ法悦に、のたうちまわっているふたりの姿を、奉公人たちが目撃して、顔を赤くするようなことも珍しくなかった。  こうしてただれたふたりの関係が、一種異様な雰囲気を薬師の湯へただよわせているところへ出現したのが、あの顔半面に大火傷のある田代啓吉という男である。そして、そのことがまた局面を一変してしまったのだ。  一週間ほどまえ、田代啓吉という火傷の男が薬師の湯へやってきたときの、由紀子のおどろきといったらなかった。それはちょうど由紀子がはじめてここへやってきたときの、松代のおどろきにも似ていた。  由紀子はひどくおびえがちになり、ヒステリックになった。たまたま以前から患っていた眼病が悪化したことも手伝って、彼女はめったにじぶんの部屋から出なくなり、貞二君が押しかけていっても、まえのように|媚《こ》びをたたえて迎えるようなことはなく、かえってぎゃくに、剣もホロロに追いかえした。  そのことが貞二君をいらだたせ、粗暴にし、なにかしら突発しなければやまぬような、険悪な雲行きになっているところへ持上ったのが、昨夜の由紀子の変死事件であった。…… 「なるほど」  と、磯川警部の長い話をききおわった金田一耕助は、考えぶかい眼付きでうなずきながら、 「それで、貞二君は田代啓吉という男を疑っているんですか」 「そうです、そうです。ところがその田代にはアリバイがある……」 「いったい、その田代という男は由紀子とどういう関係があるんです。それはまだわかっていないんですか」 「はあ、それはあとで訊いてみようと思ってるんですが、由紀子がああなったいまとなっては、素直に泥を吐きますかね」 「ああして大火傷の跡があるところをみると、なにか空襲に関係があるんじゃないでしょうかねえ」 「いや、わたしもそれを考えてるんですがねえ」 「松代の婚約者だった葉山譲治という男は、三月の神戸の大空襲で死亡したということでしたねえ」 「はあ。……金田一先生はあの男を葉山譲治だとお考えですか」 「いや、いや、葉山ならば由紀子よりむしろ松代のほうがおどろくはずですからねえ」  金田一耕助はしばらく黙って考えこんでいたが、やがてまた磯川警部のほうをふりかえると、 「ときに松代の容態はどうですか。まだ話ができる状態じゃないんですか」 「はあ、けさがた意識を取りもどしましたが、まだひどく|昂《こう》|奮《ふん》しているものですから……」 「ああ、そう」  金田一耕助はそのまま黙って、庭にそそぐすすきの穂に眼をそそいでいた。  日差しはまだ暑かったが、秋はもうそこまで忍びよってきているのである。      六  その午後、岡山市から出張してきたT博士執刀のもとに、由紀子の解剖が行われたが、かくべつ|検《けん》|屍《し》の結果をくつがえすような材料も発見されなかった。  由紀子の死因はたしかに|溺《でき》|死《し》で、その時刻も昨夜の九時前後と断定された。  しかし、溺死と断定されたといっても、そこから一足飛びに、自殺か他殺か、それとも過失死か、そこまでは決定するわけにはいかなかった。  不思議なことには、きのう着ていた由紀子の着物は、家の内からも外からも発見されず、それが|一《いち》|抹《まつ》の疑惑として取りのこされた。しかし、繊維品が貴重品扱いされる当節のこととて、だれかが由紀子の脱ぎすてた衣類を、こっそり持ち去ったのかもしれなかった。こういう山の奥のひなびた山村でも、油断もすきもない時代なのである。  解剖の結果をきいて金田一耕助と磯川警部が一服しているところへ、貞二君がしずんだ顔をしてやってきた。 「先生」  貞二君のようすはゆうべからみると、だいぶんおだやかになっている。  いちじの昂奮がおさまったのと、ゆうべ危いところを救われたことにたいする感謝のおもいが、貞二君の態度からいくぶんなりとも、とげとげしさを拭い去ったのであろう。 「貞二君、なにか用……?」  磯川警部は物問いたげな視線をむけると、貞二君はしょんぼりと頭を垂れて、 「はあ、松代が金田一先生と磯川警部さんに、なにかお話し申上げたいことがあるというのです。ぜひ聞いていただきたいことがあるから、ご迷惑でもむこうの部屋へきていただけないかといっているんですが……」  金田一耕助と磯川警部はふっと顔を見合わせたが、金田一耕助はすぐ気軽に立ちあがって、 「ああ、そう、警部さん、それじゃお伺いしようじゃありませんか」  昨夜の部屋へ入っていくと、寝床のうえに起きなおった松代が、|蒼《あお》い顔をしてふたりを迎えた。その顔はいくらか|硬《こわ》|張《ば》っていたが、なにもかも|諦《あきら》めつくしたような平静さがそこにあった。  そのそばの積み重ねた夜具にはお柳さまがよりかかっていて、気づかわしそうに松代の横顔を見まもっていた。  松代は磯川警部の顔をみると、ひくい声で昨夜の応急処置の礼をいった。 「いや、いや」  と、磯川警部は厚いてのひらを気軽にふって、 「それはわしのせいじゃない。あんたの運が強かったんじゃな。しかし、そんなことよりも、なにか話があるということだが、体のほうは大丈夫かな。あんまり無理をせんほうがいいよ」 「はあ、有難うございます。でも、どうしてもみなさんに聞いていただきたい話がございますもんですから……」 「ああ、そう、じゃ、ぼつぼつでいいから聞かせてもらおうか」 「はあ……」  松代は強い決意のこもった眼で、金田一耕助と磯川警部を見くらべながら、 「さきほど貞二さまからおうかがいしたんでございますけれど、由紀ちゃんの死んだのは昨夜の九時ごろのことだということでございますけれど……」 「ああ、そういうことになっている」 「しかし、それ、なにかの間違いじゃございませんでしょうか」 「間違いというと……?」 「いいえ、由紀ちゃんの死んだのはゆうべの九時ごろじゃなく、ほんとうは、けさの一時ごろではないかと思うんですけれど……」  磯川警部は金田一耕助と顔見合せたが、やがておだやかに体を乗りだすと、 「松代君、科学というものをもう少し信用してもらわなければ困るね。けさの検屍の結果も、さきほどの解剖の結果も一致しているんだよ。由紀ちゃんの死んだのは昨夜の八時半から九時半までのあいだにちがいなし」 「はあ……」  と、松代はたゆとうような眼をあげて、磯川警部と金田一耕助の顔を見くらべている。その眼にはかえって不安の色が濃かった。 「しかし、松代君、君はどうして検屍や解剖の結果に疑問をもつんだね。由紀ちゃんの死んだのを一時ごろだと、どうして君は考えるんだね」 「すみません。決してみなさんを信用しないというわけではないのですが……」  松代は瞳に涙をにじませると、溜息をつくように鼻をすすって、 「それじゃ、由紀ちゃんを殺したのはあたしじゃなかったのでしょうか」  と、自分で自分に語ってきかせるようなひくい、思いつめた声である。 「君じゃないね」  と、言下に磯川警部が断定した。 「げんにその時刻には君は、おれたちといっしょにいたじゃないか。おたがいにへたな俳句をつくっていたんだ。そうだろう」 「はい」 「しかし、松代君、君はまたどうしてそんなバカな|妄《もう》|想《そう》をえがいたんだ。由紀ちゃんを殺したのはじぶんだなんて……」 「はあ……」  松代はちょっと鼻白んだようにためらったが、すぐ決心をかためたように、キラキラと涙にうるんだ眼をあげると、 「警部さんも金田一先生も聞いてください。わたしには幼いときから、とてもいやな、|羞《はず》かしい病気がございますの」 「羞かしい病気というと……?」 「はあ……それはこうでございます。なにかひどく心に屈託があったり、また心配ごとがあったりいたしますと、夜眠ってからフラフラと歩きだすのでございます」 「夢遊病……と、いうやつかね」  磯川警部はおどろいたように|眉《まゆ》をつりあげて、金田一耕助をふりかえった。  しかし、ゆうべその現場を見ている耕助はべつにおどろきもせず、松代の顔を見まもっている。お柳さまはあいかわらず気づかわしそうな顔色だった。 「はあ……でも、十四、五のころから、そういうこともしだいに少くなってまいりまして、こちらさまへまいってからは、皆さまにかわいがっていただくせいか、いちどもそういう経験はございませんでした」 「ああ、ちょっと……」  と、金田一耕助がさえぎって、 「そういう発作を起したときには、じぶんでもわかるもんですか」 「はあ、それがなんとなくわかるんでございますの。夢中で歩いてきても眼がさめてから、なんとなくはっと思い当るようなことがございまして……そういうとき、じぶんの着て寝たものや、手脚などを調べてみますと、その痕跡があるんですの。なにかこう、潜在意識下かなにかに、発作を起したという記憶がのこるらしいんですの」 「なるほど、それがこちらへきてからは、そういう経験がなかったんですね」 「はあ、いちども。……ですから、わたしも忘れたつもりでいたんです。ところが、どうでしょう、ゆうべ久しぶりにその発作が起きたらしいんでございますの。いや、起きたらしいんじゃない、たしかに起きたんでございますの」 「それ、どうしてそうハッキリわかるんですか。やはり潜在意識下の記憶かなにかで……」 「いいえ、ゆうべのはもっとはっきりしておりました。眼がさめたときあたしは|稚《ち》|児《ご》が|淵《ふち》のうえの、|天《てん》|狗《ぐ》の鼻のとっさきに立っておりましたから……」 「まあ!」  と、お柳さまは|怯《おび》えたように瞳をおののかせる。貞二君は下唇をかみしめながら、喰いいるようにその横顔を見つめていた。 「それで……」 「ああ、ちょっと待ってください」  と、金田一耕助は言葉をつづけようとする松代を、すばやくさえぎると、 「松代君はなにか稚児が淵か天狗の鼻に、心をひかれることでもあるんですか」 「はあ、あの……」 「いやね、夢中遊行時の行動といえども、かならずしも当人にとっちゃでたらめの行動じゃないと思うんですよ。君はいま潜在意識という言葉をつかったが、夢中遊行時の行動にも、潜在意識下の願望があらわれると思うんだが、君はなにか稚児が淵に……?」 「はあ、あの、そうおっしゃれば……」  と、松代は貞二君の視線を避けるように|瞼《まぶた》をふせると、 「あたし、このあいだから死にたい、死にたいと思いつづけていましたから……ひょっとすると、稚児が淵をその死場所ときめていたのでは……」  ふっさりと伏せた長い|睫毛《ま つ げ》のさきにたまった涙の玉が、ほろりと|膝《ひざ》のうえにこぼれおちる。お柳さまが貞二君のほうをふりかえると、貞二君はただ黙って暗い顔をそむけた。 「なるほど、それじゃ、君は夢中遊行を起して、稚児が淵へ身投げにいったということになるんですね」 「はあ……あの……そうかもしれません」  松代の伏せた睫毛から、またホロリと涙の玉が膝にこぼれた。 「それから……?」 「はあ……それで気がついてみると天狗の鼻のうえに立っておりますでしょう。わたしもうびっくりしてしまいました。いいえ、びっくりしたと申しますのは、天狗の鼻に立っていたということより、またじぶんが夢遊病を起したということに気がついたからでございますわね」 「ああ、なるほど、そりゃそうでしょうねえ」 「それで、あたしすっかり怖くなってあわててひきかえそうとしますと、そのとき、ふと眼についたのが稚児の淵のそばに浮いている白いものでございます。おや、なんだろうと|覗《のぞ》いてみて、それが由紀ちゃんだとわかったときのわたしの驚き!……どうぞお察しくださいまし」  松代は両手で眼頭をおさえると、呼吸をのんで|嗚《お》|咽《えつ》した。  金田一耕助と磯川警部、お柳さまと貞二君の四人はしいんと黙りこんだまま、松代のつぎの言葉を待っている。  松代はまもなく顔をあげると、うつろの眼であらぬかたを視つめながら、けだるそうな声で言葉をつづけた。 「あたしじぶんの部屋へかえってから考えました。はい、考えて考えて考えぬいたのでございます。由紀ちゃんは自殺などするひとじゃありません。と、いって眼病が悪化してから、部屋のなかへ閉じこもったきりでしたから、夜更けて泳ぎにいこうなどとは思われません。と、すると、あたしが殺したのではあるまいか。どういう方法で殺したのかわかりませんが、夢遊病の発作を起しているあいだに、あたしが殺したのではないかと……それで……」 「ああ、ちょっと待ってください」  と、金田一耕助はさえぎると、 「しかし、それはまた考えかたが、あまり飛躍しすぎやあしませんか。ごじぶんの夢中遊行時に、たまたま由紀ちゃんが死んだからって、それをじぶんの責任のように思いこむというのは……?」 「いいえ、それにはわけがあるのでございます」 「そのわけというのを聞かせていただけますか」 「はあ……」  と、松代はあいかわらず、放心したような眼を窓外にむけたまま、 「あたしはまえにもおなじような状態で、由紀ちゃんを殺したことがあるんです。いえいえ、由紀ちゃんはああして生きてかえってきましたけれど、譲治さんはそれきり死んでしまったのです。あたしが……」  と、松代はちょっと嗚咽して、 「あたしが譲治さんを殺したのです。|嫉《しっ》|妬《と》のあまり譲治さんを殺してしまったのです」  涙こそおとさなかったが、松代の顔にはいたましい悲哀のいろが、救いがたい絶望とともにえぐりつけられている。  お柳さまは怯えたように眼を見張り、貞二君は下唇を強くかみ、金田一耕助と磯川警部は顔見合せた。 「松代さん」  と、金田一耕助は膝をすすめて、 「そのときのことを話してくださいますか」  松代はいたいたしく|頬《ほほ》|笑《え》んで、 「はあ、なにもかもお話し申上げる約束でしたわねえ。それではお話しいたしますから、みなさんもお聞きくださいまし」  そのとき松代がとぎれとぎれに語ったのは、つぎのようないたましい話であった。  松代と由紀子はふしぎな姉妹であった。由紀子は幼いときから、姉のものをかたっぱしから横奪りするくせがあった。  両親がふたりになにか買いあたえると、由紀子はいつも姉のぶんまで手に入れなければ承知しなかった。姉の持っているものはすべてよく見え、姉の幸福はすべてねたましく、|羨《うらやま》しかった。そして、じぶんにだいじなものを横奪りされて、悲しそうな顔をしている姉を見るとき、由紀子はこのうえもなく幸福をかんじるらしかった。  ところが松代は松代で、妹にたいしてふしぎな罪業感をいだいていたらしい。それはじぶんでも説明のつかない罪業感だった。  なにかしら、じぶんは妹にたいしてよくないことをしている。妹にたいして致命的なあやまちを犯している。……  考えてみるとなんの理屈もないそういう罪業感が、ものごころつく時分から松代の心を悩ませ、だから、じぶんはその埋合せとして、妹のいうことならばどんなことでも、きいてやらねばならぬと心にきめていた。  それがいよいよ由紀子を増長させたらしい。  福田家が没落して、神戸の葉山家へひきとられると、由紀子はひと月もたたぬうちに、姉の婚約者を奪ってしまった。手っとりばやく彼女は譲治と肉体的関係を結んでしまったのだ。  だから、葉山の両親が式こそすませていないが、じじつ上の夫婦として譲治と松代にあてがった家で、じっさいの夫婦として夜毎のいとなみをおこなっていたのは、譲治と妹の由紀子であった。松代はひとり女中部屋で寝かされた。  譲治はもう松代に見向きもしなかった。以前かれは松代に迫って、さいごのものを要求したことが二、三度あった。  そのとき、式もすまさないうちにそんなことをと、松代がものがたく拒絶したのが、譲治の気にさわっていたのか、由紀子とそういう関係になると、譲治はわざと松代のまえで妹の由紀子とふざけてみせたりした。しかも、そういうことが由紀子の趣味にも合致していたらしい。  由紀子には露出狂の傾向があったらしく、どうかすると譲治を誘って、わざと姉のまえで抱きあってみせ、あられもない痴態をみせつけることによって、よりいっそうの快楽をむさぼっていたらしい。  そういうことが松代の心をきずつけずにはいられなかった。松代の実家も葉山の両親も、ものがたいひとたちだったから、こんなことがわかったら、ただですむはずはなかった。松代はじぶんのこともじぶんのことだが、譲治と妹のために破局のやってくるのをおそれていた。 「その心配が昂じたのでしょうか、忘れもしないあれは三月の大空襲の夜でした。あたしはながいあいだ忘れていた夢遊病を起したのでございます。そしてただならぬ気配にはっと気がつくと、あたしは譲治さんと由紀ちゃんの寝室に立っていました。しかも|足《あし》|下《もと》には譲治さんが血まみれになって倒れており、由紀ちゃんがこれまた血まみれになって、あたしにすがりついておりました。姉さん、かんにんして……かんにんして……と、叫びながら……」  疲労が蒼い|隈《くま》となって松代の眼のふちをとりまいた。唇もかさかさにかわいて|色《いろ》|褪《あ》せていた。松代の眼には涙もなく、ただ痛烈な悲哀がかげのように漂うていた。 「あたしはびっくりしてじぶんの手を見ました。すると、どうでしょう、あたしの手には肉斬り|庖丁《ぼうちょう》が握られているではありませんか。……」  松代はのけぞるばかりにおどろいた。そして、じぶんのやったことなのかと妹に尋ねた。  それにたいする由紀子の答えはこうだった。  じぶんと譲治さんが寝ているところへ、だしぬけに姉さんがその庖丁をもってとびこんできて、譲治さんをズタズタに斬り殺し、じぶんもこれこのように。……  と、由紀子がみせた左の胸部からは、恐ろしく血が吹きだしていた。  松代は恐怖のあまり肉斬り庖丁をそこへ投げだし、そのままそこから逃げだしたが、その直後に起ったのがあの大空襲だった。 「なにもかもがめちゃくちゃでした。あたしは恐ろしい罪業と、あの大空襲で気が狂うようでした。一夜の空襲で|灰《かい》|燼《じん》と帰した神戸を捨てて、あたしはあてもなく疎開列車に乗りこみましたが、とても郷里へかえる勇気はありません。あたしは恐ろしい罪の思い出をいだいて、岡山県のあちこちを放浪したあげく、とうとう|辿《たど》りついたのがこの家でございます」  このとき、こらえきれなくなったかのように、松代の眼には涙がにじんだ。松代は涙のにじんだ眼をお柳さまにむけて、 「あのときのご隠居さまのご親切は、死んでも忘れることはできません。罪深いあたしをご隠居さまは、やさしい愛情で抱きくるんでくださいました。ご隠居さまがやさしくしてくださればくださるほど、あたしの心はうずき苦しみました。あたしにとって恐ろしいのは、過去の罪業も罪業でしたが、それ以上に現実に、日夜やさしいご隠居さまを、あざむきつづけているということでございました。たとえ夢遊病の発作中とはいえ、……いいえ、そのようなことはなんの弁解にもなりませんわねえ。あたしはひとを殺した女なのです。ご隠居さまのやさしいご親切を、受入れるねうちのない女なのでございます」  金田一耕助がなにかいおうとした。しかし、松代はすばやくそれをさえぎると、あいかわらずふかい哀愁のこもった声で語りつづけた。 「この春ごろからあたしの右の|腋《わき》の下に、ふしぎなおできができました。はじめのうちはたいして気にもとめませんでしたが、それがぐんぐん大きくなって、人間の顔のようになりました。あるときあたしは鏡にうつしてそのおできを見て、それが由紀ちゃんの顔にそっくりなのに気がついたとき、あたしはそのまま死んでしまわなかったのが、いまから思ってもふしぎなくらいです。そのときあたしは思ったのです。由紀ちゃんの|呪《のろ》いがこもって、このようないまわしいおできができたのだと……」  松代はふかい溜息を吐くと、しずかにひと滴の涙を指でぬぐうて、 「そのときも、あたしはよっぽど死のうかと思ったのです。あたしが死のうと考えたのは、そのときがさいしょではございません。この家へ辿りつくまで……いえいえ、このお家へ辿りついてからも、なんど死を思いつめたかしれません。しかし、意気地のないあたしには、いつもそれを決行することができないのでした。このいやらしいおできができたときも、あたしは死を思いつめ、迷い、ためらい、じぶんを叱り、ずいぶん苦しんだのでしたが、なんとそこへひょっこりと、死んだと思った由紀ちゃんが訪ねてきたではございませんか」  松代はかすかに身ぶるいをすると、 「由紀ちゃんはかえってあたしを慰めてくれました。なんでも由紀ちゃんはひどい傷だったけれど、危いところでいのちを取りとめたのだそうでございます。由紀ちゃんはいいました。譲治さんの死体は空襲でやけてしまったから、だれもあのことをしっているものはない。昔のことは忘れてしまいなさいと……」  松代の眼からまた放心のいろがふかくなってきた。彼女はうつろの眼を縁側の外へはなったまま、 「由紀ちゃんはあたしを許してくれました。しかし、由紀ちゃんが許してくれても、譲治さんを殺したあたしの罪は消えるものではございません。こういういまわしいおできができたのも、ゆうべのような出来事が起る前兆だったのではございますまいか。由紀ちゃんの呪いはやはりあたしの胎内に宿っているのでございます。ご隠居さま、先生、警部さま、ゆうべ手を下して由紀ちゃんを殺したのは、あたしでなかったかもしれません。でも、そのまえにあたしは譲治さんを殺しているのです。あたしはやっぱり人殺しの犯人でございます」  語りおわって松代はシーンと涙をのんで泣いていた。  磯川警部は唇をへの字なりに結んで、にがにがしげに渋面をつくっている。  松代はこういう告白をする必要はなかったのだ。彼女が語るところが真実としても、いまではなんの証拠も|蒐集《しゅうしゅう》することはできないであろう。あの大空襲がなにもかも焼きはらってしまって、松代の罪業はあとかたもなく消滅してしまったのだ。しかし、警部としては職業柄、こういう告白を聞いた以上、聞きずてにするわけにはいかなかった。  磯川警部が困ったように金田一耕助と顔を見合せているところへ、障子の外からかるい|咳《せき》|払《ばら》いとともに、ひくい、沈んだ男の声がきこえてきた。 「御免ください。田代啓吉でございます。ちょっとお耳に入れておきたいことがあるんですが……」      七 「御無礼はじゅうじゅう存じております。御無礼を承知のうえで立聴きしておりましたのは、いろいろわけのあることでして……ところが立聴きが立聴きですませなくなりましたので、こうして顔を出しましたようなわけで……」  火傷の男は顔半面、赤黒くてらてら光る頬っぺたをひきつらせて、静かに障子の外にすわっている。貞二君は敵意のこもった|眼《まな》|差《ざ》しで、火傷にひきつった顔をにらんでいる。  お柳さまと松代はふしぎそうな顔色だった。 「ああ、そう」  と、磯川警部はいたって気軽な調子で、 「さあ、さあ、どうぞこちらへお入りください。じつはこちらからあんたのほうへ、出向いていくつもりだったんですが……」 「はあ。それでは……」  と、部屋のなかへ入ってきた田代啓吉は、静かにうしろの障子をしめると、一同にかるく頭をさげて、 「じつはいま松代さんのお話を伺っていて、これはどうしてもみなさんに、申上げておかねばならぬと思ったことがございましたものですから……お聞きくださるでしょうか」 「はあ、はあ、承りましょう。まあ、そこへお|坐《すわ》りください」  磯川警部がすこし|膝《ひざ》をずらして席を譲ると、 「はあ、ありがとうございます」  と、火傷の男はまたかるく頭をさげると、 「そのまえに、まずわたしの身分から申上げておかねばなりませんが、松代さん」 「はあ……」 「あなたはわたしをご存じないでしょうねえ」 「はあ、あの、いっこうに……」  と、松代は薄気味悪そうな顔色である。 「いや、あなたがご存じないのは当然ですが、じつはわたしはあなたとおなじ市のうまれのものなんですよ。しかも、由紀ちゃんが神戸の葉山さんのお宅へひきとられるまで、ごく親しくご交際をねがっていたものなんです。いや、もっとざっくばらんに申上げますと、おたがいに、まあ、なにもかも許しあっていた仲なんです」  田代にジロリと|尻《しり》|眼《め》に見られて、貞二君はかっと|頬《ほお》に血がのぼったようである。 「はあ、はあ、なるほど、それで……?」  貞二君がなにかいいだしそうにするのに先手をうって、磯川警部があとをうながした。 「はあ、なにしろわたしにとってははじめての女ですから、まあ、由紀ちゃんのことが忘れられなかったわけです。ところが、そのうち由紀ちゃんは神戸のほうへひきとられていく。なにしろ、ああいう気性のひとですから……いや、じつは郷里にいるじぶんからいろいろ男と|噂《うわさ》のあったひとなんです。ご両親はご存じでしたかどうか……それで、ぼくとしても心配で心配でたまりません。むこうでまた男でもできやしないかと思うと、いても立ってもいられないわけです」 「ふむふむ、なるほど……」 「はあ……ところが情ないことにはそのじぶんぼくは徴用で、市をはなれることができない身分で、それだけにいっそうやきもきしていたわけです。ところが、そのうちにわたしは|肺浸潤《はいしんじゅん》にかかりまして……なにが仕合せになるかわからないもので、そのおかげでわたし徴用解除になったわけです」 「なるほど、それで君は由紀ちゃんのあとを追って神戸へいったというわけかな」  と、磯川警部は思わず膝をのりだした。金田一耕助やお柳さま、貞二君の三人も、|眼《ま》じろぎもせずに田代啓吉の顔を見つめている。 「はあ、わたし、徴用解除になると、さっそく神戸へとんでいきました。ところが神戸へきてみると、案の定、由紀ちゃんにはちゃんと男ができているではありませんか。それがいうまでもなく葉山譲治君でした」  と、火傷の男は貞二君にチラリと|一《いち》|瞥《べつ》をくれると、 「わたしはむろんなんどとなく、ひそかに由紀ちゃんを呼び出しました。もとどおりになってくれと|歎《たん》|願《がん》したんです。由紀ちゃんはときどきはわたしに、その、許してはくれたんです。その……体をですね。しかし、譲治君と別れようともしなかったんです」 「ああ、そう」  と、磯川警部は貞二君をながしめに見ながら、 「それじゃ、由紀ちゃんは譲治君と関係をつづけながら、しかも、君とも肉体的関係を復活していたというんですな」 「そうです、そうです。わたしのばあいは口止めという意味もあったんですが、やはり根が多情だったんですね。しかも、そういう多情なところに男というものは心をひかれるんです」 「ふむ、ふむ、それで……?」 「はあ、しかし、そうはいうもののわたしにとっては、そういう状態は耐えがたいことでした。やっぱりはっきりじぶんのものにして、郷里へつれてかえりたかったんです。そこでわたしも決心しまして、譲治君とよく話しあうつもりで、葉山家へのりこんでいったんです。いや、忍びこんだといったほうがよろしいでしょう。それが三月のあの大空襲の晩でした」  一同ははっとしたように眼を見交わせた。  磯川警部はいよいよ膝をのりだして、 「それで……?」 「はあ……」  と、さすがに田代も息をのみ、 「ところがどうでしょう。忍びこんだ譲治君の寝室は血みどろで、譲治君は|朱《あけ》にそまって死んでいる。いや、殺されていたんです。しかも、由紀ちゃんも胸にきずをうけて……」 「ああ!」  松代はとつぜん恐ろしそうに身ぶるいをすると、 「いわないで……もうそれ以上いわないで……みんな、みんな、あたしのしたことなんですから……」 「いいえ」  と、田代はあわれむように松代をみて、 「だから、ぼくは申上げなければならないんです。あれはあなたに責任のないことなんです。あれは由紀ちゃんのやったことなんです」  貞二君ははじかれたように顔をあげた。そして|噛《か》みつきそうな眼で田代をにらむと、 「馬鹿なことをいうな。由紀子がなぜ……由紀子がなぜ譲治君を殺したというんだ」 「無理心中をはかったんですよ」 「無理心中……?」 「ええ、そう」  と、田代は落着きはらった声で、 「これはあとで聞いたことですが、あのじぶん、ふたりの仲が葉山家や、由紀ちゃんの実家にしれて、由紀ちゃんは岡山へつれもどされることになっていたんです。由紀ちゃんはじぶんの魅力をしっておりますから、本来ならばつれもどされても驚かなかったでしょう。譲治君にあとを追わせるくらいの自信はもっていたでしょう。ところがいかんせん譲治君は、徴用でしばられている体です。あのころの徴用といえば国家の至上命令ですから、いかなる由紀ちゃんの魅力といえども、どうすることもできないわけです。そこで無理心中をはかったわけですね」 「そこへ君がとびこんだというわけか」 「はあ、しかし、そのまえに貞二君に一言注意しておきたいんですがね。由紀ちゃんが譲治君と無理心中をはかったからって、由紀ちゃんが譲治君に惚れてたなんて考えたら大間違いですよ。由紀ちゃんは譲治君なんかにちっとも惚れちゃいなかった。いや、あのひとは男に惚れるような性質じゃなかったんです」 「それじゃ、なぜ無理心中など……?」 「なあに、じぶんがいなくなると譲治君が、ここにいる松代君のものになる。それが由紀ちゃんにゃくやしかったんです。あのひと、ちゃんとそういってましたからね」  啓吉は気の毒そうに松代のうなだれた顔を見ながら、 「由紀ちゃんはいつもそうだったそうです。小さいときから姉さんの幸福、仕合せが、うらやましく、ねたましく、姉さんのもっているものは横奪りしなきゃ気がすまなかったそうです。それが昂じて長じてからは、姉さんの男を片っぱしから横奪りして、姉さんの悲しむ顔を見るのがなによりの楽しみになったそうです。だから、そこにいる貞二君のばあいでも、べつに好きでもなんでもなかった。ただ、じぶんがここを出ていくと、姉さんが仕合せになる。それがくやしいと、これは由紀ちゃんがハッキリぼくにいったことですから間違いはないでしょう」  さすがに貞二君は面目なさそうに顔をそむけた。顔から|頸《くび》|筋《すじ》から火が出るように真っ赤になっているのが笑止だった。 「それで、君はこっちへきてから、由紀子と関係が復活していたの」 「はあ、それはもちろん……あのひとはそんなことちっとも構わないひとですし、それにぼくに弱味を握られてるもんですから……」 「田代さん」  と、金田一耕助がそばから言葉をはさんで、 「三月の神戸の大空襲の夜のことを、もう少し詳しくお話しねがえませんか」 「そうそう、それをお話しするためにここへ顔を出したんでしたね」  と、田代は思い出したように、 「いまもいったとおり、由紀ちゃんは譲治君を松代さんにわたしたくないばかりに殺してしまったのです。そして、じぶんも死のうとしたんですが、元来、あのひと自殺などできるひとじゃありません。薄手を負うて苦しんでいるところへとびこんだのがわたしなんです。由紀ちゃんは助けてくれとわたしに|縋《すが》りつきました。助けてくれというのは、傷のことではありません。傷はどうせ浅いのですから。……由紀ちゃんの助けてくれというのは、譲治君殺しの罪をひきうけてくれというのでした。これにはぼくも驚きました。いかにわたしがあのひとに|惚《ほ》れてるとはいえ、あまりの身勝手に腹が立ったのです。そこでふたりが押し問答をしているところへ、フラフラと入ってきたのが松代さん、あなたでした」 「おお、おお、それで……それで……?」  と、大きく、強く|喘《あえ》ぎながら膝を乗りだしたのはお柳さまである。 「田代さん、田代さん、それで松代に罪をひきかぶせるように細工をおしんさったんですか」 「はあ、それを思いついたのも由紀ちゃんでした。わたしはじっさいあのとき驚いたのですが、由紀ちゃんは松代さんに夢遊病の性癖があることをしっていたんです。それで、松代さんに罪をなすりつけようと、その手に血まみれの庖丁を握らせたんです。そして、わたしにすぐ出ていくようにと……」 「ああ、それじゃ松代は……それじゃ松代は……?」 「ご安心ください。松代さんにはなんの罪もないのです。この話はけっして|嘘《うそ》じゃないんです。その証拠には、ぼくはその夜の空襲で、このように醜い顔になったんです。それにも|拘《かかわ》らず由紀ちゃんは……あの面喰いの由紀子は、死ぬまでぼくのものだったんです。こっちへきてからも、ぼくの自由になっていたんです。由紀ちゃんはぼくに殺人の秘密を握られている。だからこういう醜い男でも、眼をつむって抱かれなければならなかったんです」  田代は醜い頬をなでながら|物《もの》|凄《すご》い微笑をうかべた。ゾーッと鳥肌の立つような薄気味悪い微笑であった。 「ときに、田代さん」  と、金田一耕助が思い出したように、 「あなた、天狗の鼻の本柵が鋸でひききってあったことをお聞きじゃありませんか」 「ああ、あれ!」  とつぜん、田代の瞳に怒りの炎がもえあがるのを見て、 「あなた、あれについてなにかお心当りが……」 「あれは……あれは……由紀子がぼくを殺そうと企んだんです」 「ああ、そう、それではそのいきさつをお話しねがえませんか」 「はあ……」  田代はハンケチで額の汗をぬぐうと、 「けさ、天狗の鼻の木柵が鋸でひききってあって、貞二君があやうくそこから|顛《てん》|落《らく》するところだったときいたとき、わたしは怒りのためにふるえました。ぼくたちはゆうべ一時ごろ、天狗の鼻で逢う約束だったんです。由紀ちゃんはこういいましたよ。あたしが|磧《かわら》からハンケチをふるから、あなたは木柵から身を乗り出して、おなじようにハンケチをふって頂戴と……」 「それで、あなたは出掛けなかったんですか」 「いいえ、出かけましたよ。一時半ごろここを出かけたんです。ところが天狗の鼻へいきつくまえに、由紀ちゃんの死体が淵にうかんでいるのを見つけたんです。それで、そこから引返してきたんですが、もし、そうでなかったら……ぼくが泳ぎのできないことは、由紀ちゃんもよくしっていましたから……」 「ああ、ああ……」  お柳さまがふたたび重い口で叫んだ。 「松代はなんにもしらなんだ。松代はなんにもしなかった。松代はやっぱりわたしの思うていたとおりじゃ。松代は|生娘《きむすめ》じゃった。由紀子は……由紀子は……」 「あっ、ご隠居さん!」  磯川警部と金田一耕助が左右から腕をのばしたとき、お柳さまは|蒲《ふ》|団《とん》のはしをつかんで、まえのめりにのめっていた。      八  隠居所へかつぎこまれたお柳さまは、その後もながく|昏《こん》|睡《すい》状態をつづけていた。駆けつけてきた医者によって、どんなことがあっても、絶対に体をうごかしてはならぬと厳命された。  自殺未遂におわった松代はもうじぶんの健康どころではなかった。彼女は昼も夜も隠居所へつめきって、憂わしげな眼で昏睡状態にある老婆の、いくらかむくみのきた顔を視つめていた。それは見るものをして感動を誘うような情景だった。  由紀子の葬式をおわった夜、お柳さまはちょっと意識を取り戻したが、しかし、すぐまた昏睡状態におちいった。この間における貞二君の気のもみようは、たいへんなものだったようだ。かれはこのまま母を死なせたくなかったらしい。このまま母に死なれてしまっては、じぶんは生涯立ちなおれないだろうと思われるのだった。  かれはしつこく医者にお柳さまの容態について訊ねていたが、医者もそれにたいして判然たる返事をする自信がなかったらしい。こうした不安な状態のうちに二日とたち三日と過ぎていった。 「金田一先生」  と、磯川警部はうかぬ顔色で、 「すみませんでした。けっきょくまた先生のご静養をふいにしてしまいましたね」 「いや、いや、警部さん、そんなこと気になさることはないんですよ。これで結構ぼくは清閑をたのしんでいるんですから……」 「いや、そうおっしゃられるとどうも……」  と、磯川警部はためらいがちに、 「しかし、先生、こうなると由紀子がどうして|溺《でき》|死《し》したのか、わからなくなってしまいましたね。自殺か、他殺か、過失死か……」 「警部さん」  と、金田一耕助は空にういたいわし雲に眼をやりながら、 「そのことについちゃご隠居さんが、なにかしってらっしゃるんじゃないでしょうかねえ」 「隠居が……?」 「だって、ご隠居さんは卒倒なさるまえに、由紀子は……由紀子は……と、おっしゃったじゃありませんか。あのとき、ご隠居さんはなにをおっしゃるおつもりだったんでしょうねえ」 「金田一先生」  と、磯川警部はその横顔を視まもりながら、 「あなたはあのとき、隠居がなにをいおうとしていたとお思いですか」 「さあ……」  と、金田一耕助は口許に奇妙な微笑をうかべて、のろのろとした口調で、 「それはわかりませんねえ。ご隠居さんにお聞きしなければ……しかし……」 「しかし……?」 「ええ、そう」  と、金田一耕助はきゅうにいきいきとした眼つきになって、 「警部さん、ご隠居さんはかならずいちどは覚醒しますよ。あのひとにはいいたいことがあるんです。それをいわないかぎりあのひとは、死ぬにも死にきれないでしょうからねえ」  金田一耕助のその予言は的中した。そのつぎの日の夕方ごろ、お柳さまははっきりと意識をとりもどした。  それを聞いて金田一耕助と磯川警部は、すぐに隠居所へかけつけたが、意識をとりもどしたとはいうものの、お柳さまは生ける|屍《しかばね》もおなじことだった。彼女は身動きはおろか、口をきくことすらできなかった。ただできるのは瞬きをすることと、目玉を動かすことだけだった。  それでも耳はきこえるらしく、金田一耕助と磯川警部がかけつけたとき、お柳さまは隠居所のすぐ外を流れている|谿流《けいりゅう》の音に耳をすましているらしかったが、その顔にはなにかひとをゾーッとさせるような物凄い微笑がきざまれていた。  お柳さまは金田一耕助と磯川警部の姿をみると、なにかいおうとするかのように、口をわなわなと動かした。しかし、言葉が出ないと気がつくと、にわかに眼玉をぐるぐるはげしく廻転させはじめた。 「警部さん、母はなにかいいたいことがあるんじゃないでしょうか」  お柳さまの眼の動きをみて貞二君が磯川警部のほうをふりかえった。磯川警部は金田一耕助の顔を見た。 「ああ、そう、松代さん、あなた聞いてごらんなさい。これはあなたがいちばん適任だ。眼の動きによってなにか判断してみましょう」  金田一耕助の言葉に、 「はあ……」  と、松代は涙声で答えると、お柳さまの耳に口を当てて、 「ご隠居さま、なにかおっしゃりたいことがございますか。金田一先生がご隠居さまの眼の動きで、判断しようといってらっしゃいます」  お柳さまは唇をつぼめて微笑をうかべると、その眼は一同の頭上をこえて押入れのほうへむかっていった。 「先生、ご隠居さまのおっしゃりたいのは、あの押入れのなかじゃございますまいか」 「そうらしいですね。貞二君、押入れのなかを調べてみたまえ」  貞二君は押入れの|襖《ふすま》をひらいて、ふしぎそうになかを探していたが、とつぜん大きな声をあげた。そして、そこに積んである蒲団のあいだから引っ張りだしたのは、派手なお召の着物だった。 「あっ、こ、これは由紀ちゃんの着物じゃないか。帯も……|長《なが》|襦《じゅ》|袢《ばん》も……」  一同は弾かれたようにお柳さまのほうをふりかえると、凍りついたようにシーンとしずまりかえった。お柳さまのその顔には、いかにも満足そうな微笑がうかんでいるのである。  松代と貞二君は|怯《おび》えたように眼を見張って、大きく息を|喘《はず》ませている。  そのときお柳さまははげしく瞬きをすると、また眼玉がぐりぐりと廻転をはじめた。松代はその視線を追うていたが、やがて部屋のすみにある、脚のついた大きな木製の|耳盥《みみだらい》に眼をとめると、 「ご隠居さま、この耳盥のことでございますか」  お柳さまはそうだといわぬばかりに、またはげしく瞬くと、満足そうに頬笑んでみせた。  金田一耕助はふしぎそうにお柳さまと、その木製の耳盥を見くらべていたが、とつぜんあることに思いあたったらしく、はっとしたように眼を見張った。  そして、いそいでお柳さまの耳に口をよせると、 「ご隠居さん、ご隠居さん、あなたがおっしゃりたいことを、わたしがかわってこのひとたちに申上げてもかまいませんか」  お柳さまはだまって金田一耕助の顔を見まもっていたが、やがて満足そうにまたたきをした。  金田一耕助はちょっと沈痛な顔色で、貞二君と松代のほうをふりかえると、 「貞二君、松代さん、ご隠居さんはね、由紀ちゃんを殺したのはじぶんだということをいいたがっていらっしゃるんですよ。ご隠居さん、そうでしょうねえ」  お柳さまは満足そうに口をつぼめてまたたいた。  貞二君はしばらく|唖《あ》|然《ぜん》として、金田一耕助の顔をにらんでいたが、やがてさっと満面に朱を走らせると、 「そんなバカな……そんなバカな……母は畳を|這《は》うよりほかには、身動きもできない体だったじゃありませんか」 「いや、それで十分だったんですよ」  と、金田一耕助はお柳さまに聞えるように、大きく声を張りあげて、 「人間を溺死させるには、なにも大海の水を必要としないのです。そこにある耳盥いっぱいの水でも、十分に目的を達することはできます。由紀ちゃんはその耳盥に顔をつけた。そこをご隠居さんがうえからおさえつけた。いや、うえから全身をもってのしかかっていったのでしょう。ご隠居さんは身動きこそ不自由ですが、そのくらいのことはできましょうし、あのとおり肥満していらっしゃるから、由紀ちゃんはそのまま水をのんで死んでしまったんです。ご隠居さん、そうでしょうねえ」  お柳さまはまた満足そうにまたたいた。その顔には誇らしげな微笑さえうかんでいるように見えたのである。 「しかし……しかし……」  貞二君はまだ半信半疑の顔色で、 「由紀ちゃんはなぜ、盥のなかへ顔をつっこんだんです。なぜまたそんなバカなまねを……?」 「貞二君」  と、そのとき、そばからおだやかに言葉をはさんだのは磯川警部である。 「それは君の質問とは思えないね。薬師の湯は眼病に効くというし、由紀ちゃんは眼病を患っていたというじゃないか。由紀ちゃんは隠居のまえで洗眼をしていたんだろう。いや、洗眼をするように隠居がしむけたんだろう。隠居、そうじゃありませんか」  磯川警部の質問に、お柳さまは満足そうにまたたきをすると、また目玉をぐりぐり廻転させて、窓のほうへ視線を走らせた。 「ああ、そうか」  と、磯川警部は大きくうなずくと、 「ご隠居さん、あんたはそれから由紀子を素っ裸にして、その窓からうらの谿流へ死体を投げ落したんですね」  お柳さまの満足そうな微笑とまたたき。…… 「そして、由紀子の死体は谿流づたいに稚児が淵へ流れていったんですね。それが八時半から九時半までのあいだの出来事だったんですね」  またしてもお柳さまの満足そうな微笑とまたたきである。 「金田一先生」  と、磯川警部は金田一耕助のほうをふりかえると、 「ありがとうございました。これで事件は解決しました。由紀子の全身についていたあの擦過傷は、稚児が淵の岩礁でできたのではなく、いや、それもあったでしょうが、それ以前に谿流をながれていく途中でできたのですね」  金田一耕助は暗い眼をして無言のままうなずいた。  とつぜん、貞二君の咽喉から嗚咽の声がもれはじめた。貞二君は腕を眼におしあてたまま、子供のように声を立てて泣きはじめた。  お柳さまが心配そうにその顔を見まもっているのを見ると、金田一耕助がやさしくその背中に手をかけた。 「貞二君、お母さんがなぜそんなことをなすったか、君にもわかっているでしょうねえ」  貞二君は腕を眼におしあてたまま、二、三度強くうなずいた。 「ああ、そう、それではあなたはお母さんにお|詫《わ》びしなければいけませんよ。松代さん」 「はい」 「あなたは貞二君のそばについていてあげてください。警部さん」 「はあ」 「われわれはもう失礼しようじゃありませんか。あなたのご用はもう終ったようですよ」 「ああ、そう、じゃ……」  ふたりが障子の外へ出たとき、 「お母さん……お母さん……」  と、貞二君が子供のように泣きわめくのが聞えた。  お柳さまはその夜しずかに息をひきとったが、おそらくそれは大往生だったことだろう。  金田一耕助と磯川警部のふたりは、お柳さまの初七日をすませてから薬師の湯をたつことになったが、その間ふたりは貞二君や松代と、しんみりと話しあう機会をもった。 「貞二君、君は松代君と結婚するんだろう」 「はあ、そうしたいと思っております」 「いつ……?」 「できるだけ早くしたいと思っておりますが……」 「そのほうがいいね。お母さんの一周忌を待とうなんて考えないほうがいいんじゃないか。そのほうが故人の遺志にそうというもんだ」 「はあ、わたしもそう思っております。できたらことしのうちにも式を挙げたいと思っているんですが……」 「ああ、それがいいね。そのほうがお母さんも安心なさるだろう」 「ときに、松代さん」  しばらく沈黙がつづいたのちに金田一耕助が口を出した。 「はあ……」 「あなたのあの|腋《わき》の下のおできですがねえ」 「はあ……?」  と、松代の顔にはちょっと怯えたような色が光り、それから頬を真っ赤にそめてうつむいた。 「それ、いちどしかるべきお医者さんに診てもらったらどうかと思うんです。なんなら磯川警部さんにO大のT先生でも紹介しておもらいになったら……」 「先生」  と、貞二君が真剣の色を眼にうかべて、 「金田一先生はあのおできについて、なにかお心当りが……?」 「はあ、ちょっと考えてることがあるんですが……」 「金田一先生、それはどういう……あなたになにかお考えがおありでしたら、ここで貞二君や松代さんにいってやってくれませんか」 「いやね、警部さん」  と、金田一耕助はいくらか|羞《はじ》らいの色をうかべて、 「これはぼくの妄想かもしれないんです。しかし、いちおうたしかめてみる価値はあると思うんですよ。松代さん」 「はあ……」 「あなた、小さい時分から由紀ちゃんにたいして一種の罪業感をもっていられた。絶えず妹さんにすまない、すまないと思いつづけてこられたということですが、なにかあなた由紀ちゃんにたいして罪の自覚がおありですか。由紀ちゃんにたいしてすまないことをしたというような……」 「さあ、それがいっこうに……ただ、あたしは長女にうまれたものですから、なにかと両親に可愛がられてきましたから……」 「しかし、それじゃ、ご両親は由紀ちゃんをとくにうとんじてこられたんですか」 「いいえ、べつにそんなことは……」 「それじゃ、そんなことあなたの罪業感の理由にはなりませんね。ねえ、警部さん」 「はあ」 「これはあくまでわたしの妄想なんですが、松代さんが罪業感をいだきつづけてこられたのは、由紀ちゃんじゃなく、もうひとりの妹さんじゃないかと思うんですよ」 「まあ!」  と、松代はおどろいて眼を見張り、 「だって、先生、あたしには由紀子よりほかに妹はいないんですけれど……」 「いいえ、あなたのその腋の下に顔を出している妹さんですね」 「あっ!」  と、叫んで磯川警部は松代の顔を視なおしたが、すぐなにかに思いあたったらしく、 「ふうむ!」  と、ふとい鼻息を鼻からもらした。 「先生、金田一先生!」  と、貞二君は|膝《ひざ》をのりだして、 「そ、それはどういう意味なんです。腋の下に顔を出している妹というのは……?」 「いやね、貞二君、警部さんはいま思い出されたようだが、戦後こういう記事が新聞に出たことがあるんです。あるところのお嬢さん……ちょうど松代さんくらいの年頃のお嬢さんなんですがね、そのひとの腋の下に原因不明のおできができた。それでお医者さんに切開してもらったところが、人間の歯や髪の毛が出てきたんですね。そこでO大のT先生に改めて鑑定を請うたところが、そのお嬢さん、双生児にうまれるべきひとだったんですね。ところが摂理の神のいたずらで、双生児のひとりがそのお嬢さんの胎内に吸収されていたんだそうです。それが生後二十何年かたって、歯となり髪の毛となって、お嬢さんの体の一部から出てきたというんです。松代さんのあのおできもそれとおなじケースじゃないかと思うんですが、警部さん、あなたどうお思いになりますか」 「いや、そうでしょう。きっとそうです」  と、磯川警部は強くうなずいて、 「それで松代君のもっている理由のない罪業感も説明がつくわけです。松代君はじぶんの体内に吸収されている、ふたごのきょうだいにたいして罪業感をもっていた。つまりそのきょうだいの出生をさまたげたという罪業感ですな。ところが松代君はそういう妹の存在をしらないものだから、それがいつのまにか由紀子にふりかえられていたというわけですな」 「それで、先生」  と、貞二君はいよいよ膝をすすめて、 「そのお嬢さん、おできを手術したお嬢さんですが、そのご経過はどうなんですか」 「いや、なんともないそうですよ。これ、珍しいケースですからね。こちらへくるまえにT先生にお眼にかかって、そのお嬢さんについてお訊ねしてみたんです。そしたらその後結婚して、赤ちゃんもうまれ、べつになんの異状もないそうですよ。貞二君」 「はあ」 「これ、ぼくの妄想かもしれませんが、いちどT先生に診ていただく価値があるとはお思いになりませんか」 「先生」  と、貞二君と松代はふかく頭をたれて、 「ありがとうございます。それはぜひ」  金田一耕助はその翌日薬師の湯をたって帰京したが、それから一週間ほどして貞二君からていちょうな手紙がとどいた。  その文面によると、T先生に診ていただいたところ、やはり先生のお説のとおりであった。そこでさっそく切開手術をしていただいたが、その結果はしごく良好である。T先生からもいずれ医学的な報告がそちらのほうへとどくはずであるが、とりあえずわたしから、お礼かたがたご報告申上げるしだいである。松代の患部から出たもろもろの諸器官はO大へ保存されることになっているが、われわれはその一部分をもらいうけ、松代の退院を待ってあつく葬るつもりである。これによって松代の罪業感も消滅するであろうと、T先生もいっておられる。松代からもお礼の手紙を差上げるべきであるが、まだ右手が使えないので失礼するが、くれぐれも先生にお礼を申上げてほしいということである云々とあり、さいごに十一月の上旬に結婚する予定であると結んであった。 本書中には、今日の人権擁護の見地に照らして、不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品発表時の時代的背景と文学性を考え合わせ、著作権継承者の了解を得た上で、一部を編集部の責任において改めるにとどめました。 [#地から2字上げ](平成八年九月)  金田一耕助ファイル6 |人《じん》|面《めん》|瘡《そう》  |横《よこ》|溝《みぞ》|正《せい》|史《し》 平成13年11月9日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Seishi YOKOMIZO 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『人面瘡』平成8年9月25日初版発行          平成13年7月10日11版発行